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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.525
「質的転換答申」はなぜ行き詰まったか?  いま求められる中教審の当事者意識

小笠原 正明(大学教育学会会長・北海道大学名誉教授)

 日本の大学生が勉強しないということは今や世間の常識になっている。たしかに学期が始まってからの大学のキャンパスには、アメリカの大学などで感じられる切迫した緊張感がない。「就活」と称する個人的な事情により1年以上も授業に出なくても無事に卒業できる大学など、世界中を探してもほかに見当たらない。例外はあるとしても、国際比較で学修時間が足りないということは事実として認めざるを得ない。
 2012年8月に出された中教審答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」(以下、「質的転換答申」と略記)では、学士課程教育の「質的転換の始点として」学生の学修時間の増加・確保に多くの紙面が費やされている。この主張はけっして間違ってはない。筆者も、日本の大学生の学修時間の短さは異常であり、コースワークに関するかぎり日本の4年制大学は短期大学なみでしかないことを折に触れて警告してきた。最近でも、答申のアウトサイダーとしての立場から、学修時間は教育の質を測る指標になり得るという議論を本紙の紙面を借りて行った。
 しかし、2000年ごろからの中教審答申の文脈を知る人々にとって、今回の答申はポイントを外したものと映ったと思う。本紙で「失望・落胆・危惧」と表現した執筆者もいたし、「改革の小道具」のみを列挙したと批判した執筆者もいた。ここでは近年の中教審答申、特に2008年の学士力答申の流れの中で、今回の答申にいったい何が求められていたかをもう一度はっきりさせてみたい。
 近年の大学教育改革の流れを作ったのは1998年の中教審答申「21世紀の大学像と改革政策について」で、ここで提起された内容はそのあと改訂も変更もされず、高等教育政策の基調となった。そのポイントは、@教養教育の重視、A専門教育における基礎・基本の重視、B厳格な成績評価、C登録単位数の上限設定、D教育内容・教育方法の改善、E教育活動の評価の6点で、2001年から2002年にかけて一斉につくられた国立大学法人の中期計画はこの答申に強く影響された。
 2000年代に入ると、答申の内容はさらに踏み込んだものになる。2005年1月に出された「将来像答申」では、高等教育の多様性と質を確保するために機能別分化を提案し、学士課程については「総合的教養教育型」と「専門教育完成型」の二つの型を例としてあげた。
 この類型化を基準として、高等教育課程のおおまかな見取り図を作ることができる。下図は、私見であるが、縦軸は上に行くほど学術的で、下に行くほど職業的になる。横軸は左に行くほど基礎的で、右に行くほど専門的になるとする。例えば物理学という分類は左寄りで、素粒子論、天文学のように専門分化すれば右に寄る。このような配置図から課程のプログラム編成の原理を導くことができる。学術的なプログラムは学術的分野(アカデミック・ディシプリン)の体系に沿って編成されるのに対し、もう一つの極である職業的なプログラムは職業や資格からの要求に沿って編成される。基礎的課程では教養教育などディシプリン間の相互作用が重視され、他方、専門的課程では限定された分野における深さが求められる。
 将来像答申でいう総合的教養教育型は下図では学士課程A型となり、ここから大学院A型へ(ルートa)または大学院B型へ(ルートc)というオーソドックスな進路が想定できる。しかし国公私立の大学をすべて合わせれば、専門教育完成型の学士課程B型がむしろ多数派だろう。卒業後ただちに就職するものが多いとしても、大学院課程との接続はA型ほどスムーズではない。大学院A型への進学を目指せば勉強のやり直しが必要になる。一方で、大学院B型の課程は学士課程B型との差別化が求められるのでその作り方が難しい。このように問題は多いが、それらを一つ一つクリアしながら体系的な教育課程を目指すという展望が開ける。
 2008年12月の「学士課程答申」は、2005年に提起された課題をさらに先へと進める姿勢を示した。注目すべきは、分野別の質保証、学習成果の国際基準、学位に付記する専攻名称のルール化、国際標準化などの政策を示唆したことだった。大学教育改革も本丸に迫りつつあるという印象を多くの人が持ったのは当然だろう。
 ただしこの答申を注意深く読むと心配な点がいくつかあった。例えば第四章「公的及び自主的な質保証の仕組みの強化」の中で、「日本学術会議に対し、大学教育の分野別質保証の在り方について審議依頼を行っている」という記述がある。
 日本学術会議の分野別委員会の構成は、既存の大学の学部学科を整理して並べ直したものである。学術的分野と職業的分野(プロフェッショナル・ディシプリン)が混在しているだけではなく、日本における学部学科の成立経緯を反映して複雑である。ディシプリンとして曖昧なところもあるし、欠落しているところもある。学士課程プログラムの編成原理に従って検討しようとしたら、分野を再編したり新設したりする必要が生じるだろう。しかし日本学術会議にはそんなことはできないし、そうしなければならない理由もない。案の定、2010年8月に出された回答「分野別質保証の在り方について」は、分野設定の一般論を述べた上で、あとは教養教育論でお茶を濁している。
 これを受けたかどうかは明らかではないが、2012年の「質的転換答申」は分野の問題に切り込むことを意識的に避けた。その結果、学士課程答申に描かれていた大学教育改革の立体的な構図が崩れ、全体が平面的となり、質保証の小道具だけが必要以上に強調される結果となった。分野の問題と質保証の問題は車の両輪で、片方だけでは成り立たない。分野のフレームワークを定め、それを構成する各要素に学修時間を分配し、アウトカムを評価することによって全体の質を保証しなければならない。学修時間を保証すれば教育内容が担保されるわけではない。
 質的転換答申は行き詰まっている。学修時間のしばりだけで改革を進めようとすればさまざまな弊害が生じることは目に見えている。
 このような自縄自縛の状態から抜け出すために、中教審は2000年代の答申の文脈にもどって学士課程の分野を議論しなければならない。分野を議論するということは、各ディシプリンを学士課程の枠組の中に引き出し、それぞれに教育の質の保証を迫るものである。それができるのは日本学術会議でも専門学会でもなく、中教審そのものだと思う。いま中教審に求められているのは、大学教育改革についての当事者意識と当事者能力である。


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