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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.311
財政なき大学改革 −「量」の成功と「質」の失敗−

  私学高等教育研究所主幹 瀧澤 博三(帝京科学大学顧問)

 なぜ増えない、私学予算
 20年度予算においても私大の期待は実らず、私大経常費助成は前年度比約1%減に終わった。教育基本法に私学振興が謳われ、グローバルに進行する知識社会化の中で大学への期待が声高に語られるにもかかわらず、高等教育の8割近くを占める私大への助成は減少を続けている。高等教育への予算は、政治でも世論でも、理念的な支持は得られても、コップの中の競争で他を押しのけるだけの力を持ち得ないのは何故か。一つには、教育は「百年の計」である上に、その費用効果は客観的、数値的に把握しにくいということがあるだろう。とくに私大への公費支援の根拠とされる教育のもたらす社会的利益(外部効果)をデータとして示すことは難しい。示し得たとしても感覚的な説得力は持ちにくいだろう。こうしたデータとしての説明の難しさを補えるのは、大局的な見方としての比較の手法だと思う。
 比較には歴史的、時系列的な比較と、国際比較がある。歴史的比較を一つ挙げると、日本は明治期以来貧しい国家経済の中で教育には驚くべき努力をしてきた国である。結果として先進各国に比べて、所得水準では後進国でありながら、教育の普及率では先進国であった。そのことがその後の日本の高度成長をもたらしたというのが一般的な理解であろう。教育が最も効率的な将来への投資であることを示す歴史の事実である。ところが、高度成長を果たした今、逆に教育投資を軽視していることをどう考えるか、というのは歴史的な比較による一つの問題提起である。また、私学振興助成法制定以来の私学政策の漂流ぶりと助成法の精神の経年的な空洞化を問題とすることも時系列的な比較手法の一つだろう。
 もう一つの国際比較は、グローバル化の急激な進展の中で、何事につけ国際比較の視点が重視されている折から、より説得的かも知れない。現に最近は高等教育財政に関して、OECDの調査が盛んに引用されている。この点について少し述べて見たい。
 OECDの見た日本の高等教育
 既に40年前のことになるが、OECDの教育調査団が来日し、日本の教育の現状を調査、分析して改革の提言をまとめた報告書がある。調査団のメンバーは、フォール元仏首相、ライシャワー元駐日米大使、ドーア英サセックス大学教授など5人の国際的に著名な識者、研究者であり、また、当時は中教審の46答申が大詰めの審議中であったこともあって、大学の改革論議に大きなインパクトを与えた。この報告書は、日本の高等教育に対する核心をついた観察と提言によって、その後もわが国の高等教育改革に様々な影響を与え続けてきた。
 この調査は日本の教育段階のすべてを対象とするものであったが、報告書の内容は大半が高等教育に関することであった。この点について報告書では「われわれは自分たちの国にくらべて、初・中等段階での日本の成果がいかに大きいかに深く印象づけられた」、「とりわけ初・中等教育についていえば、日本の人々に役に立つようなことをこちらから指摘したり、示唆するよりも、むしろわれわれ自身の方が学ぶべき立場におかれているのではないかというのが、調査団の一般的な意見であった」と率直に述べている。40年前の当時、すでに外国の研究者の目にも、日本の教育の大きな改革課題は高等教育にありと映っていた。
 調査団の問題意識の要点は、日本の高等教育の鋭く尖ったピラミッド構造と、その一元的で硬直的な性質にある。そのような高等教育の構造的な欠陥は、高等教育財政の在り方と密接な関連がある。報告書が問題として第一に取り上げたのは高等教育財政の在り方であった。いわく「日本の場合、高等教育に対する不満の大部分は、その投資の不足に原因がある」とし、「日本の高等教育への投資は際立って低い。絶対額で見ても、一人当たり国民所得に対する比率で見ても、それは他国の水準を大きく下回っている。しかもこの格差は、過去の教育投資を在籍率の伸びと比較したとき、さらに際立った形であらわれてくる。在籍率の伸びが「量的拡充」を、学生一人当たりの経費の増加が「質的拡充」を示すものとすれば、日本では1935年から1965年の間は、量的拡充だけしかみられない。他方、イギリスと西ドイツは質的拡充のみを、またアメリカは質・量両面の拡充(ただし近年は主として量的拡充)を実現してきた」としている。また、高等教育への投資については、額を増やすだけではなく、配分を変えることも必要だとし、「投資配分の最大の誤りは、主として、私立大学よりも国立大学に重きをおいている点にある」と指摘している。
 その後大学の改革は、自由化、弾力化の方向で著しく進展した。しかし、固定化された鋭いピラミッド構造、学生の費用負担と受益における国立と私立の大きな格差など、調査団の指摘した基本的かつ構造的な欠陥は、40年後の現在も依然として改革にほど遠い。基本問題の改革に道をつけるような財政措置の確立をネグレクトしてきたことと無縁ではない
 最近しばしば引用されていることであるが、OECDの調査「高等教育機関に対する公財政支出の対GDP比のOECD各国比較(2004年)」によると、日本の対GDP比は各国平均の半分の0.5%であり、加盟国中最低の水準である。日本の高等教育への国際的な評価の低さを自覚しながらも、国としての財政的な努力不足が依然として続いていることを国際社会に晒している。
 また、国立大学の運営交付金総額(17年度決算)は1兆1130億であるのに対し、学生数で4分の3を擁する私立大学等の経常費補助金(17年度交付実績)は3239億にすぎない。私学の学生は、国立の倍の学費負担をしながら、国からは国立よりはるかに少ない支援を受けているという非合理な格差も依然として変わることがない。
 戦略的投資のない高等教育政策が残したもの
 戦後の新しい高等教育システムの整備は、大きな財政投資はしないということを最高の命題としてきたようにさえ思える。終戦後の国家経済破綻の時代はともかくとして、その後の経済の高揚期を通じても、これは変わらなかったのではないだろうか。このことは高等教育の整備に国家戦略的な高い位置づけを与えられたことが戦後かつてなかったことを意味し、今日の日本の高等教育に二つの大きな欠陥を残した。
 一つは、新制大学がその本来の教育理念を実質化することなくして量的発展を続けたことが、深刻な教育の質の低下を招いたことである。戦後の学制改革による新しい大学制度の理念の多くは、必要な資源を欠いたままに、形骸化し、実質化されることがなかった。単位制度を象徴とする新しい学部教育は、授業方法、教材等の開発、授業支援体制や学習環境の整備などが伴わなければならなかったし、課程制となった大学院は、組織的なカリキュラムの編成と実施を可能にするような教育指導体制と環境の整備が不可欠であった。戦前の教育体制を引き継いできただけの新制大学にとって、膨大な資源投入を要する大仕事である。
 学制改革後半世紀を越えた今になって、単位制の実質化、大学院の課程制の実質化ということが改めて重要な改革課題として提起されているが、財政を伴わない改革理念は空洞化するという経験は生かされるだろうか。このための予算としてGP予算等の競争的経費があげられるが、これは政策的な誘導策であって、必要な財源投入ではない。政治家や財界人からは、もっと大学の国際競争力をという声は上がっても、教育の質向上のために公費支援の充実をという声は弱い。大学は公費支援を増やすことより、厳しい評価と競争によって経営の効率化を進めることが先決だとする声ばかりが高い。欧米諸国が、知識基盤社会における国家経済発展への国家戦略として、知の拠点たる大学への資源投入の強化に努めている時、日本のみが逆方向を向いて、公的支援の縮減と大学のバッシングに専念しているように見える。資源の投入なしに各大学、教員の努力によって改革を進めようとする竹ヤリ精神の実態は基本的に変化がない。
 もう一つは、国立大学を中核として政策を遂行するという戦前の高等教育行政の姿が、暗黙のうちに戦後にも引き継がれ、国費支援における国・私の大きな格差が、解決の糸口も見つからないままに固定化されていることである。私立の学生が全体の4分の3を占めるようになったいま、この非合理は高等教育全体を覆う問題になってしまった。国際的に見て極めて低い水準の公的投資によって、高等教育の高い普及率を可能にしているものは、高等教育の大半を占める私立の学生に押し付けられたこのような非合理な格差に他ならない。
 日本の高等教育は、少ない資源で「量」の課題に対応することには成功したが、「質」の課題には失敗した。国家戦略として「質」の国際的通用性を確保しようとするならば、「低水準の公的投資」と「大きな国私の格差」という二つの問題への真剣な対応を避けては通れないだろう。

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