アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.534
大学教育における教員の役割と課題
人を育てる営み噛みしめて
求められるFD像の転換
学生の能力を発達させ、市民社会を支える教養を培い、職業生活を切り拓く知識・技能を形成することは、大学教育の普遍的な使命であり、切実な課題の一つである。その実現には多様なアプローチがあるが、中でも大学教員の能力を高めることは、最も優先されるべきである。いわゆるFDは、この用語が「輸入」される以前、全国的には共通一次試験による「偏差値輪切り」現象を契機とした授業改善運動として1980年代に始まり、旧一般教育学会が欧米のFDを紹介・移入し、98年大学審議会答申がその必要性を説いたことで普及したが、理論的にも実践的にもまだ不十分である。東北大学高等教育開発推進センターは、東北大教員調査(2008)、東北地域高等教育機関教員調査(2010)、米・英・豪・加を対象にした国際調査(『ファカルティ・ディベロップメントを超えて』2009)、文部科学省委託調査による12カ国を対象にした『諸外国の大学教授職の資格制度に関する実態調査』(2012)を重ね、2010年からは教育関係共同利用拠点の認定を受け、UCバークレー校、メルボルン大学、クィーンズ大学と連携し、大学院生・教職員の能力開発プログラムを開発・提供し、実践面でも経験を蓄積してきた。その成果を『大学教員の能力―形成から開発へ―』(東北大学出版会、2013年)として出版し、来年1月には、北米高等教育専門性開発ネットワーク(POD)のファカルティ・ディベロップメント・ハンドブック(第2版、2010年)の翻訳を出版する。本稿では、これらの活動にもとづいて、日本で流布してきたFDに関する問題点と大学教育の課題について述べてみたい。
FDは誰のためのものか?
最近日本でもFDを教員個人の授業改善では狭すぎるので、教授団と捉えるべきという主張が見られるが、米国では早くも70年代後半からFDに対する批判があった。その中核は、「教員個人への理解を欠いている」ことにあった。クィーンズ大学を訪問した時に感心したのは、優れた教員を採用するために様々な努力を払い、教員の伴侶に対する仕事の世話まで掲げていたことである。メルボルン大学では、職員の家族のクレジットの相談まで大学の業務として行っていた。海外でのFDは教員個人のために行われている。これらはマネジメント理論から見ても何の不思議もない。テーラーの『科学的管理法』(1911年)が示した作業標準化による効率化は、初期マネジメント理論の代表的なものであるが、このアプローチは過去のものである。1920年代のホーソン実験によって、従業員の満足感と動機づけが作業能率に大きな役割を果たすことが明らかになり、有能なリーダーとは、働く人間の満足度を高めるマネジメントが出来る人を指す。このことは、成果主義が喧伝されたときに、高橋伸夫『虚妄の成果主義』(2004年)が分かりやすく示した。「内発的動機づけ」が重要なことは、大学の場合にもっともよく当てはまる。大学教員は、平均以上の知的能力を備え、それぞれの分野で大変な努力を積み重ね、厳しい選抜を経て教授職についている。彼らの意欲と動機を高め、活動に参加させることが大学運営とFD活動に求められるのに、日本においては大学教員の動機づけが政策的に重視されてこなかった。あえて言えば大学教員は改革の対象であり、大学執行部が指示・命令して動かすものと思われているようである。教員を客体にするような教育改革はあり得ない。教員のニーズに応え、環境を整備し支援を行い、大学の活動の質を高めることが教育改革とFDの本質的役割であることを共通理解とすべきであろう。
大学教員は大人を育てる使命がある
大学教員に求められる能力像も問題である。オースチン&マクダニエル(2006)が各種研究から総合した大学教員の能力像は、社会人としての常識や市民性を含めた全人的(Holistic)なものである(Preparing the Professoriate of the Future:Graduate Student Socialization for Faculty Roles論文は、Higher Education:Handbook of Theory and Researchの第21巻に収められている)。しかし、日本ではこうした全人的な教員像は示されず、「研究重視か教育重視か」という2項対立的な能力観が提示されることが多い。興味深いことは、OECDのキー・コンピテンシーも近年よく引用されるが、カテゴリー1(技術を相互作用的に利用する能力)が汎用的能力と関わって注目され、カテゴリー2(異質な集団での交流)及び3(自律的な活動)について言及されることが少ないことである。いうまでもなく、カテゴリー2、3は市民社会の主人公に不可欠なものであり、政治社会の担い手としても求められるものである。大学教育改革の論議に参加・観察して感じることは、欧米圏の学生論に当然織り込まれている近代市民社会の市民像(大人)が、日本の議論に欠けるか希薄なことであり、これと照応して、青年を大人に育てる役割としての大学教員像が欠落し、単なるスペシャリストとして扱われていることである。大学教員は、プロフェッション(専門家)であり、その要件には、社会に対する責任・倫理と価値観を備えることが必須である。成熟した市民,価値の担い手としての大学教員像を共通理解にしていく必要がある。
教養ある専門家を育てる大学・大学院教育を
大学教育の課題は、育って社会の第一線に立っている人々の在りようから帰納されてくる面がある。大学関係者が直視すべきは、ボーダーフリー大学の教育だけでなく、いわゆるエリート大学における教育である。原発事故への政府・官庁・東電の対応のち密なルポ『カウントダウン・メルトダウン』(大宅壮一賞)の著者船橋洋一氏は、事故対応を通じて現れた日本のエスタブリッシュ層の知性を「タコつぼインテリジェンス」と名付けた。属する組織と人間関係の論理と利害に縛られ、真正面から災害に立ち向かえない人々の姿は、事故以上に恐ろしい。筆者も震災を経験した中で同様な感想を持っている(「私の東日本大震災日誌―京都市・東京都・仙台市・南相馬市・東広島市―」『東北大学高等教育開発推進センター紀要』第7号、2012)。大学教育を論じる人間としてこの問題を受け止めるなら、専門研究にのみ没頭させるのではなく、社会や人間の課題にも関心を持ち、大学・大学院教育で多様な社会経験をさせること、異分野の学生・研究者との交流を通じた視野の広がりを育てる教育システムを作ることである。大学教員準備プログラムと新任教員プログラムをこの4年間実施したが、参加者は、他分野の同僚と意見交換する機会の新鮮さと視野の広がりを高く評価していた。現在の正統化された教育では、学部入学から大学院終了まで、自分の専攻分野の人間と付き合うことなく社会に出てしまうのが普通である(クラブ活動を除いては)。これでは、タコつぼ作りに大学が協力しているようなものである。大学教育は人間を育てる営みであることをもう一度噛みしめるべきである。