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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.498
突き当った深層 大学改革は新しい段階に

客員研究員 金子元久(筑波大学大学研究センター教授)


 タイトル『新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて―生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ』の長さ(50字!)、審議での多様な論点を万遍なく取り入れたこと、などの結果、この答申はあまりスッキリした印象を与えない。しかし私は、この答申はそうした問題点にかかわらず、日本の大学改革がいま、新しい段階に達していることを示している点で、重要な意味をもっていると考える。
 答申の第一のポイントは、日本の学生の学習時間、しかも授業の出席よりも、自律的に学習する時間が決定的に不足している、という事実だ。学生の学習時間は、設置基準の要求の半分程度であり、アメリカの学生のそれを大きく下回る。それは大学制度自体が空洞化し、産業構造の恒常的な変動の中で、未来をつかみとるべき若い世代が、十分にその基礎を形成できていないことを意味する。
 第二のポイントは、こうした学習時間の不足は、よく指摘されるようなユニバーサル化にともなう不本意入学あるいは学習意欲の欠如のみに責めを負わすべきものではない、という点だ。日本の大学教員の担当授業駒数は非常に多く(アメリカの倍)、それが個々の授業にかける時間を少なくし、ついには自律的学習時間を少なくする要因となっている。いわば密度の薄い大学教育が構造的に一般化しているのである。
 こうした問題は、「厳格な成績評価」、「GPA」、「初年次教育」などといった、アメリカ流の小道具の導入のみでは対応できない。基本的な問題は日本の大学の組織と、その背後にある教員の考え方そのものにある。この点が、第一と第二のポイントから論理的に演繹される、いわば答申の第三のポイントとなるべきであろう。しかしそれは答申の中では、実は具体的に議論されているわけではない。
 このように答申を読むと、日本の大学改革をめぐる議論は、様々な問題や現象を探り続けたあげく、戦後の大学教育の深層にある、基本的な問題にコツンとつきあたってしまった、といってもよいように思える。
 実に60年も前の、(教員は)「学校に於ける1時間の講義のことしか考えず、(学生の)自発的研究時間である後の2時間のことは全然念頭にない。したがって、1時間の講義をさらに2時間の学生の自発的活動で如何にして補わしめるための工夫、努力もなされず、またそのための新しい教授法の研究にもほとんど手がそめられていない。」(大學基準協会、1951、26頁一部、漢字を簡体字に改めた)という認識がそのまま蘇ったのである。
 こうした問題はそもそも、日本の近代の大学の理念として広がっていた(俗流)フンボルト理念に、新制大学制度と単位制度が、接ぎ木されたことから生じた。戦後の高等教育のリーダー達はそれを、一般教育という新しい枠組みの中で再編することを意図したのであった。しかしその後の大衆化の中で、そうした意図は実現するに至らず、一般教育の枠組み自体が1991年には相対化されてしまったことは周知のとおりである。
 ではどうすればこの深層を突き崩し、新しいイメージの基礎をつくることができるのか。
 まず強調しておかねばならないのは、大学教育は何よりも一人ひとりの教員の理念と行動にかかっている、という点だ。そして日本の大学教員は別に教育に熱意がないわけではない。しかし教員の理念と現実の間に大きなギャップがあることも事実である。
 東京大学大学院教育研究科大学経営・政策研究センターが行った『全国大学教員調査』(2010年、回答者数5311人、http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/crump/)の結果をみると、日本の大学教員は、少人数での教育によるインフォーマルな学生との交流に大きなこだわりをもっている。それが研究室やゼミ、さらに卒論・卒研などの重視と、一般の授業の形骸化につながっているのであろう。
 教育に熱心な教員にはそうした枠内で優れた教育を行っている場合も少なくない。しかし他方でそれは、授業や研究室を、個々の教員が独占し、またそれによって心理的な報償を得る、という傾向とも結びついているように思われる。参加型授業などの新しい授業形態の導入や、TAなどを用いた、より効率的な基礎教育やスキルの形成などはそうした枠組みからは生まれにくい。
 また学士課程教育が、学部・学科の枠内の論理のみで、設計されるのであれば、それは専門分野の論理と利害に大きく拘束されることになる。それは、新しい時代に生きる若者が必要とする知識・能力との間の大きなギャップを生みだす。また世界の趨勢となりつつある、大学在学中の短期プログラム留学には、学生の送りだしと受け入れが必要であり、それは学部・学科をこえたカリキュラムの編成が不可欠の基盤となる。
 こうした危機感は大学の学長や管理職にはいま広く浸透しつつあるように思われる。文部科学省が本年6月に行った学長・学部長アンケート(『答申』付属資料、83―107頁)をみると、「授業外の学修時間」については7割以上が〈不十分〉もしくは〈やや不十分〉と答えている。また授業改善の障害として「科目の内容が各教員の裁量に依存」、「授業科目の細分、授業数が多い」などが〈課題〉〈大きな課題〉であるとする学長は7割近くに上った。
 ただしこうした認識が、どのような根拠に基づいているのかには疑問が残る。またそれに具体的にどのように対処しようとしているかについても、必ずしも明確なイメージがあるとはみられない。
 さらに、学士課程の学部・学科をこえた視点からの改革、という方向には、学長が積極的であるのに対して、学部長は必ずしもそうではない。明らかに、大学レベルと学部レベルでの認識に相違がある。
 これは大学教育のガバナンス自体を問いなおす必要が生じていることを示している。それは必ずしも、大学のガバナンスそれ自体のあり方を理念的に再検討することを意味するのではない。むしろ重要なのは、一方で社会の要求、他方で学術の論理、の二つを踏まえつつも、その中で学生が必要な知識や技能、そして人格的な成長をもたらすための過程を、組織として計画し、実行し、また修正してゆく仕組みをどう形成するか、という点にほかならない。
 自律的な学習がいま関心を集めるのは、多様で流動的な社会で主体的に生き、成長していくには、専門的な知識と、汎用的なスキル、そして基本的な自己・社会認識、の三つの要素が有機的につながっていることが不可欠だからである。それが変化や多様性に対する鋭敏さと、それを支える人格をつくる。そして、それは大学生についてのみ妥当するのではない。大学自身にとっても、あるいは日本の社会全体にもそうした能力が求められているのではないだろうか。


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