アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.319
FD活動の充実に向けて ―FDを授業改善に限定する問題点―
(慶應義塾大学総合政策学部教授・
慶應義塾湘南藤沢中高等部前部長)
「FDの専門家」とか「ファカルティ・ディベロッパー」といった耳慣れぬ言葉を聞くようになった。その正確な意味はまだ固まっていないようだが、各大学でFDを推進する立場にある人をさす場合もあれば、FDの歴史、内外のFDの事情を解説したり、FD活動の事例を紹介したり、他の大学のFDの進め方などを助言する人をさす場合もある。さらに授業を参観して改善のための実践的アドバイザーであるケースもあるだろう。
しかし元々ファカルティ(教授団構成員)は、全員が自らの啓発や研鑽を自律的に行うことのできるプロフェッショナルな集団のはずである。「FDの専門家」などと自称する外部の人間に依存するのはFDのあるべき姿とはいえないのではないか。他律的な存在として「ディべロッパー」や「FDコンサルタント」に支持を仰ぐような依存的体質では自律性が疑われる。
大学院に続いて平成20年4月から学部教育においても「FDの義務化」すなわち各大学が授業の改善のための組織的取り組みをするものとされ、FD活動が大学組織のなすべきこととして規定された。
FDとは、ファカルティ・ディベロップメントの略称であり、元々は「教授団資質の開発」と訳されていた。それはファカルティというのが、教授個人であると共に、教授者の集団である教授団を意味していたからである。大学教育は個人と個人の二者間の教授・学習行為ではなく、学生集団に対して教授者集団がチームとして教授活動を展開することを想定している。体系的な授業科目群からなるカリキュラム編成のもとに、シリーズとしての個別授業の教授を展開するのが大学教育だからである。
定訳のはずの「教授団資質の開発」であるFDは、最近の文部科学省の説明にもあるように「教員が授業内容・方法を改善し向上させるための組織的な取組の総称」という理解が一般化しつつある。審議会答申にもFDは「その意味するところが極めて広範」とされ「教員相互の授業参観の実施、授業方法についての研究会の開催、新任教員のための研修会の開催など」と具体例が示されている。
しかしここではFDを二つの視点から整理して理解することを提案したい。FDを狭義と広義の両方の視座から複眼的に理解しようという提案である。
ひとつは、狭義のFDであり、それは、授業スキルや教授方法・教授技術の向上という限定された意味である。
もうひとつは、それとは対照的に広義のFDとして、大学の教育力の向上という意味として理解する観点である。実際のFD活動の実践においては、狭義と広義の両極の中間にその連続線上での様々な活動が位置づけられる。
ミクロな個人の創意工夫・改善努力の集合もFDであるし、組織全体としての運営方針の策定と実施、それを実現支援する財政的保証などによる大学としての施策もFDである。総合的な大学教育力の向上は、監督官庁の助言指導や財政的支援も「マクロなFD(大学の教育力の向上努力)」とみなすべきである。高等教育への財政支出の割合の増加や対前年比率の向上はその国の教育力の向上につながる。財政支援の向上が伴わない「義務化」は画餅かスローガンにすぎない。
もともとFDとは、ファカルティ(教授団)のディベロップメント(開発・育成・向上・強化)といった意味に使われていた。上述の狭義と広義の中間的なイメージをもっていた。狭義には、教室での授業方法や授業技法・教材提起の技術的なスキル向上などが強調される。一つの典型は、ITの授業での活用である。
しかし、これだけではFDのマクロ的な理解が抜けており、FDのミクロ的関心から抜け出せない閉塞状況に陥りやすい。その危険性の最大のものは、大学は個々の授業の単なる集合ではないという点への理解が欠落する点である。個々の授業担当者が一人一人の授業のことだけしか見ないという視野狭窄を招く。これではFDの意味をあまりに限定しすぎて本来の言葉の意義を結果として歪曲してしまうと断じざるを得ない。
その理由は、大学という教育組織が、組織として教育活動を持続的に展開しているという側面を軽視させ、チーム意識を後退させてしまうからである。授業担当者が自分の授業に関してのみ教授技能の向上に努力するだけでは大学の教育力はあまり向上しない。
教室で学生に接する授業担当者の力量さえ向上すればその大学の教育力が向上するというのは安易な楽観論である。
具体的にはカリキュラム改革などは個々の授業担当者の力量とは別の次元での組織の教育力を規定しているからである。マクロな観点なしのミクロな教授技量開発だけでは労働強化につながりかねない。形骸化への始まりになる。そればかりでなく、本来のFDの言葉の意味が正しく理解されないまま無駄の多いFD展開となる。成果が出る前に疲弊してしまい、形骸化に向かう。その理由は、個別の教授者の教授技量だけに関心を限定すると、FD特に教授団という集団としての特性に注意を向けさせるという注意喚起の本来の趣旨が隠されてしまうからだ。二つのマイナス効果が生まれ、FDの形骸化につながる危険が生じる。
第一は、組織あるいは集団として学生たちを教えているのであるから教授団という集団としての連携や協力協働体制が重要である。学生を機軸として教授者が相互に連携してこそ発揮できる教育機能はその組織の教育力の底力である。教える者どうしの共同体意識の形成が必要なのは、教授者個人の単なる集合ではファカルティとはいえないからである。
教育理念の共通理解、目的の共有、教授方法の共同研究・開発、持続的な相互の連携と協力。それらは相互の信頼に基盤をおく集団としての結束なしに実現しない。いくら強力な教授能力をもつ複数の教員がいてもチームとしての結束性や連携なしでは教授団と呼びにくい。
第二は、昨今の競争的環境の中で教員評価というテーマが、独走しかねない。能力査定や業績主義、あるいは「成果主義」の発想が大学という教育組織に安易に導入され、FDにも浸透しかねない点である。
教育活動を教員集団の継続的集団的活動という面を看過させるにとどまらず、教員の教授技術や説明能力などに矮小化して教員個人の評価につなげるようなことになれば、教授団は単なる個人の集合に還元されてしまう。教授団を形成するどころか、個々ばらばらの教員群に後退させることになりかねない。しかも年間最優秀教員などといった教員個人間に競争的関係を醸成し、俸給に差をつける形での成果主義と競争による評価を導入したのでは、ファカルティ・ディベロッパーというよりファカルティ集団の破壊者である。これでは言葉の本義から言っても「教授団」の資質開発にはつながらない。大学というところは、授業科目と科目との関係を慎重に検討し、全体的で包括的なカリキュラム体系のもとに授業を提供している教授団の集団的教育活動であるからだ。ばらばらに授業科目が店頭に並べられているわけではない。個々の授業技術の向上だけが教育効果を高めるわけではない。
次に広義のFDについて言及しよう。大学が組織として教育活動を展開しているのは自明であるが、組織の活動は常にその組織が置かれた環境の状況抜きに組織の活動を論じることはできない。日本の大学のFDを関心の中心に置くなら、当然のこととして日本の大学組織の在り方を前提としたFD論の展開が必要となる。日本の大学の特徴はその歴史的観点からも公私の並存型である点をまず認識すべきであろう。日本の大学状況の基本構造は、財政的裏づけを国家や地方自治体に持つ国立大学法人の場合と学校法人といういわば私的法人の場合の公私並存型である。
また長期的な視座の中で日本の大学で教える者がどのように育成されてくるのか、その過程への自己理解も必要である。研究者が大学での授業担当者であることが慣例となっていて、授業担当者の研究者としての研究業績への評価を軸に、その授業科目を教えることができるか否かの適格審査がなされる。研究分野と教授科目との適合性が教育の質の保証の第一歩であることがわかる。
研究者としての資質に加えて、教育者としての資質を開発し、教授団の一員としてチームとしての教授能力を向上させること、個人と集団及び組織が一体となってバランスよく大学教育力を高めることが求められている。