アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.546
補習授業から高大接続教育へ
開放的な大学の教育課程の構築を
高等教育と中等教育との接続の問題は、教育政策、学校制度、教育文化など幅広い観点から議論されるべきだろう。しかしここでは、紙面の関係から、具体的なカリキュラム、特に大学における教養・基礎教育に焦点をしぼって述べてみたい。
かつて勤務先の大学で、教養科目のコースツリーをつくるときに、「人文科学や社会科学の専門教育が前提とする共通の素養とは何か」が問題になったことがある。文系学部の教員と議論をしたが、どうもよくわからない。外国語を含めて「言語力」のレベルが重要だという点では一致していたが、科目までブレークダウンしてみると、「近代史ぐらいかな」ということになった。あとは自分の学部・学科ではじめからきちんと教育できるという。「はじめから」といっても、特に順序性が重要ということでもなかった。
このような場面で表立って議論されることは少ないが、実は文系分野の数学をどうするかという問題は深刻さを増している。最近、様々な分野で多変量解析が分析手段として使われるようになったが、ベクトル解析の基礎理論を多少なりとも勉強しておかないと、解析部分がブラックボックスになって危ないだろうと思う。文系では今後数学がますます重要になるが、文系学部で、それをきちんとカリキュラム化しているところは少ない。
一方、理系の各専門分野にとって基礎教育のコースツリーは専門教育の質に影響を与える重要な問題なので、それぞれの立場から、科目のみならず単元にいたるまで、さまざまな要望が出されている。これらのリクアイアメントを大学のカリキュラムに反映させようとすれば、高校までの履修歴が問題になる。このようにして接続の問題は、文系の数学の問題を含めて、高校までの自然科学分野の履修歴と大学のカリキュラムとの間にあるギャップをどう埋めるかという問題に還元される。
中等教育の各科目の教程は指導要綱できちんと決められているので、高等教育はその到達点を始点とすれば良いということになっている。しかし、この建前には二つの矛盾がある。
第一の矛盾として、高校生には科目選択の自由があり、かつ大学は入試科目を増やせないという事情があるために、大学の多くの科目で明確なスタートラインが設定できないということがある。特に近年は、高校生のあいだの「物理ばなれ」がひどくなって、物理のみならず他の自然科学系の教育に深刻な影響を与えている。
第二の矛盾として、高校までの教育課程と接続するはずの大学の教育課程が必ずしも明確ではないということがある。この曖昧さは、ひと昔前まで「大学らしさ」の象徴とされていたが、私には単に大学教員が怠慢だったせいとしか思えない。
かつて特色GPで、工学系数学の学力の評価と保証を目指した広島大と山口大のグループの取組が採択された(平成17年度)。その報告で、工学部の学生の多くが、自分たちが習った数学は通用性がないのではないかと心配しているということを聞いて、痛ましい思いがした。ちなみに、工業数学でよく使われている教科書を開いてみると、特殊関数を含めて工学で使いそうな数学が網羅されているが、実践的な課題や例題などを省略したいわゆる「カタログ教科書」や「アリバイ教科書」が多い。教程として必須の教育・学習戦略が示されていないのだ。
ただし、ディシプリンとしての数学は、大学の教育課程の構築にもっとも熱心な分野の一つであることを急いでつけ加えておきたい。1990年代から日本数学会は数学の「学力崩壊」に危機感をもち、組織的な調査を行っている。特色GPでは、上の例に加えて、大阪府立大学の高橋哲也教授のグループが大学初年次数学の構築に取り組み、その後も英雄的な努力を続けている(平成19年度採択)。
接続の矛盾を指摘しただけで紙面が尽きようとしているが、もちろん、解決の方法はあるし、なすべきこともはっきりしている。
一つの方法は、大学の初年次向けに「速習コース」を開設することである。例えば、アメリカ化学会が総力をあげて作った入門化学の教科書は、レターサイズで800ページもある。元素記号や周期表まで丁寧に説明しているので、日本の教員は高校レベルの教科書と誤解するが、内容を辿っていくと、反応論、構造論、有機生物化学の各領域で、単元ごとに課題を設定し、実験の例を示し、ウェブを参照させて、大学レベルの化学に自然に入っていけるように編集されている。さらに、先端的な化学が現実の社会で役立っている様子が印象的に紹介されている。
アメリカの大学では、このような教科書を使って、まるでショーのような大型クラスの授業を週3回行い、さらに週1回、少人数クラスに分けて、集中的な討論・実験を3時間から4時間かけて行っている。それが可能なのは、セメスターあたりの履修科目の数をしぼって、学生が一つの科目に集中できるようにしているからだ。このようにして、多様な履修歴を持つ大学生の学力を、2セメスターで日本の大学の2年前期修了のレベルまで一気に引き上げる戦略が確立されている。
もう一つの方法は、自然科学の各分野をインテグレート(統合)することである。それぞれのディシプリンでは、歴史的ないきさつから固有の教程ができていて、そのままでは相互に無関係に授業をしてしまう。しかし対象は同じ自然なので、内容において相互に融合させて教程をつくることは可能だし、その方がわかりやすい場合も多い。例えば、ビッグバンから軽原子、重原子が誕生するまでのプロセスを一貫したストーリーとして伝えるためには、物理と化学の仕切りはむしろ邪魔になる。また、生命進化の教程は地学と生物学の分野が協力してつくる方が自然だと思う。統合化した科学は、分野の壁が無いために社会との関係がより直接的で説明しやすい。筑波大や北海道大で統合科学の授業づくりにかかわった経験から言えば、学生が自然科学を学ぶモチベーションは、生活や社会との繋がり強いほど高くなる。
高校未履修者への対策として、いわゆる補習教育の必要性が盛んに言われるようになった。退職した高校教員を非常勤講師に雇うとか、予備校の助けを借りるなどという話をよく聞く。場合にもよるが、私自身はこのような傾向に賛成できない。だいいち、高校までの科目間の壁に少しも手を触れていない。高校生と大学生では発達段階が違うので、学習のモチベーションも知識の構築過程も別ものと考えた方が良い。未履修者だからといって大学生に対して高校生向けの授業を与えるのは、教育課程に対する大学側の責任放棄だと思う。
大学入学者の履修歴の多様化は必然であり、少子化に伴ってこの傾向はさらに進むだろう。学力低下を嘆く前に、高校の課程を一部包括した開放的な「大学の教育課程」の構築を進めなければならない。それを可能にするのは、教育課程に対する教員の強い責任感と、機関をあげた真摯な取組みだと思う。