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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.359
教育開国と英語 ―鎖国からの脱却を― −3−

飯吉 透(マサチューセッツ工科大学 教育イノベーション・テクノロジー局 上級ストラテジスト)

 【学生の頭脳流出が始まった】
 しばらく前にベストセラーとなった「ウェブ進化論」の著者梅田望夫氏とは、私がシリコンバレーに住んでいた頃に知り合い、2、3回会って教育についてあれこれと熱く語り合ったことがある。その際、時々梅田氏を日本の大学生がバックパック一つ背負って訪ねてくる、という話を聞かせてもらった。梅田氏が呼ぶところの「頭が良く、できる子たち」である彼らは、東大など日本のトップクラスの大学に通っていることも多いのだが、自分の大学に物足りなさを感じ、「どうすればいいか」を相談するためにわざわざ自費で飛行機代を工面し、海を渡ってシリコンバレー在住の彼に会いに来るらしい。梅田氏は、そのような学生たちに、ほとんどの場合、「それならば米国の一流大学に入り直しなさい」と勧めるのだそうだ。そして、実際に留学に向けて一念発起し、米国の大学に入り直す学生が何人もいるという。
 私は、この話を聞きながら、いよいよ日本の学生の「頭脳流出」が始まった、と危惧した。「グローバル化し続ける世界で、自らの力で羽ばたける人材となるためには、米国で大学教育を受けた方がいい」と日本の高校生たちが考え始めているのである。そしてこれは何も、トップクラスの大学の学生だけに限られることだけでもない。私が以前務めていたカーネギー財団(スタンフォード大学の敷地内にあった)の近くに、Foothillという大きなコミュニティーカレッジがあった。普通のコミュニティーカレッジなので、老若男女様々な人種の学生がキャンパスに溢れていたが、この2年制のコミュニティーカレッジから、結構な数の学生が優秀な成績を修め、地元のカリフォルニア大学バークレー校をはじめ、州内の一流大学に転入(初年次からの再入学ではなく、3年次からの転入)をしている、ということを知ってとても驚いた。このコミュニティーカレッジには、入学が比較的簡単なこともあり、日本や他のアジアの国々からも多くの留学生が来ているが、これらの留学生でも、もし頑張って良い成績で卒業すれば、米国の一流大学に進学できる可能性がある、ということになる。既に「道は開かれている」のだ。
 【通行手形としての英語】
 その開かれた道を進むためには、最低限、十分な英語のコミュニケーション能力を身に付けなければならないのは言うまでもないが、逆に言えば、それだけのことである。かく言う私自身、国大附属の中学・高校に通っていた時の英語の成績は、常に最下位グループに属し、縁あって進学した国際基督教大学でも、英語を母国語のように操る帰国子女や「英語マニア」の学生たちに囲まれ、「英語ができない」という劣等感にさいなまされる日々が続いた。そんな私ですら、米国の大学院に留学し二年もすると(大学院での初日の授業が全く理解できなかったのは、今でもトラウマ的な思い出だが)、英語は何とかなってきてしまったので、やはり「習うより慣れろ」なのだと思う。だから、梅田氏が、志の高い日本の学生たちに「取り敢えず、米国の大学に飛び込め」と言いたくなるのも、よく理解できる。
 2013年度からの高校学習指導要領改定案は、「英語の授業は英語で行うことを基本に」と唱っており、日本の教育界では早くも「それは現実問題として、無理だ」という声が挙がっているらしい。このやり方がどれだけ効果的もしくは実現可能なのかは、私には判らない。しかし、このような方針を受けて、日本の大学に是非検討してもらいたいのは、「大学の授業は、講義分野にかかわらず、部分的に英語を導入してほしい」ということだ。外国人・日本人を問わず、全て英語だけで行う専門分野の講義、日本人の教員が授業の一部を英語で行う、もしくは外国から招いた客員教員とチームを組んで教えるのもいい。
 日本で、「大学生の英語力を高めたい」という声はよく耳にするが、「どうすれば日本の大学教員の英語力を高められるのか」という話はほとんど聞いたことがない。この両者は、本来「車の両輪」であるべきで、個々の大学における組織的、包括的な取り組みが望まれる。例えば、FDの一貫として、「教員の英語によるコミュニケーション能力の向上」や「英語教材の積極的な講義への導入」のための支援を行うのも効果的だろう。もし、このような支援を行うのに適当な人材が学内にいなければ、外部委託や非常勤の専門家の雇用も検討すべきだ。日本の大学の中には、外国人教員の比率を大幅に高め一定の成果を上げているところも幾つかあるが、私が強調したいのは、「日本の大学の教員コミュニティー全体として、英語への順応性を高める」という点だ。自分の研究分野においては、英語や他の外国語で書かれた文献を読み、海外での学会発表も行っているという教員は、どの分野にも少なくないのだから、同様の努力や試みを、教育活動の中にも是非取り入れてほしい。
 【教育鎖国からの脱却】
 MITで2001年にオープンコースウェアプロジェクトとして始まり、いまや日本も含め世界中の何十の大学によって展開されている「インターネットを利用した講義や講義教材の公開と共有」は、高等教育がグローバルな「協調と競争の時代」に突入したことを如実に物語っている。「教員や学生が、英語をコミュニケーションのための道具として有効に使えるようにする」という課題は、現在の日本の大学が直面している諸々の問題の中では、「比較的取り組みが容易」な部類に入るのではないかと思う。日本の高等教育が、国レベルでの大きな質的な低下を引き起こす前に、いかに「教育鎖国状態」を脱し、世界に開かれた日本の大学を増やしていくことが急務である。
 言うまでもなく、目指すべき最終ゴールは、「学生(ひいては教員の)の海外への頭脳流出を防ぐ」ことではない。日本の大学が優秀な学生や教員を数多く輩出し、彼らが「求められて」海外の大学へ行き、また海外からも優秀な学生や教員が日本の大学に大挙して来たがる。それが、目指すべき最終ゴールである。昨秋、ドバイで開催された世界経済フォーラムのグローバルアジェンダ会議に委員として参加した際、日本から出席されていた内閣特別顧問・政策研究大学院大学教授の黒川 清氏に、この「学生の頭脳流出」現象についてどう思うか、と意見を伺ったが、「これからの時代、やる気と能力のある日本人は、どんどん海外に出て、それぞれ頑張って世界的なネットワークを築いていけばいいのではないか」と語っておられたのが印象深かった。

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