アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.316
大学リテラシー試論 自校への認識とアイデンティティーの確認・共有 −2−
今ほど個別大学の「建学の精神」や「個性」が求められる時代はない。大学のPRのためにはもちろんのこと、さまざまなプロジェクト評価の機会や申請業務の際にも、必ずといってよいほど問われる。だが課題は形式的に言葉を並べることではなく、建学の理念・精神や個性が実質的に働き、また構成員に共有されていることである。「大学リテラシー」の第2は、「勤務する自校への認識を高め、自校のアイデンティティーを認識し、その認識を相互に確認・共有していくこと」である。
いうまでもなく、職員の初任者研修等の一部には「建学の精神を学ぶ」といった科目がしばしば設けられてきた。また新任教員に対して「本校への案内」といった催しを開き、学長名で全員出席を求める大学も増えてきた。FD実施が義務化する来年度以降、こうした動きはさらに広がると思われる。その確認・共有作業を学生諸君も含めて実行するには、どのような方策があるか。さらに実施作業に教職員はどのように参加できるか。これについて1つのアイデアを記してみよう。それは「自校教育」の実施という試みである。
筆者がここ数年唱導してきたのは、簡単明瞭な提言である。
―「学生たちは、自分が選んで入って来たはずの大学について、ほとんど何も知らない。類似の性格を持つ他大学とどこが共通しどこが違うかについても、無知に近い。そこへ切り込む授業科目を設定し、授業活動を行うことが大切ではあるまいか。それを通じて学生たちは在籍する大学について正確な知識を得ることができる。それだけでなく、自分とは何かという自己認識をつくりあげるのにも、大きな効果がある」―
発案したのは、1997年に立教大学で開講していた全学共通カリキュラム科目の「大学論を読む」のなかで「立教大学を考える」という2、3時間の講義を試みたことだった。同じころ、『百年史』を刊行し始めた明治大学でも、同様の試みをされていたというし、2000年代に入る前後から広がりはじめ、マスコミの一部でもニュースになった。
2005年12月、立教大学の全学共通カリキュラム運営センターがシンポジウム「自校教育の意義とその可能性をさぐる」を開催した。全国に呼びかけたのも効果があったのか、たくさんの参加者が集まった。そのころ、本紙が筆者の講演記録を連載してくださったのもよかったかもしれない(「自校教育という実践―その試みと意義を考える」拙著『大学は歴史の思想で変わる』、2007年、東信堂刊、所収)。フロアには25校以上の東西の大学からの教職員が集まり、主催者としては大いに励みになった。
報告されたのは、九州大学、神戸大学、京都大学、立命館大学、明治大学、立教大学の六大学だった。必修科目として全学部が輪番で講義する、教養科目の1つとして選択科目として置く、全学教育機構が主催する、資料センターが担当する等々、色々な形態や方式で自校教育が行われていることが分かった。
第1に、どの大学でもおおむね学生たちの参加は熱心で、大学側も意義を高く認められていること、第2に、その大学の歴史的背景についての内容を盛り込むことが大いに効果があること、などが共通して報告された(立教大学全学共通カリキュラム運営センター機関誌『大学教育研究フォーラム』11号、2006年春号参照)。自校教育の試みは、まさに今求められてやまない「建学の精神」の確認、大学アイデンティティーの共有に大きな威力を発揮する方法だ、ということが明らかになった。
個性を知り校風にあこがれて大学を選ぶ学生は一握りである。難関校を受ける者は難易度を基本にし、専門学部学科を選定し、あるいはブランドを選んで進学校を決める。推薦枠やAO入試枠の大きい「全入型」大学の場合、確かな理由のもとに大学を選ぶ者はもっと少ないであろう。偶然に入学し、たまたま教室に座っている。要するに日本の大学は圧倒的多数の不本意入学者で満ちている。シンポジウムに多数の大学関係者が集まられたのも、こういう事情への憂慮が共通にあったからではないかと思われる。
ところで、「勤務大学を知る」ということは、職員の方々にとっても必須のリテラシーではないだろうか。
誤解であることを祈るが、職員の方々も、それぞれの大学を職場として選ばれた際、実は学生たちと大差ない状況にあったのではないだろうか。「この大学はいかなるところか?」それを知悉して入職される方がすべてとは言えない。偶然の流れのなかで「たまたまの職員」をされている場合も少なくあるまい。その危うさを救うのは、大学アイデンティティーの認識と共有という作業である。例えば「○○大学を考える」といった自校教育科目を複数の教員とともに企画してみるのもよい。内容構成のアイデアを出したり、出講者に交渉したりするのもよい。そうした協働作業のなかで得るものは少なくないはずである。
さらに、「自校教育」が職員の大学リテラシー形成にもうひとつの効果を持つのは、授業に職員が参加する機会を設定できるからである。大学の学生援助の努力、相談活動の特色などを語るコマがあれば学生部の職員に、キャリア支援の特色を語る場合はキャリア・センターの職員に、蔵書の特色や図書利用のガイダンス等は司書職員に、それぞれ教壇にのぼってもらうことができる。
また、私学では同窓の先輩職員が後輩となる学生たちに「わが職場」について語ることもできる。学生たちの自校理解にとって大きな刺激となるし、質疑を通じて情報も交流できる。また、教員が抱えている「ティーチングの苦労」を身をもって理解する機会になるだろう。
加えて強調しておきたいことがある。それは、自校教育が効果を発揮するには、正確な大学史の情報が不可欠だということである。言葉を換えると、近年特に本格的になってきた沿革史編纂事業の成果や大学アーカイブス(文書館)の整備と活用が、授業の基礎にとって不可欠である。前述のシンポジウムでも、各大学の授業の企画実施の中心は、色々な学部で近現代史や教育史を専攻され、沿革史を編纂されている教員の方々だった。その編纂作業やアーカイブス運営を担っている職員の方々も必ずおられるはずだが、そうしたメンバーも、期待すべき自校教育協力者となる。
このほか、宗教系の大学では教団や宗門系の教職員や聖職者・宗教家たち、また現に社会的に活躍している卒業生、さらに一部の国立大学法人が先駆的に試みている名誉教授たちなどがある。実に多様なメンバーに分担してもらうことができ、また多くの場合喜んで協力してもらえるのも、自校教育である。
つまり、これまでバラバラに分散していた大学内外の多くの力を総合し、大学コミュニティーの姿を再構築することができ、同時にまた職員のための新しいリテラシー形成の場になる。「自校教育」という企画・実践は、大学の、大学らしい活性化を期待できる試みと考えられるのである。
(つづく)