アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.414
「私学の自主性」再考
10周年を迎えた私高研
私学高等教育研究所の10周年を迎えて
私学高等教育研究所が日本私立大学協会の附置機関として創設されたのが2000年4月1日ですから、今年4月でちょうど10周年を迎えたことになります。
10年と言えば、小さな研究所の大きな節目であり、これまでを振り返り点検評価をして、これからの研究所のあり方を構想し直さなければならないと思っていますが、まずはこの機会に、お世話になっている日本私立大学協会関係の皆様、ご協力頂いた研究員、客員研究員、研究協力者各位をはじめ多くの関係の皆様のご支援に改めて感謝申し上げますとともに、今後とも研究所の運営につき一層のご指導を賜りますようお願いいたします。
研究所の事業全体がこれまでの惰性に乗って日々を過ごしてしまうことにならないよう、各位のご批判・ご叱正を仰ぎたいと思います。
このアルカディア学報も研究員各位を始め、多くの協力者の皆様のお力によって、私学の視点に立った論考を積み重ね、この10年間で399回を数えました。新しい次の10年に入るこの4月には丁度第400回から始めたところですが、これからも現在6つある研究プロジェクトの成果などをもとに、私学をめぐる諸課題を取り上げて行きたいと思っています。引き続きご愛顧賜り、ご批判も頂ければ幸いです。
今回は、私学が高等教育の八割を占める時代に相応しい政策の在り方が問われている折から、多少青臭くなりますが、基本に立ち返って、私学政策の議論の根底として欠かせない「私学の自主性」の理念について考えて見たいと思います。
私学の自主性とは何か
〈経常費助成と私学の自主性〉
私学の経常費助成は、戦後長らく「私学の自主性」の理念との葛藤を経験してきた。始まりは憲法八九条の「公の支配」の解釈をめぐっての論争であったが、これは私学への現実的対応の必要が優先し、理念論を棚上げにした技術的解釈論で一応の決着を見せ、その後私学への経常費助成は逐次充実されてきた。一方で、私学の自主性の理念への配慮は、予算の配分方法における工夫などに表れていた。私学への公費助成は使途を特定しないブロック予算を基本としたこと、予算の配分は政府から直接ではなく、私学関係者が参画する団体(当時は私学振興会)を通すこととしたことなどである。また、一般的な私学行政の在り方として、私学への政府の統制を極力排除するよう、相当に念入りな仕組みが構築されていた。私学法の制定により、政府の私学に対する監督権を大幅に制限したこと、私大政策に関し審議し建議する機関として私学関係者を主要構成員とする私立大学審議会を設けたこと、文部省内の私学所管を大学局でなく、教育内容行政には関わらない管理局としたこと、などがある。
こうした私学の自主性に配慮した行政の仕組みは、長年にわたって繰り返されてきた行政改革、規制改革の流れの中で殆ど消滅したようである。私立大学審議会は廃止され、私学所管は大学局(高等教育局)に統合され、平成16年には私学法の改正によって私学への法的な監督措置が強化された。
一方、経常費助成では、最も基盤的な使途を特定しないブロック予算である一般助成が減り、プロジェクト予算である特別助成に年々ウエイトが移っている。また、国公私を通ずる競争的な経費であるCOE予算、GP予算のウエイトが大きくなっている。私学への財政支援も政策的な統制の面が強まっているのである。戦後高く掲げられた「私学の自主性」は今でも私学の基本理念として教育基本法にも私立学校法にも掲げられているが、その中味は大きく変質している。このような変質が、それほどの議論の沸騰も無く、容認されているように見えるのはなぜだろうか。
戦前の国立偏重で、私学は強い規制のみという大学政策への反動から、戦後私学法によって確立された自主性の理念に対する私学の想いは熱く、行政の私学への統制に厳しい見方をしたのも当然のことであった。しかし、戦後の一時期と市民社会の成熟した今日とでは、行政に対する私学の姿勢に、また自主性の理念への感受性に違いがあるのも当然であり、むしろ違うべきであろう。そうとすれば、その違いは何か、今日的な私学の自主性とは何かについて、改めて考える必要があるのではないだろうか。
〈大学行政と私学の自主性〉
戦前、高等教育政策は全て国立学校の設置・運営によって担われてきた。高等教育政策と国立大学の設置者行政とはほとんどイコールだったと言ってよい。国の私学政策と言えるものは無いに等しく、私学は国の政策よりは市場の中で自律的に発展を遂げてきた。戦後、私学も公教育として国立と同等に位置付けられたにもかかわらず、国立中心の政策運営は基本的に変わらなかった。私学の自主性の理念へのこだわりが行政と私学との隔たりを温存し、両者のコミュニケーションを難しくしていた面もあるかもしれない。
しかし今や私学は大学教育の八割近いシェアを占め、国の人材養成に中核的な役割を果たしている。その私学を除外した大学政策は政策たり得ない。需給の調整にしても教育の質の維持にしても、市場に委ねるだけで良い結果が得られないことは、ここ20年来の規制改革政策によって既に経験済みである。近年の市場原理主義的な改革のもたらしたものを十分に検証しつつ、私学を高等教育の主流として正当に位置付けた高等教育政策の枠組みを確立することは国の責任であり、私学及び私学団体の責任でもある。
戦後確立された私学の自主性は、私学に対する「行政介入の排除」の思想が中心であったと思う。この思想は、国立が主流で私学は傍流ないし補充的役割とする観念とも通ずるものであり、戦前からの私学のDNAを受け継いでいるように思う。大学教育の主流となった私学は、政策を忌避するのではなく、高等教育政策の策定に参画し、共同して主体的に社会に対する責任を果すことこそ私学の自主性であると考えるべきであろう。
〈私学の自主性と教育の自由〉
いま大学改革のメイン・テーマになっている「質の保証」は、私学の自主性の理念にもう一つの新しい問題を投げかけてくるように思う。これまでの通念では、大学行政は制度の枠組みや教育・研究条件の整備が目標であり、個別・具体的な教育の内容、水準を政策目標とすることはなかった。学修の到達目標とそのためのカリキュラムの枠組みを定め、その達成度を検証するというのは、高校教育までであり、大学では、それは大学の教育の自由と自主性の世界だと考えられてきた。ユニバーサル化の時代の大学の変貌はこの通念を変えつつある。中教審の「学士課程の構築」の答申は、「学習成果を重視する国際的な流れを踏まえつつ、わが国の学士の水準の維持向上のため、教育の中身の充実を図っていく必要がある」とし、教学経営の在り方を提言するとともに、国が学士の水準に対する枠組み作りに取り組むべきだとしている。
こうした行政の関与する教育の枠組みが、高校以下の学習指導要領のように大学に対して拘束力を持つということはないであろうが、認証評価を通じて事実上の強制力を発揮することはあり得よう。この場合、私学には「教育の自由」という理念があることを想起する必要がある。国公立と違って私学には宗教教育の自由があるが、これは私学の教育の自由の理念の一つの現われである。私人の教育的信念にもとづく教育が尊重されていることは、「建学の精神」を掲げる私学教育の本質的な特質である。大学行政は教育内容行政の色彩を強めつつあるのと同時に、国の行政において国公私を同列に扱っていこうとする傾向が見えるが、国立に対して国は設置者であることと、私学には自主性の理念と教育の自由の理念があると言う国私の違いは充分わきまえた対応が求められる。