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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.469
アウトカム重視の大学評価 評価基準と実態との乖離を懸念

主幹 瀧澤博三(帝京科学大学顧問)

評価基準と実態の乖離への懸念
 大学評価が、大学改革の重要課題になって久しいが、大学評価といえば市場任せのランキング評価がメインであった時代から見ると、実に様々な観点から評価のあり方が議論され、評価の目的、評価の視点等による違いが浮き彫りにされ、評価の理論は精緻化されてきたように思われる。そして今や大学評価の理論は一つの方向性を得てそこに収斂しつつあるように見える。「ラーニング・アウトカム(学習成果)重視の評価」である。
 いま、認証評価は第1期の7年を経て、第2期に入るに当たり、いずれの機関も評価基準の見直しを終えたところであるが、アウトカム重視という方向性にどのように対応するべきかということはそこでの大きな問題の一つであったと思われる。既に各評価機関とも新しい評価基準を公表しており、そこから窺う限り、いずれもアウトカム重視の評価に前向きの姿勢を示しているが、重視の程度においてはかなり機関による温度差があるようである。
 しかしそのことは大学の現場の実態を見れば無理のないことではないかと思う。アウトカム重視が大学評価の世界的な趨勢であることは、学会をはじめとする高等教育研究の世界を見ていれば肯けても、大学教育の現場の実態が、これにどこまで追随して行けるかとなると疑問が大きい。学則で定めることとされている「人材の養成に関する目的」や学位授与の基準を、アウトカムの視点から明確に定めている例がどの程度あるだろうか。大方は未だ研究の段階にとどまっているのが実態であろう。実態に眼を向けずに、理論先行でアウトカム重視の認証評価を実施することは教育現場に混乱を生まないか、更に評価基準と実態との乖離が、認証評価への信頼性に関わる事態を招かないかと憂えざるを得ない。
 わが国では、平成20年の中教審答申「学士課程の構築に向けて」がアウトカム評価への方向性を打ち出したが、理論が先行して実態が進まないのには、それなりの理由があるように思う。以下に2、3の点を挙げて見たい。
アウトカム評価の方法論の困難性
 ▽学生のアウトカムとされる知識、スキル、能力には、大学以外の多様な学習経験によるものが含まれ、その習得には学生本人の意思、力量が大きく関わる。また、求められるアウトカムには倫理性、人間性に関わるものなど、大学教育が統制しうる範囲を超えるものもあり、これを一括して大学の評価に結びつけることは難しい面が多い。
 ▽米国に見られるように、業者等の標準試験を活用することは、教育の画一化に繋がる等の弊害も懸念され、わが国では実現困難ではないだろうか。
 ▽卒業・就職状況や学生のアンケート調査等による間接的な方法では、これらのデータが大学の教育の質に直接的に繋がるとは限らず、大学評価としての信頼性を得にくいと思われる。
アウトカム評価のためのインフラの未整備
 わが国の現状では、大学が自主的に適切なアウトカム評価を推進し実現させうるような環境・条件が未だ整っていない。大学に求められることは、まず、学科・課程等の教育プログラムごとのアウトカムに基礎を置いた人材養成に関する目的を明確にすることである(大学設置基準第2条の2)。そのためには、学士・修士・博士の学位の段階別に、その最低基準としてのアウトカムの内容が何らかの形で公的に示され、各大学の「教育の目的」策定の指標として活用されている必要がある。学位としての共通性・同等性を維持するためには不可欠の条件だろう。また、教育の多様化の著しい現状に対し、質保証の観点から一定の標準性の確保が強く求められているが、これについては中教審から学士課程教育に共通するアウトカムとして「学士力」が提案されているのみで、肝心の分野別への対応については、日本学術会議において英国の分野別参照基準をモデルとして検討中という状況である。
 英国の質保証の仕組みは、これまでかなり大きな変遷を経てきたが、その過程の中から、大学教育の多様性を認めつつ標準性を保とうとする枠組み、参照基準等の仕組みを残しており、これらはアカデミック・インフラストラクチャーと総称されて、大学の自主的な質保証の拠りどころとなっている。
 わが国の場合、このようなインフラを欠いたまま、認証評価がアウトカム評価推進の役割を担うことになれば、認証評価は「支援」より「統制」の色彩を強めるか、あるいは「たてまえ」と「ほんね」を使い分け、自ら評価基準を「空洞化」する道を選ぶことになりはしないか。
なぜアウトカム重視なのか
 いろいろ困難な問題点があるにも関わらずなぜアウトカム重視なのか、その理由を改めて考えてみたい。まずこの動きは、大学の中から自発的に起こってきた動きではなさそうだ。二つの経路があったと思う。一つは外国、ないしは国際社会の動向であり、国際的通用性を、と言う国内の声である。もう一つは産業界からの声がある。「出口管理」の強化をというのは予てからの産業界の主張であったが、近年は卒業生の基礎的能力の不足から、大学教育の有効性に対する不信感を強めており、経済産業省が中心となって「社会人基礎力」養成の必要を提言している。これも「出口管理」の声の延長線上にあるといえよう。この点は、諸外国の状況を見ても同様の事情があるようで、アウトカム評価を提唱した英国のデアリング報告、米国のスペリングス報告を見てもその背景に産業界の声があったことが窺える。いつの時代でも深刻な経済不況は、産業界の大学教育への不満を呼び起こすようだ。
 一方、行政にとっても、アウトカム評価には重要なメリットがある。基礎的かつ普遍的な知識、スキル、能力の習得を判定するアウトカム評価の基準は、大学の具体的なカリキュラム内容等にかかわることが少なく、教育の自主性への気配りも不要。評価結果のデータには普遍性もあり、比較可能性が高い。このことは、大学の管理者、資源配分者にとって有効な情報である。スペリングス報告でも、このアウトカムによる評価情報の比較可能性を非常に重視している。
アウトカムは高等教育の質を代表できるか
 教育の「質」とは何か。高等教育の何処に視点を置いて質の評価をするのか。これはよくある質問だが、評価者と大学との関係性によって異なるものだと思う。最も重要なステークホルダーである学生にすれば、教育サービスの対価として授業料を払っている以上、キャンパス、授業、学生支援など教育サービスの質だと答えるだろう。卒業生を採用する立場の企業としては、何ができる人材か、アウトカムに関心を持つのが当然。大学の管理者(設置者・行政)は説明責任を負う立場から、結果としてのアウトカムだけでなく、大学がどのように教育責任を果たしているか、インプットやプロセスを含めて大学の対応に関心を持つだろう。しかし今日、財政的な観点から資源配分の効率性のために「比較可能性」を必要とする行政の立場から、アウトカムに関心が持たれていると理解される。
 今日、アウトカム評価が大学評価の本流になろうとしている。それを教育パラダイムから学修パラダイムへの転換であり、人材養成を使命とする大学の評価として必然の方向だとする言説があるが、大学教育は本来多角的な評価を必要とするものであり、結果主義に陥って大事な教育プロセスの評価が軽視されることがあってはならない。今日の状況は、むしろ大学評価が学生の視点から産業界、政府の視点に転換されようとしているということではないだろうか。

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