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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.327
ユニバーサル段階における教育機会の公正・平等とは?

  私学高等教育研究所研究員 米澤彰純(東北大学高等教育開発推進センター准教授)

政府の財政的役割問題への再注目
 高等教育における政府の役割、特にその財政支援の役割が、再び大きな注目を浴びている。
 まず、教育基本法改正との抱き合わせで始まった教育振興基本計画の検討作業が中央教育審議会などの討議を経て具体化してきた。また、道路特定財源の一般財源化の方針が2008年5月に閣議決定され、各省庁に新たな予算獲得への機運が高まっている。さらに、安倍政権から引き継がれた経済財政諮問会議や福田政権下で発足した教育再生懇談会などで高等教育の国際化や国際的競争力強化が提唱され、特に福田首相のイニシアティブによる留学生30万人計画実現のための、積極的な財政支援の拡充が期待できる。最後に、現在国立大学の中期目標・計画の評価が進行中であり、早くも次期へむけて、どのように国立大学間、あるいは公立・私立をふくめた高等教育の財政配分を進めていくかの議論が本格化しはじめている。
 しかし、このことの構造的背景としては、天然資源に恵まれず、人的資源に経済・社会発展の多くを依拠せねばならないにもかかわらず、GDP0.5%という極めて低い水準の高等教育公的支出に長年とどまってきたことのつけが、もはや取り返しがつかない状況にまで達していることがあるだろう。新興国の台頭や知識基盤社会への投資の国際競争が激化する中で、高等教育関係者のみならず、政府や議員の間にまで、高等教育、そして教育全体のあり方をめぐる危機感が広く行き渡っていることは明らかである。現在の議論は、これら長年の不満や矛盾が、今、一気に吹き出したものととらえるべきであろう。

あるべきイメージの不透明さ
 他方で、今何が政府の財政的役割として求められているかのイメージは、極めて不透明である。高等教育への公的支出を抜本的に拡大すべきだ、ということは、すでに各方面から様々な形で提案されているが、では、それをどのような形でどのように分配していくのかについては、多様な関係者によるそれぞれの立場での声高な主張が目立つばかりで、全くコンセンサスがみえてこない。私学関係者の議論にしぼってみても、国立大学とのイコール・フッティングや、研究を中心とした競争的資金の拡充を求める議論は、一部の競争力の強い私学からのみ発せられているものであり、私学全体のコンセンサスとはいえない。
 他方、私立大学協会による私立大学が地域に果たす役割についてのアピールは、地方国立大学や公立大学が行う議論と差別化できるものではない。さらに、営利大学が都市部で求めている新規参入や、様々な規制緩和措置は、既存の「良心的」私学で、しかも競争力がそれほど強くない諸大学にとっては、大学教育や経営におけるモラル・ハザードにしか映らない。国際化の推奨についてもそうだ。政策意図は、世界水準の競争に参加できるごく少数の大学への集中投資なのだが、現実の「国際化」は、もっと広範な形で進行している。

エリートからマス段階への移行における公正
 こうした不透明さの背後で、より普遍的な次元で、抜本的な議論の転換が求められている分野がある。「ユニバーサル段階における教育機会・達成の公正・平等とは何か?」という問題だ。
 高等教育の機会拡大と、それに付随する公正・平等の問題提起や分析の多くは、実は、トロウのモデルにおけるエリート段階からマス段階への移行を主題にしたものが中心である。この傾向が特に強いのが英国の議論であり、2007年に学費が3000ポンドという、日本の国立大学を上回る額に引き上げられたことに相前後する形で、英国政府や大学は熱心に、高等教育への参加拡大のための施策に取り組んでいる。この背景には、クレア・カレンダーの研究などから、英国が過去20年ほどの間に高等教育進学率が急速に高まったにもかかわらず、その多くはミドル・クラスの進学率を高めただけであり、高等教育への参加の階級間格差はかえって拡大したとの見方が、ほぼ定説化していることがある。
 日本でも、社会階層と移動調査(SSM調査)のメンバーを中心として、この問題への検証が進められてきた。そこでの一つの結論は、荒牧草平が主に1995年の調査データで示した、高等教育進学に関わる階層間格差が一貫して継続している、というものであり、さらに近藤博之は、政府による学生生活調査などのデータを用いて、高等教育の進学機会が拡大している時期に、かえって所得階級間の進学格差が広がっているという議論を展開しており、これは英国の議論と大まかには一致する。
 マス型の高等教育が定着し、学歴による選抜に深く巻き込まれる層がさらに拡大し、世代的にも広がるなかで、誰もが教育をめぐる選抜にまきこまれる「大衆教育社会」(苅谷剛彦)、さらに、親・本人・子どもという三世代にわたり比較的教育達成の経験が近似していくことで学歴社会の問題がより深く社会に影響を与えるという「成熟学歴社会」(吉川 徹)の議論が現れ、学歴社会とその格差問題の深化が議論されてきた。

ユニバーサル段階における公正・平等
 では、専修学校専門課程を入れれば80%近くが高等教育に進学するというユニバーサル段階における政府の財政的役割とは何か、また、進学における社会・経済的公正・平等をどうとらえていけばいいのか。これを知るためには、筆者は、社会・経済階層の構成の代表性が比較的厳密に担保されたサンプルをもつ社会調査データについて、高等教育機関の設置者の違いを含めた多様な類型にわけた詳細な検討が有効であると考え、メンバーとして参加した2005年のSSMデータを用いて、15歳時点での成績と家計の違いによる進学動向の長期的趨勢の分析をおこなってみた。その結果からみえてきたのは、成績や家計別にみると、各カテゴリーとも、一貫した高学歴化が戦後進行してきており、専修学校専門課程までを含めて高等教育進学をとらえることが有効であること。特に男性に関しては、成績・家計双方で恵まれた層の進学機会が全入となりこれ以上伸びようがない中で、この他の層の高学歴化が一貫して進むという、「天井効果」による機会の見かけ上の「平等化」が進んでいることである。詳細にみれば、小林雅之などが東大による高校生のパネル調査で示しているように、学費が高い私学や4年制大学への進学を経済的理由であきらめていると考えられる層は一部確認でき、格差はより質的な問題として残りそうである。他方、女性に関しては未だ男性との進学格差は大きく、また、マス型の高等教育の定着の中でむしろ格差は拡大する過程にある。
 特に、この「天井効果」と格差問題の量から質への転換は、中等教育では目新しい議論ではないが高等教育においてはまだ十分に検討がなされていない。高等教育がユニバーサル段階にある比較可能な国も、韓国や北米など少数にとどまる。日本は、少子高齢化においても「先進モデル」であり、この問題の枠組みを自ら探求していくしかない。
 以上の検討は、国際的に活躍したい学生に対する「国際的に通用する」高等教育の提供という新たな課題を加えると、さらに複雑な議論となる。また、高等教育への公的支出をともかく今確保しようとすることは、実際大きな意義がある。その上で、高等教育の財政支出のひとつの理論的根拠となりうる公正・平等の問題において根本的な問題の転換が起きていることに、今思いをはせることは極めて重要ではないか。

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