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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.419
単位制度再考
日米両国の議論から

研究員 森 利枝(大学評価・学位授与機構准教授)

学業を「時間」で計る
 大学評価・学位授与機構という機関に筆者が勤めていることを知る在京外国人の友人から、「1セメスターあたり15週の授業をするよう大学から厳しく言われるようになったのだがそれは君たちのせいか」と訊ねられることが立て続けに2度あった。2人とも、東京の私立大学で週数コマの英語の授業を非常勤講師として教えるアメリカ出身の友人である。2人は異口同音に、「これまで13週の授業をしていたのと同じサラリーで、15週働かなければならなくなった」と慨嘆している。それは大学評価・学位授与機構や認証評価制度の「せい」ではなく、セメスターあたり15週の授業をしているはずのところを13週程度で済ませてしまっていたことに問題があったのであって、そもそも1単位あたり15時間の授業と30時間の予習復習という原則はあなたのお国から移入された考えに基づくものです、と説明を試みたが充分には納得してもらえなかったようだ。
 周知の通り、単位制度はアメリカで開発された。当初は大学入学資格の標準化を企図して高等学校に導入され、その後大学でも採用された。この制度のアメリカ全土への拡大に当たって、大きな役割を果たしたのがカーネギー教育財団である。財団は1905年、当時の貨幣で1000万ドルを投じて創設された。創設者アンドリュー・カーネギーには従来から大学教員に対する社会保障が低劣であるという認識があったとされ、その問題を解決するために財団は大学教員のための退職年金基金を創設した。この時、各大学がこの基金に参加するに当たっての条件の一つとして設定されたのが、入学者の受け入れに際して、高校で受けた教育を授業時間数で計量するという財団の方針を採用することであった。カーネギー単位と呼ばれるこの計量基準の原型は、高等学校の主要科目について、1年間に亘って1時間の授業を最低120回繰り返すことを最低基準とするというものである。当時、ほとんどの大学には個別の年金基金がなかったこともあり、鉄鋼王が築いた潤沢な資源に基づく財団の年金基金は(その後破綻の憂き目にはあうのだが)大学の絶対的な支持を集めた。その結果、1910年までにはほとんどの高等学校がこのカーネギー単位を採用したとされている。
 一方、大学そのものにおける課業の計量方法としての単位制度が定着した背景には、州政府や連邦政府の影響力があったことが指摘されているが、セメスターあたり最低15時間の授業と30時間の自主学習で1単位を形成するといった、学生の課業を時間で計る発想は高等学校に導入されたカーネギー単位の発想と同一である。実際、現在アメリカでは一般にカーネギー単位と言えば大学の単位をも指す。
講義であれば1単位15時間
 この、大学における学生の課業を時間で計量して標準化するという発想がわが国の大学全般に取り入れられたのは新制大学発足の時であった。1時間の講義と2時間の準備ないし学習を15週行うと1単位となるという最低基準は、大ア 仁氏が『大学改革 1945〜1999』(有斐閣)で明らかにしているように、戦後、民間情報教育局(CIE)の意向を受けて大学基準協会の大学基準に盛り込まれ、その後、国の大学設置基準にも継承された。この経緯を見れば、ここ数年で大学が一単位あたり15週の授業時間を確保するようになっていることが驚きを以て迎えられたことこそ驚くべきであろう。
 つまり実際にはこの基準は充分な定着を見ないまま半世紀以上が過ぎたのである。しかし、その状況は決して看過されてきたわけではない。近年では例えば平成10年の大学審答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について」において、1単位あたりの課業の問題は、主として大学と教員が学生の学習時間を確保する策を講じていないことに焦点を当てて提起されている。したがって答申ではシラバスやレポートの要求に工夫を加えることや図書館などのインフラの充実を以て学生の学習時間を確保することが提言されている。ただしこの答申は、言ってみれば、学生が充分な時間を学業に充てていないことは大学「にも」責任がある、という論調であった。
 それからちょうど10年後の平成20年の中教審答申「学士課程教育の構築に向けて」においては、15時間の授業時間が確保されていないことに明確な言及がなされた。この学士課程答申と、10年前の21世紀答申との大きな違いは、21世紀答申が、学生ばかりではなく大学にも責任がある、というような言い方をしていたのに対し、学士課程答申では、そもそも大学が提供すべき分量の授業を提供していないことを問題視し、「講義であれば1単位あたり最低でも15時間の確保が必要とされる」と、大学設置基準の規定するところを再確認しているところにある。
 かくして大学は学士課程答申以降、1単位あたりの授業時間数15時間を確保するようになり、このことが冒頭のアメリカ人講師諸氏の慨嘆と、大学評価・学位授与機構に勤務する筆者と彼らとの友情の危機に繋がるわけであるが、それはさておき、このように見てくると、単位制度には、学業にかける時間を基準とする『資本論』的な労働価値が息づいているということが指摘できよう。
時間で計るか学力の獲得で計るか
 さて、わが国における「単位」と「時間」の問題がこのような経緯を辿っている頃、単位制度の本家であるアメリカでは、「時間」を以て学業を計ることは不可能であるという論調が、またぞろ勢いを得はじめた。またぞろ、というのは、アメリカでも従前から「ただ教室に座っていて時間が経てば学んだことになるのか」といったような単位制度に対する批判の声はあがっていたからである。ただし、ここに至って単位と時間の問題が注目を集めるようになったのは、アメリカで大学教育のオンライン化が進み、主に営利大学が完全オンラインの学位プログラムを提供するようになったためであると言ってよい。特に、昨年末には、連邦教育省が、南部、中部、北中部の3つの地域アクレディテーション団体に対して、オンライン大学では1単位あたりの課業時間が確保されていないにもかかわらず適格認定を行ったことを疑問視し、説明を求める文書を発表した。連邦教育省が地域アクレディテーション団体に説明を求めるのは、連邦教育省によるアクレディテーション団体の認可と連邦奨学金の受給資格とが連動しているからである。
 そもそも単位制度は対面授業を前提にした制度であり、「1時間の授業の受講に1時間かけなくても済むかもしれないオンライン授業」は制度設計の想定外にあった。大学教員やアクレディテーション団体の職員の中には、時間に基づく単位制度はもはや時代遅れであるという意見もある。たとえば北中部協会の前事務局長であるクロウ氏は、地域アクレディテーション団体の責任者を退いた立場から、カーネギー単位を現代の高等教育環境に沿った形での計量基準に作り替える必要があるという主張のなかで、学生の達成をより重視すべきだという議論を展開している(Inside Higher Ed, January 22, 2010, www.insidehighered.com)。
 たしかに単にある時間を教室および教室外で過ごせば単位が得られるという制度では高等教育の意味がない。逆に単に学力を有していることのみを以て単位が得られるとするならば、大学は「ときおり試験をして単位を与え、単位が貯まったら学位を与える」だけの機能を果たせばよいという極端な学習成果主義も可能になり、そこにも高等教育の意味を見出せない。大学という環境では、獲得された学力に意味があることと同様に、学力を獲得するプロセスにも意味があるべきである。そのプロセスにエネルギーを傾注することが教員の役割であり、プロセスにかかる時間には最低基準があってもよい、と主張すると、筆者はまた友人を失うのであろうか。

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