アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.521
大学改革とバランス感覚 社会システム全体としての最適解を
常識を疑うこと
最近、医療や健康問題を扱った本が気になるようになってきた。歳のせいかもしれないが、これまでの常識を疑うような主張には大いに刺激されるものだ。例えば、長生きする人には脂っこい食べ物や肉類が好きな人が多いと聞けば、なるほど節制のしすぎで基礎体力が無くなるほうが、メタボよりも怖いのかと思い、またがんは切るな、抗がん剤は使うなとの記事を見れば、確かに生体のバランスを失わせるような医療は、「がんが怖いのではない、怖いのはがんの治療だ」という記述とも関連づけながら、自分なら受けないだろうと妙に納得してしまう。
もちろん私は医学には素人であるから、それが正しいか間違っているかをここで判断するわけにはいかない。しかし社会科学を長く専攻している身としては、要するに、どのような課題の解決を目指すにもシステム思考が重要であって、人間という生体を含め世の中に存在しているものは、すべてある種のバランスの上に成り立つものであるから、そのバランスを崩すことは思わぬ副作用をもたらすことがありうるということは、十分理解・納得できるものである。
この理屈は、大学改革を考える際にも大いに参考になる。例えば、十分な財源を確保しないで行う改革は、痩せすぎの短命という連想につながるし、他の条件を考慮しないで、ただただ学生の勉強時間を増やそうというような政策は、手術や抗がん剤によってさし当たっての病勢を緩和できるかもしれないが、身体全体がどうなるか分からないという不安と同じである。大学は唯我独尊の象牙の塔ではなく、社会と深い関係を有する制度である。さまざまな要因が大学に影響を及ぼしている。今からちょうど50年前の中教審三八答申でも、大学は社会制度であると述べられていることを忘れるべきではない。
大学改革が進まないのは
社会制度としての大学は、さまざまな形で存在する隣接の制度や実態、例えば科学技術、雇用、文化、産業、地域経済などによって支えられている。外部の制度や実態に加えて、ガバナンスや資源配分、大学教職員などは大学システム内部を構成する重要な要素である。隣り合う制度や実態は、一方が変れば他方が反応するという形で、社会システム全体としての最適解を求めてバランスを保っている。そのバランスの見通しを欠いた大学改革は、まさに机上の空論、絵に描いた餅に等しいことを、まずは肝に銘ずる必要がある。
さて、今次の大学改革、それはかつてのようなマクロレベルの改革だけではなく、個別大学の改革に深くかかわるミクロの側面に及ぶという特色を持つと私は考えているが、この動きが本格化した1990年代初頭から数えてすでに4半世紀近くが過ぎた。これだけ長い期間改革を続けてきたにも拘らず、一向に終りが見えないのはどうしてであろうか。これまでの改革が不十分、まだまだ改革の余地がある、というのが模範的解答と思われるが、しかし、もう一歩踏み込んで「改革が進まないのは、進まない合理的理由があるからではないか」、「改革政策の設計が悪いのではないか」とか「改革運動を終りにできない何らかの事情があるのではないか」というような発想になぜ至らないのであろうか。
改革が進まない理由は、大学を一つのシステムとして考えることにより、たちまち幾十も思い浮かべることができる。例えば近年、質保証をキーワードとして、わが国の大学教育を国際的に通用するものにしなければならないという有力な主張があり、関連する政策もいろいろ実行されてきている。しかしわが国の学生の半数が学ぶ文系分野では、入試・学修・就職が堅く結びついている。その関係をバランスよく捉えなければ、大学が提供する教育と学生の学修活動そして企業の採用行動の三者がミスマッチを起こしてしまう。「就活」問題がこれほど注目を集めるのは、やはり就職に際して、教育の質保証だけが万能ではない証拠ではないだろうか。
つながりあう諸現象
また、生涯学習とわが国の大学教育とはもっと深く関わりあうべきことが、1970年代から認識されているにも拘らず、さほどの進展が見られないのはなぜだろうか。OECDデータで示されたように、わが国の大学生は極度に若者に偏っている。だが、社会人が取得した学士、修士や博士の学位が、アカデミアの外ではなかなか通用しないという点を何とかしなければ、状況は改まらない。つまりは、「大学生の圧倒的多数は若者である」、「大学生とくに文科系の学生はあまり勉強をしていない」、「企業はコミュニケーション能力など学生の汎用的能力を評価している」、「修士・博士の学位は、産業界への就職には有効ではない」などの現象は、すべて相互に関連しあいながら、バランスを保っている。これを動かすには、高等教育システムだけではなく、隣接するさまざまなシステムをも動かす覚悟が必要であろう。ただし、それが全体に与える影響は大きく、したがって難しい問題である。
ガバナンスの改革については、幾人かの論者は必ず「教授会」の存在が改革の妨げであると主張する。もっともな面もないではないが、冷静に考えると、一流と目される大学とそこでの教授会の存在感とは、基本的には正の相関にあるのではあるまいか。つまり教授たちが主導する同僚制的管理・運営システムは、優れた教員を集め、学術研究や教育・学生の質と関わり合いながら、大学の質の維持・向上に相当の寄与をしていると見るのが正当であろう。角を矯めて牛を殺すようなことは、適当なバランス感覚とは言いがたい。もちろん、正の相関と外れた位置にある教授会は、是非とも改革されなければならないであろうが。
改革運動を終りにできない事情について言えば、紙数も尽きたので、とりあえず一点、つまり昨今の財政問題を挙げるに留めたい。要は大学改革に関連づけられない予算はなかなか取りにくいということである。本来ならば、長期的な視点に立って大学の経常的経費にしっかりとした予算を付けるべきであろうが、他の行政分野の強欲とも言える予算分捕りに伍して高等教育予算を確保するのは容易ではない。しかし、大学現場に関係する者の立場からは、大学本体を傷つけすぎない予算取りを政策当局には望みたいものである。