アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.358
リーダーシップの育成 日本の大学に必要なもの −2−
【『スピード感』の欠如によって損なわれる国益】
去る2月上旬に米上下院が景気対策法案の修正案を可決した際、麻生首相は、「(米国では)国民の求めているものに議院、国会が素早く対応している。あのスピード感は羨やましい。(日本では)野党の反対でいまだにできないから」と記者団に語ったというニュースを目にした。一国の首相ともあろう人が、他国の状況を「羨ましい」とぼやくのは、リーダーとしての自らの非力を嘆いているようで居た堪れないものがある。しかし海の向こうから近年の日本を見ていると、教育だけに限らず随所における「対応の遅さ」が、国民にとっての不利益を招いていると思うことが少なくない。
私のアメリカでの生活は、もう15年以上になる。当初は、渡米し博士号を取得したら日本に戻って大学教員になるつもりだったが、その「スピード感」に惹かれ続け、気がつくと随分と時間が経っていた。この「スピード感」は、特に仕事において「人・組織・物事がダイナミックに動き、目に見える形で成果が出てくるまでの時間があまりかからず、充実感や達成感が大きい」という点で、一度知ってしまうとなかなか元には戻れない。
【『無責任な事なかれ主義』に蝕まれる大学のリーダーシップ】
「人や組織や物事がダイナミックに動く」ためには、少なくとも「個々人のやる気」、「強力なリーダーシップ」、そして「目標を達成しようとする集団的な努力」が不可欠だが、この中で、様々な危機的問題に直面している今の日本の大学に最も欠けているのは「強力なリーダーシップ」であろう。ここで誤解しないでもらいたいのは、私が「日本や日本の大学に、リーダーとして適切な人材がいない」と言っているのではないということだ。むしろその逆であり、私がこれまで知り合った日本の大学のアドミニストレーターや教職員の方々の中には、大学改善のための変革の必要性について真剣に考えておられる方が大勢いた。では、なぜ日本の大学で「強力なリーダーシップ」が台頭してこないのか。理由は幾つか考えられる。
まず、「リーダーシップ」を奨励・報償する文化や制度の弱さが挙げられる。即物的なことから先に言ってしまえば、例えば、アメリカの大学のアドミニストレーターの給与や待遇は、日本の大学に比べ遙かに良い。例えば、「Chronicle of Higher Education」が昨年実施した調査結果によれば、米国で博士課程を有する公立・私立の大学の学長の平均年俸は、約38万ドル(約3800万円)だった。実力のあるトップを厚遇することは、米国では慣例であり、経済界ではその行き過ぎが最近批判されてはいるものの、このような形での報償が大学のアドミニストレーターの仕事に対する熱意を高める助けとなることは間違いない。
しかし勿論、報酬の額を引き上げれば、それに見合った能力のある人材が自然と出てくる訳ではない。私は、日本の大学のリーダーシップを形骸化・無力化させてしまっている最大の問題点は、「持ち回り的なアドミニストレーターのポジションの任期制と減点評価主義」にあると思っている。例えば、教員による理事職にしても、アメリカの大学では、やる気のある教員が自らの「大学を改善するための公約やビジョン」を掲げて競う中で選ばれ、どの程度の成果が出せたかによってその人のアドミニストレーターとしての手腕が評価される。一方、日本の大学の場合、たまたまその理事のポジションについた教員が、一律に決められた役職手当をもらい、取り敢えず決められた任期を「大過なく」務められれば概ね良し、とされるのが一般的ではないだろうか。日本では、「最近アメリカの大学にあるそうなので、うちの大学にもIT担当理事というアドミニストレーターのポジションを新たに設けたものの、着任した教員にも一体これが具体的に何をするポジションなのか解らないようだ」という冗談のような話も時折耳にする。昔の日本のサラリーマンを揶揄したクレージーキャッツの往年の歌に、「居眠りしながらハンコをついていたら、いつの間にか社長になれた」という趣旨の青島幸男作の歌詞があったが、今や日本の多くの企業ですら年功序列制度は既に崩れ始めており、日本の大学における「やる気と能力と実績」を中心としたアドミニストレーターの評価システムの導入は必須である。そのような評価制度があってこそ、「年俸何千万」という高額報酬が、リーダーシップの対価として実質的な意味を持つことができる。さらに付け加えると、このような評価システムは、アドミニストレーターの斬新で果敢な試みがもし失敗に終わっても、そのアドミニストレーター個人に「敗者」の烙印を押すようなものであってはならない。リーダーたちの試みを皆で全面的に支援し、それがうまくいかなかった時は、それを「非難」ではなく「集団的な学び」として反省し、次の試みに繋げていく。そのような互助的で加点主義的な土壌があって初めて、真のリーダーシップが芽生え育つのだ。
【実績ベースの昇進制度と人材の流動性の確立】
優秀な大学のアドミニストレーターが多く育っていくためには、彼らのための適切な「教育環境」が必要だ。もちろん大学院などが「大学アドミニストレーターやリーダーシップ育成」のための課程やコースを提供することも大事だが、実際の仕事を通して、アドミニストレーターが学び成長していく環境を作ることが、大学行政における優れたリーダーシップを持続させていく上で不可欠である。
アメリカの大学の行政組織にいつも驚かされるのは、そのリーダーシップの層の重厚さだ。例えば、Vice President、Provost、Deanというようなアドミニストレーターの役職には、その下にAssociate Vice PresidentやAssistant Provostなどのように少なくとも2、3段階の職位が用意されている。教員の職位が、通常「助教」「准教授」「教授」と上がっていくように、アメリカでは、これらアドミニストレーターも、実績によって職位が上がり、またその昇進の過程で、経験を積んだ優秀なアドミニストレーターは、より好条件で他大学に引き抜かれていくこともある。例えば、MITの現学長であるスーザン・ホックフィールド氏は、イェール大学の大学院部長を務めていた時に、大学院生と大学院教員のインフォーマルな交流を深めさせるため、「1〜2人の大学院生が1人の教授を昼食に連れて行った時の昼食代は、大学が負担する」というユニークなプログラムを発案し、大学院における学生と教員のコミュニティー作りに貢献した。同氏は、その他多くアドミニストレーターとしての功績が認められ、同大学で副学長に昇格した後、MITに学長として招かれることとなった。このような上級アドミニストレーターの大学間の移籍は、アメリカでは頻繁に見られ、このような人的流動性が高等教育全体のリーダーシップの質的向上に大きく貢献している。
最後に、日本の高等教育全体におけるリーダーシップを考えれば、それは大学内部における行政の範疇だけに留まらないのは明らかだ。文部科学省などの関連省庁や行政・立法に携わる国のリーダーたちの資質が大いに問われなければならない。言うまでもなく、「やる気のない人」に改革や改善はできない。また、「何も変えられない」ではなく「何でも変えられる」と自分で信じられなければ、仲間はついてはこない。さらに「やる気や信念」だけでは不十分で、戦略と実行力が伴わなければ、成果は出せない。自国の現状を憂い続け、他国におけるスピード感溢れる進捗を羨むだけでなく、諦めずに出来るところから一歩一歩着実な努力を積み重ねるべきであろう。スピード感を持って快走できる日が、遠からず来ることを信じながら。