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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.04
国際競争にさらされる日本の大学

主幹 喜多村和之

 6月末に大学審議会は「グローバル化時代に求められる高等教育の在り方について」と題する「審議の概要」を発表した。この中間報告には、従来からの議論のおさらい的部分が多いが、これまで国際競争に無縁であった日本の高等教育も、世界の目にさらされる未来が示唆されているところに、これまでの大学審と比べてやや新鮮味がみられる。これが現実になるとしたら、日本の私学の将来に大きな影響が及ぶ問題と考えるので、緊急に取り上げてみたい。
 概要のなかで注目されるのは、現在急速に発達してきたインターネットは「知識や技術の伝達の手段として大きな可能性」を持つもので、大学教育に「学習者主体の学習を促進」するものとして積極的な活用を期待していることである。つまり、インターネットの発達によって、従来の大学教育の特徴であった「直接の対面授業以外でもきめ細やかな教育指導を行うことが可能となってきている」として、「今後、インターネットを活用した授業については、きめ細やかな教育指導によって補完されることにより、全体として直接の対面授業と同等の教育効果が確保されると評価される場合には、遠隔授業として位置付ける方向で、通信制及び通学制のそれぞれについて見直しを行うことが適当である」と述べている。
 具体的には、通信制では従来の直接の対面授業による20単位も遠隔授業で取れるようにして卒業に必要な単位すべてをインターネットの活用で修得可能に、通学制では卒業に必要な単位のうち60単位までをインターネットの活用で修得可能にする、という方向である。さらには将来的には通学制と通信制の区別の在り方についても見直す方向で検討するとも指摘されている。
 「概要」はさらにグローバル化時代の大学教育の在り方として、インターネットを通じて得た外国の大学の単位や学位の認定、インターネットを利用した日本の大学教育の海外への提供、教育の質の確保のための情報の国際交換や相互提供なども検討する方向も示唆している。
 以上に指摘されていることは、すでに諸外国ではとっくに行われているところだが、従来の日本の大学教育の在り方に対してはラジカルな挑戦といってよい。もともと学校や大学は、時間的、空間的に一定の制約を前提として成り立っていた。特定の年齢層から成るフルタイムの学生、特定の場所にあるキャンパスや教室、一定の時間帯の時間割、その他卒業や資格取得に求められる種々の履修要件や学費等を当然の前提とした教育制度が当然のこととされ、学習者は強制的にこれに従うことを求められていた。しかしインターネットに象徴される技術革新は、急速に伝統的な基本的制約を、或いは少なくともその一部を解放していく可能性があり、すでに少なくとも一部ではその前提は崩れかかっている。
 時間や場所の制約からの解放は、在宅学習やキャンパス外の学習を可能にすることにより、成人やパートタイム学生の参加を促進するだろう。そのことはまた、対面授業のみならず遠隔教育の正規参入を可能にすることでもある。対面授業以外の教育指導が可能になれば、単位や資格の認定の方法も当然変わらざるを得ないことになり、そうなれば、これまで対面授業の補完機能として位置付けられてきた遠隔教育が、同等の価値を認められるようになるかもしれない。場合によっては、インターネットによる授業のほうが、質量ともに対面授業を圧倒する時代が来ないとも限らない。そんな時代になれば、現行の設置基準は根本的な再検討が必要となるだろう。それどころか、これまで漫然とノートを読んで書き取らせるような講義をする教授は、なぜ高い授業料を払って、時間や空間の制約のある、インターネットより内容的に貧しい授業を聴講しなればならないのか、という学習者からの問いに直面することになりかねない。
 個々の大学にとって最も留意しなければならないのは、インターネットはもともとグローバルな規模と機能を持つものなので、大学は否応なしに国際競争に巻きこまれざるを得なくなるということである。すでに多数存在する外国の大学やバーチャル・ユニバーシティとの単位や資格の相互認定や互換の導入は、直ちにそれぞれの授業科目の内容、方法、質、水準等の情報公開や評価、国際的な認定を受けなければならないことにつながるだろう。これまでの単位互換制度は個別の大学間の相互信頼に基づく協定によって実施されてきたが、インターネットでどこの大学の授業科目も履修可能になるとすれば、それぞれの授業科目の質をどのように保証していくかは緊急に求められる評価の課題になる。「概要」は日本の大学教育の海外への提供を言及しているが、日本語という言語の障壁をどうするのか、質をどのように保証していくのかという難問には触れていない。むしろ日本の大学にとっての脅威は諸外国の大学教育の質とどう向き合うかということだろう。
 「概要」では触れられていないが最も緊急な課題のひとつは、インターネット時代における学生獲得競争である。学習者は、学校選択に際して、ますますインターネット情報への依存度を高めてくるようになるだろう。しかも彼らの求める情報は、単にホームページに出ている美人コンテストのような表向きの広報ではなく、授業内容や教授陣の質、将来性等を含んだ内容にわたる評価情報であろう。彼らは国内の大学だけでなく、世界の大学を比べながら、あたかもインターネット・ショッピングを楽しむように、カレッジ・チョイスをするだろう。
 これは別に未来の話ではない。海外ではとっくにはじまっているのである。日本の若者がインターネットで国内の大学を選んでくれるのか、それとも外国に流出していくのかは、インターネットが日本の学校に整備された頃から明らかになってくるだろう。いずれかを決めるのは日本の大学の質であり、まさにここで日本の大学の国際競争力が試されることになる。そういう意味で今回の大学審の概要は、遅すぎた提言とはいえ、きわめて重大な未来の予兆を示唆しているともいえる。

教員中心から学生中心の大学へ

 文部省の「大学における学生生活の充実に関する調査研究協力者会議」が6月に『大学における学生生活の充実方策について(報告)――学生の立場に立った大学つくりを目指して』(広中平祐座長)と題する報告書を発表した。これからは総体として教員の研究中心の「教員中心の大学」から、多様な学生に対するきめ細やかな教育・指導に重点を置く「学生中心の大学」へと転換を図るべきだという方向性に基づいて、もし具体的な提言を行っている。その趣旨や個々の提案はそれぞれ今日の大学にとって参考になるであろうし、特段異を唱えることもない。
 ただ報告の序文に、このテーマが学徒厚生審議会で提起されたのは40年も昔のことであり、「大学の取組が遅れてきたことは否めない」とあるように、今時分になってこんな当たり前のことをいまさら大学が指摘されなければならないとしたら、あまりの時代遅れに驚くほかはない。しかしこの会議自体も報告書でいまさらこの程度のことをいっているようでは、はなはだ新味に乏しい。ちなみに「教師の大学」から「学生の大学」への移行が日本でもはじまるだろうとの見解は、1980年代から少子化の予測と並んで筆者が著書や講演で繰り返し警告してきたところであって、あれから10年余りも経っていわれても事態の解決には間に合わないのである。
 少子化が現実のものになってから対策を講じようとしても、学校の淘汰や倒産が目前にきてから騒ぎ立てても、対症療法に終わるだけであろう。教育に関する改革は時間がかかり、長期間のたゆまない努力の積み重ねしか実効ある解決策とはならないからである。教育に関しては、無責任な社会学者やジャーナリストがしばしばいうようなガラガラポンと一気にかわれるような秘策は存在しないのだ。ドラッカーは学校とは何かという問いに対して、子どもに何事かを学ばせて、それを10年後に使わせることだと言っている。だとすれば、教育について公的な立場で発言しようとする者は、少なくとも10年先をにらんだ提言を出してもらいたいものである。

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