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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.310
"教育機会の平等化は効率的である"

  私学高等教育研究所客員研究員 矢野眞和(昭和女子大学教授)

 教育機会を平等化するということはどういうことなのだろうか。単純明解な事柄のようだが、その解釈は決して一様ではない。「機会の平等化が大事だ」という共通の認識に立ちながらも、平等化の意味の解釈が異なると、異なった解決策(政策提案)になる。だから、共通の認識から出発しながらも、いつの間にかまったく違った結論になったりする。
 格差社会が問題視されているから、教育機会の平等化政策を積極的に推進してもいいはずだが、必ずしもそのように動いていない。我が国では、長い間、とりわけ大学進学率が40%を越えた1975年以降に、大学進学機会の不平等が大きな社会問題になることは非常に少なかった。
 その理由の一つは、75年頃を境目に、拡大説から過剰説に大学の評価が大きく転換したことにある。大学が多すぎるというこの判断は、日本だけでなく、先進諸国に共通していた。この時代の社会的気分が長く続いたから、大学を抑制し、学力によって選抜する方式が正当化され、学力さえ身につければ、半分ほどの高校生が進学できるのだから、すべての人に開かれていなくても、十分に公正だと了解されてきた。公正というのは、どの程度の不平等を是認するかという価値判断だが、学力選抜が伴って公正基準になっていた。つまり、学力選抜に伴って生じる不平等は是認されてきた。
 だから、75年以降に進学率が停滞しても、進学機会が閉ざされていると批判されることはほとんどなかった。進学率がやや上昇するようになったのは、18歳人口が減少して、大学に合格しやすくなってからのことである。上昇したといっても、30年前の進学率をたかだか5%ほど上回る程度である。そして、人口の減少と進学率の上昇が学力選抜を崩壊させた。必然的に大学生の学力は低下する。この低下が、大学過剰説に拍車をかけている。
 全入時代という言葉に隠されて、大事なことが二つ忘れられている。一つは、授業料の高騰だ。1968年から75年頃の間の私立大学の年間授業料はサラリーマンの可処分所得(月収)よりも少なかった。進学率の急上昇は、この時代の産物である。ところが、その後の授業料は、月収の上昇を上回る勢いで高騰した。そして、最近では、私立の年間授業料はサラリーマンの月収の2倍を越える。授業料以外の納付金、理工系学部などを考えれば、月収の3倍になる。仕送りに金などを加味すれば、月収の6倍ほどの家計負担だ。進学率が30年前と大きく変わっていないのは、経済的理由によって進学を諦めているものが多いからである。
 いま一つ忘れられているのが、大学の規模だ。国際的な動きをみると、30年前の大学過剰説は80年代後半から変質している。象徴的な経験がアメリカである。アメリカの70年代は、高等教育の投資効果が減少した時期である。この減少が大学過剰説の根拠になっていた。ところが、80年代後半になると高卒の労働需要は急減し、大卒需要は拡大した。産業構造の知識集約化や知識労働者の増加にともなって、大学の投資収益率が上昇し、大学教育の重要性が再発見された。アメリカだけでなく、多くの国において、大学進学率は上昇した。75年ごろの日本の大学進学率は、国際的に上位に位置していたが、今では並みの水準にすぎない。
 学力選抜は崩壊し、資金力による大学選択の時代に変わった。しかも、30年前の大学過剰説を引きずっている。資金力だけによって進学が規定され、大学の量と質への公共投資を忘れている我が国の現状は、かなり特殊な世界である。
 進学機会を平等化するために、政府は腐心しているというかもしれない。しかし、そういう人のお決まりの言説は、奨学金の充実策だ。だから最近では、学力に関係なく、誰でも奨学金を借りられるようになった。しかも、借金ファンドが潤沢になり、1月10万円、4年間で500万円も借りられる。
 だれでも借金ができるようになったが、それを返却するのはかなり深刻だ。卒業後の月々の返還額は、2万円を超える。しかも、20年間。不況の煽りで厳しい仕事環境に置かれた世代にとってかなりの重荷だろう。日本学生支援機構の奨学金利用者のうち、返済を滞納している人が2001年度から急増している。「最近の若者のモラルが低下している」と報道した新聞もあった。しかし、年々モラルが低下するということはありえない。借りたものは返すのが道理だが、奨学金債務の増加は、モラル視点ではなく、経済視点から読む必要がある。今の大人たちが借りた奨学金の返却は、それほど困難ではなかった。経済成長と年功賃金とインフレのお陰で、借りた金額の価値は年々減少していった。ゼロ成長・年功賃金の崩壊・デフレの時代の500万円借金とは大違いだ。昔の大人のモラルが高かったわけではない。
 有利子奨学金の発想は、「教育機会の平等化=借金機会の平等化」という解釈である。資金を調達できない人に対して、無担保で借金できるようにする。資本市場を完備し、個人が自由に選択できるようにすれば、学ぶ機会が保障されるという発想だ。資本市場の不完全性を小さくするのは金融市場の政策手法だが、それが是認されるのは、教育が純粋に個人的なサービスだと理解された場合だ。
 機会平等化のいま一つの解釈は、所得を再分配して、貧しい家庭の子弟も大学に進学できるようにするという考え方である。貧しい家庭を手厚く補助する再分配方式が、返還免除の奨学金、つまり、給付制だ。欧米では、給付の奨学金が多いが、日本は返還義務のある「貸与制」が基本。少し前までは無利子貸与が多かったが、最近は有利子貸与が半分を上回る。
 教育機会の平等化を所得再分配だと解釈すると、日本の奨学金はその機能が極めて弱い。有利子貸与の場合は、奨学金とは言わずに、教育ローンと呼ぶのが適切だろう。小さい政府が支配的な時代になって、再分配への社会的関心は衰弱している。この衰弱が再分配としての奨学金、および機会の平等化への関心を小さくしている。借金の機会を平等化すれば学ぶ機会が保障されるという解釈は、財政投入額も少なく、奨学金という美しい言葉で語ることもできる便利な政策になっている。
 未来を託す次世代のためには、借金機会の平等化ではなく、所得再分配による平等化を強化すべきだと私は考えるが、それだけでなく、授業料を値下げして、進学機会を拡大させるのが望ましい。機会の平等化や大学規模の拡大は、効率性を損なうと思われているようだが、それは間違いだ。教育は、借金機会の平等化を正当化させるような、個人だけのためのサービスではない。次の時代を担う若者に教育投資をして、その人的資源を有効に活用することは、社会全体の効率性を高める。
 大学教育の効果は、個人の所得を大きくするばかりではない。高学歴者の知識が、人間関係を媒介にして、周りに波及し、全体の生産性を向上させる。その波及効果が知識基盤経済において大きな役割を持つようになっている。それが現在の国際的理解である。70年代における大学過剰説の時代には、大学教育の効果が小さく、大学の波及効果も小さいと理解されていた。日本の教育と経済の関係理解は、30年前とほとんど変わっていないが、国際的な動きは大きく変わっている。この変化については、日本の現状に即して実証研究を深めなければならないが、高騰する授業料によって大学が抑制されている現状を是認することなく、未来の経済と社会の効率性を視野に入れて、教育機会の平等化と教育への公共投資を考えなければならない時期にあると私は思う。

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