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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.335
FDを考える 義務化と今後の課題

  大ア 仁(IDE大学協会副会長)

 今年4月からの「FD義務化」を受けて、さまざまな動きが大学に広がっているようである。私も関係している「IDE 現代の高等教育」では、8・9月合併号で「進展する大学のFD」と題するFD特集を組んだ。FDをめぐる論議や実践を深める一助になればと考えてのことである。
 FDの義務化とは
 FDとは、ファカルティ・ディベロップメント(Faculty Development)の略語である。ファカルティ・ディベロップメントを正面から取り上げた大学審議会の「21世紀の大学像答申(平成10年)」は、用語解説で「教員が授業内容・方法を改善し、向上させるための組織的な取組みの総称。FDと略して称されることもある。その意味するところは極めて広範にわたるが、具体的な例としては、教員相互の授業参観の実施、授業方法についての研究会の開催、新任教員のための研修会の開催などを挙げることができる」と説明している。
 答申本文では、「各大学は、個々の教員の教育内容・方法の改善のため、全学的にあるいは学部・学科全体で、それぞれの大学等の理念・目標や教育内容・方法についての組織的な研究・研修(ファカルティ・ディベロップメント)の実施に努めるものとする旨を大学設置基準において明確にすることが必要である」と提言した。時の文部省はそれを受けて、翌11年、大学設置基準に次の一条を加えた。FD実施の努力義務である。
 (教育内容等の改善のための組織的な研修)第二十五条の三:大学は、当該大学の授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究の実施に努めなければならない。
 「FD義務化」というのは、この「実施に努めなければならない」という努力義務が、今年4月から「実施するものとする」という実施義務に改められたことを指している。その契機となったのは、平成17年の中教審答申「わが国高等教育の将来像」であるが、そこには、「高等教育の質の保障を考える上で、評価とファカルティ・ディベロップメント等との連携方策が重要である」という趣旨の一文があるだけである。それだけで義務化となったのは、大学院設置基準での義務化が先行していたことと評価との関連付けを考えてのことであろう。なお、ファカルティ・ディベロップメントの用語解説は、「21世紀の大学像答申」と全く変わっていない。
 大学の取組み
 前述のIDEのFD特集を見ると、大学の取組みが予想以上に進展しているのに驚く。文部科学省の調査では、平成17年度には、FDの取組みを行っている大学は、全体の80%に達している。その具体例としては、「初任者研修」と「公開授業」が取り上げられているという。一方、大塚雄作京大教授によれば、関西地区FD連絡協議会の設立に向けて行われた調査では、全学的FDとして「授業アンケート(93%)」、「外部講師を招いて講演会(67%)」、「FD関連集会派遣・出席(55%)」などが主要な事業として実施されている。
 注目されるのは、法政大学のFD推進センター、大同工業大学の授業開発センターなど多くの大学が学内でFDを担う組織を整備していることである。関西地区では今年4月に「関西地区FD連絡協議会」が発足し、100校近い大学の参加があったという。
 ファカルティ・ディベロップメントという言葉が公に使われたのは、平成3年の大学審議会答申「大学教育の改善について」においてであった。一般教育・専門教育の区分を大学設置基準で強制することを止め、各大学が自由にカリキュラムを編成できるようにすることを提言したこの答申は、同時に自由化を活かしての大学の取組みにいろいろ注文も出した。その一つが、「教員の教授内容・方法の改善・向上への取組み(ファカルティ・ディベロップメント)」であった。
 「FDとかファカルティ・ディベロップメントとかいっても、何のことかさっぱりわからん」というのが、当時の大多数の大学人の感覚だったと思う。それがここまできたのは、大学の大衆化の現実と関係者の努力によるものであるが、大学設置基準による努力義務が大きく働いたのも事実であろう。これがさらに義務化となり評価と結んで動きを加速させることは、想像に難くない。しかし、そこに問題が無いわけではない。
 今後の課題
 大学設置基準をFD実施の政策手段として用いた効果を認めるのに吝かではないが、本来、大学設置基準とは、大学が備えるべき物的、人的条件と学位授与の要件となる教育課程について定めるものである。教員研修のような大学運営のことまで義務付けていいのか、学校教育法がそこまで授権しているのかは議論の余地がある。
 それはさておき、特集でも多くの論考が懸念しているのは、義務化が形骸化を招きはしないかということである。用語解説まで付けて、ファカルティ・ディベロップメントというカタカナ語を使い続けているのは、日本語では表現し難い要素がそこに含まれているからである。それを設置基準で「大学は、当該大学の授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究の実施に努めなければならない。」と限定することによって失われるものは大きい。
 FDの主体は大学に限らない。教員集団(ファカルティ)の自発的取組みが重要であるし、英国のハイヤー・エジュケーション・アカデミーのような組織をつくって、大学や個々の教員の努力を支援することも考えられる。またFDの内容を「授業の内容及び方法の改善」に限定するのも問題である。大学教育の改善が目的であるならば、カリキュラム編成から始めるべきであるし、授業と学習の両面からの取組みも大切である。大学における取組みの実態を見ても、内容は多様であり、「授業の内容・方法」に限定されてはいない。
 義務規定を形式的に適用し評価に短絡させるような運用はされないものと信ずるし、大学も義務規定を過度に意識してFDを矮小化することのないよう望みたい。今後は、設置基準に安易に頼ることなく、先進諸国の例に倣って、大学や教員の努力に対する支援措置に重点が置かれるようになることを期待したい。

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