平成26年3月 第2556号(3月12日)
■地方私大からの政策提言
「公共財」としての私大への耐震改築補助を評価
長岡造形大学が公立(長岡市立)大学法人に移行することで、「志願者続々13年度の3倍」の大見出しが昨年末の新潟日報紙の紙面を飾った。志願者数増加の理由は、公立化で14年度から国の支援が拡大し、年間の学費が半額以下の約58万円になるからという。
同大は1994年に長岡市が設置の公設民営大学として発足した。長岡市が位置する新潟県の中央部は、精密機械、金属食器、繊維被服、食品産業等の集積地であって、その中心地に時宜を得たものとして歓迎された造形大学にしても、ここ3年連続の入学定員割には抗し難く、起死回生策を学費負担軽減に求めた。造形大と同じ公設民営大学は全国に7校あったが、すでに4大学が公立大学法人に移行しているという。「学費負担の不公平」は戦後の所産である。戦前の旧制県立中学校の授業料月額5円は、経常費を賄うに足りる金額であった。
公私の授業料に大差を生じたのは戦後の猛烈な物価上昇に相応する授業料改定を、国は避け私学は避け得なかったからである。仮に何処かの県知事が県内私学の県立学校法人移行を認める場合に、逆風下の私学が「建学の精神」との折り合いをどうするか?政府はこれを歓迎するのか?財源難を理由として国の支援(特別地方交付税)に難色を示すのか?興味深いところではある。学費負担の軽減には例えば英国ではわが国の赤字企業の「欠損金繰越控除」に似た過去授業料の還元措置や低所得者への「学費ローン返済猶予」制度がある。税制面からも公的支援を期待したい。
今回の耐震改築補助は画期的な私学助成の展開と評価したい。学校校舎はこれをホテルやオフィスに転用出来ない「公共財」である。「校舎は私有財産だから補助対象にならない」とする偏見は消滅したと考えたい。
市町村合併の反対理由に「集落の生命は学校と道路」。この合併案では将来に責任が持てないとの代表者の主張に、草の根自治に根差した教育を実感したものだが、いま地域の教育意識自体が消滅の危機にある。
戦後のわが国社会の激しい変化が教育に及ぼした影響と戦後の教育制度の変遷の功罪も大きかった。戦後に新設された教育委員会(予算編成権の付与がなかった)が十分に機能し得なかったことを反省すれば、より早期に教委の権限強化策が必要だった。また人事の掌握が経営に必要不可欠なのは常識なのに小、中学校教員の人事権は学校管理者の市町村でなく府県にある(広域人事は市町村事務組合で解決出来るのにである)。どこにも責任を負うことのない教員組合の干渉と事なかれ主義の管理者との存在が相俟って生じた「事勿れ、消極主義」教育の弊害は、正常化の努力に拘らずなお一部の学校に残存している。
経済の高度成長が齎した教員身分の地盤沈下も軽視できない。戦前には貧しい家の「出来る子ども」は官給の師範学校に入学し教員を目指した。給与所得者が少数の時代でもあって「先生様」の尊称があった。教育に敬意が払われる為には教員への尊敬が必要であり、その為には相応の高給が必要と考える。保護者一般の高学歴化も教員の社会的地盤沈下に大きく影響しているはずだ。学級編成の子どもの数を減らすのと給与の引き上げと二者択一ならば給与の引き上げがより教育に効果的と私は考える。
戦後のベビーブームに由来する高校生急増の結果、高校教育は、普通高校優位のほぼ全員入学と言えるようになった。
組織はその構成員数の多少で性格が変わる。進学率30%程度のエリート時代の学生、生徒は良くも悪くもエリート意識と目的意識を持っていたであろう。(旧制高校生はエリート意識と国士?的目的意識だけで存在理由があった)高校教科の学習に堪えない生徒が大部分を占める一部の高校の教員は、生活指導だけで疲労困憊して本来の教育に手が廻らない恐れがある。
ここで「本来の教育」とは生徒と目線を同じくする基礎学力の強化であり、「目的意識」とそれに必要な「共同体意識」を身に付けさせることである。しかしながら小中学校時代にこれらの意識にも学習意欲にも無縁だった生徒の意識を変えることは容易ではない。更に言えば、若者の「無」目的性や「非」共同体意識は、飢餓の心配と共同体の庇護を必要としない先進国の社会病でもある。高校生急増が大学生急増に及んだことで、教育の希薄化が特に地方中小大学に影響を及ぼした。その多少には学校差があるはずだが、これら教育難民を「自己責任」の結果として、企業のOJTに任せるか、福祉の対象とするか、最期の拠り所としての役割を大学での人間改造に期待するかの選択になるだろう。(私は文系教育しか知らない。医、理工系教育の少数、現場主義には別の景色がある?)
私には最近「学長冥利に尽きる」とも言うべき嬉しいことがあった。大学の3年次編入を希望する短期大学部の学生が複数の難関大学に合格しての、私への感謝の言葉である。
「元々私は勉強嫌いで何の目標も持っていませんでした。高校を卒業後、2年後どうするのか不安なまま青陵に入りました。しかし、この短大で尊敬する先生方に出会い、また勉強の楽しさがわかるようになり、遂に自分の目標を見つけることが出来ました。そして結果的に編入することができました。大げさかもしれませんが、自分としては“何とか生き延びることができた”というのが今の気持ちです。
私は今まで幾度もチャンスに気づかずに来てしまいましたが、最後にこのような機会を与えてくださり本当にありがとうございました。編入してからも青陵で学んだことを忘れず、青陵を代表するつもりでその名に恥じぬようにがんばっていきます。」同君を良き先例として学生たちは「自分の目標」を見つけることの貴重さを知り、サポートして呉れた先生方との「共同体意識」にも目覚める。そのことを確実なものにすることで(典型的地方中小大学の)本学園は地域社会に確固不動の地位を占めるであろう。
せき しょういち
新潟県南魚沼市出身。1951年東京大学法学部卒。'56年福井県厚生部医務課長、'75年自治大臣官房会計課長、同年新潟県副知事、'96年新潟青陵学園理事長・短大学長