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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.486
大学改革「質の時代」への転換 大学教育部会「審議まとめ」を読んで

主幹  瀧澤 博三(帝京科学大学顧問)

「質の時代」へ
 戦後連綿と続いてきた大学改革は、平成20年末の中教審答申「学士課程教育の構築に向けて」を経て、この3月に公表された大学分科会大学教育部会の「審議まとめ」に至ってようやく大きな節目を迎えたように思われる。自主性を生命とする大学の本質からして、大学政策の課題に関する論議は、おおかた制度の側面に重点が置かれる傾向が続いてきたが、平成20年の答申は、学士課程の教育内容の高度化を具体的な方策として正面から取り上げたものとして、画期的な意味を持っていた。それでもなお、提言の中心は教学のマネジメントの在り方に置かれていたが、今回の「審議まとめ」では、まさに教育の内容そのものに踏み込み、授業方法や自主的な学修時間の確保など学修の質を高めるための具体的な方法などが提言の中心を占めている。
 このような教授内容・方法の具体的な改善・工夫―これらは伝統的な大学の文化からすれば個別大学の、更には個々の教員の自主性と責任の領域と考えられてきたことであり、それが中教審で審議され、国の政策として行政が強く関わって進められようとしていることは、大学改革の性格の大きな転換だと考えられる。それは大学政策の基本理念にも関わることであり、一つのパラダイム・シフトというべき変化であろう。
 あるいは「質の時代」と言っても何も今更のことではないと考えるかもしれない。確かに18歳人口の第1次急増がピークを過ぎた昭和40年代に入って、これからは量ではなく質の時代だと言われたが、それも学生規模の拡大でなく学生/教員比の改善を図ろうという意味合いが主であって、必ずしも教育の内容自体に深入りすることなく、量的な発想から抜け出るものではなかったと言えよう。
遅れた「質の時代」の到来
 「量」と「質」は常に大学政策の主題でなければならない。戦後の新しい教育制度の発足からすでに60年余を経て、なぜ今「質の時代」なのか、経緯を考えてみたい。「質」が後回しになった事情として二つ挙げたい。
 @我が国では、近代化が進む以前から私財を投じて教育事業に参画しようとする国民の意欲は強かったが、高等教育については戦前期を通じて、それは「国の事業」だとする思想が残っていたから、私学経営への国民の意欲はむしろ抑制されてきた。しかし、戦後は教育の民主化のもとで、高等教育への民間参入は全面的に開放され、同時に、国・公・私の大学は等しく公教育と位置づけられることになった。
 一方で、学校教育法により、学校の管理と経費負担は設置者の権限と定め、国立は国費負担で質の維持に努めつつ、私学は、その活力を利用し、詰め込み率の強化という裏ワザも使って、その後の高等教育の大衆化への対応が期待された。結果的に見れば、国の高等教育政策には、質は国立で、量は私学でという一種の役割分担のような観念が潜在してきたと云ってよいように思われる。
 A単位制度は授業時間の3倍の学修時間を前提としており、この学修時間を確保するような学修指導、学修支援及び学修環境の整備等が必要である。従って、単位制度の導入に当っては、それが可能になるような人的、物的整備が欠かせないはずであったが、そのような観点からの財政措置はほとんど行われることがなかった。その結果、1単位は45時間の学修という建前は空文化し、形式上卒業単位等の基準は満たしつつも、単位制度の目指した教育理念は棚上げされたままとなった。それは一種のトリックのように、質を犠牲にした教育経費抑制の役割を果たしてきたと言えよう。
学修時間確保の戦略はなにか
 戦後の大学史の一つの大きな転機であった第1次の学生急増期を迎えても、我が国の大学政策は大学の将来を見据えた明確な国家的戦略も財政計画もなく、もっぱら財政負担増の抑制に気を配った消極的な対応で終始したが、そこで安上がりの大学大衆化の実現に貢献したのが、学生定員詰め込み率強化の裏ワザと単位制度のトリックである。
 その後、詰め込み率については私学助成の傾斜配分等を通じて改善が進められてきたが、単位制度の方は、中教審や大学審議会で幾度となく問題点として取り上げられながらも、具体的な進展は見られなかった。単位制への移行という大学教育転換の意味を意識しながらも、必要な財政措置の見通しもないままに、多くの大学がその実質化に自信を持ち得なかった結果と考えざるを得ない。
 「審議まとめ」は、「質の高い授業」によって単位制度の趣旨にのっとった主体的な学修時間を確保することを質的転換の始点として、直ちに具体的行動を始めることを求めている。日本では、前記のように、質への取り組みは非常に遅れた。グローバル化の進展する中で中教審としても「待ったなし」の焦燥感を示すのは当然と思うが、この焦燥感には気掛かりな点が幾つかある。
 一つには、学生/教員比の改善をはじめ授業支援体制や学修環境の整備等の財政を伴う条件整備の見通しもないままに、戦後半世紀を越えて休眠を続けてきた単位制度が俄かに目覚め、学修の質的転換が動き始めるということはなかなか想像しにくいが、これを動かすだけの有効な具体的戦略はあるのだろうか。有効な戦略がないままに、資源配分、大学評価あるいは教職員の評価・顕彰等による行政主導の誘導策が進められたとき、実態とのかい離が教育現場の混乱を生むだけに終わる心配はないだろうか。また、分野別の参照基準や学位の種類別の資格枠組みなどのインフラ整備が未だ整えられていない中で、もう一つの課題である教育の標準性はどのようにして確保されるのか。
 さらに、政策課題が教育の内容そのものに深く関わるようになったことにより、大学政策の枠組み(誰がどのように政策の策定・実施に責任を負うか)は大学の自主性の理念と調和するように再構築されなければならない。中教審では、大学団体、学協会、その他大学支援団体への期待に言及しているが、そのようなインフラはわが国ではまだ十分成熟していない。結果として大学の教育内容・方法の改善に行政主導が突出するという異様な姿は想像したくないが、どうだろうか。
 一言で言えば、焦燥感が先走って、質的転換を実現するまでの具体的なプロセスについての審議の模様が窺えないことである。単位制度が制度化されたものの、長い年月棚上げ状態に置かれたことには、多くの理由がある。それらを再吟味して実効性のあるプロセスを示してこそ、「直ちに具体的行動を」という声が現実味をもってくるだろう。これからのプロセスについては大学教育部会で引き続き検討するとのことであり、今後に期待したいが、難しいのはこれからではないだろうか。

 この大学教育部会には、私学高等教育研究所の研究員としてご協力願っている四人の先生が臨時委員又は専門委員として審議に加わっている。7月のアルカディア学報では、審議に参画された立場から、「審議まとめ」について、個別の課題やコメント、全般的な感想など執筆していただく予定である。


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