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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.285
競争的資金と大学の存立基盤 公的資金の役割の再考を

私学高等教育研究所客員研究員 山本 眞一(広島大学高等教育研究センター長)

 大学改革の進行の中、大学の現状に対する外部からの批判は相変わらず舌鋒鋭いものがある。近年は中教審だけではなく、教育再生会議をはじめ高等教育研究の専門家が加わらないような会議からの「思いつき」に類似するような発言も目立つ。もちろん批判は自由であり、もともと大学人は大学の外の世界に向かってこれまで散々に批判を加えてきたこともあり、逆のことがあってもおかしいわけではない。
 しかし、最近の大学に対する批判は、その限度を超えて大学の在り方そのものに影響するような恐れのある意見も散見されるような気がしてならない。そもそも、大学を含めて教育界の人間はまじめな人が多いから、これらの批判を、政治の力学の現状と観念して適当にあしらったり反撃したりするというよりも、批判を「真摯に」受け止めすぎる傾向があり、このまま放置しておくと由々しい結果を生じる可能性がある。
 例えば、国立大学の運営費交付金のあり方をめぐる議論がある。そのきっかけは、本年2月、経済財政諮問会議に提出された民間議員の提案、すなわち、国立大の運営費交付金は、努力と成果に応じたものに大胆に転換すべきだという主張がなされたことにある。これに対して、国立大学協会を始めとして大学関係者の反発が強まり、そもそも運営費交付金の毎年の削減自体に問題があるという声も大きくなってきている。マスコミにも今回のこの論争では、さすがに行き過ぎた競争議論には警鐘を鳴らす意見が多い。
 この議論は、国立大学だけの問題ではない。公共的性格をもつわが国の国公私立大学がこれまで果たしてきたさまざまな役割、つまり経済活動や国民生活を通じて、社会のさまざまな分野に与えてきた効果を考えると、大学という閉ざされた世界の中の限られた問題ではなく、広く国民一般にかかわる重要課題として捉えられるべきことがらである。以下に、私なりに気づいたことを記すこととする。

【国家の競争力と大学の競争力】
 第1に、競争というものの考え方についてである。昨今のわが国では、競争というと大学間あるいは教員間の競争についてだけに注目が集まっているようだが、もともとの大学改革論議では、そのことはあまり意識されていなかった。例えば一九九○年代初め頃の議論では、産業の国際「競争力」の強化のためには、産業技術の基盤となる科学技術そして大学の研究環境の改善が必要であるということが強く主張されていたように思う。優れた研究成果を挙げることが目的であったはずで、研究費獲得競争はそのための次の次くらいの手段であった。
 一方、米国にはわが国に見られない独自の研究資金の配分方式がある。研究費のうち3分の2を連邦政府から取得しているが、その代表的な配分形態はグラント(Grant)と呼ばれ、種目別・プログラム別に分けられた研究費予算の中で、研究者からの自発的な申請案件を個別に審査して資金配分の可否を決めるものである。わが国の科研費の配分に似たもので、結果としては競争的資金ということになっているようだ。
 しかし、その評価方式はピア・レビューと呼ばれ、同じ分野の専門家による科学的優秀性の評価であって、決して奇をてらった競争を刺激するものではない。NSFではピア・レビューの上に、メリット・レビューという社会的有用性を加味した評価が行われているようであるが、これとて同様である。むしろ連邦政府の言い分では、米国の産業の「国際競争力」を強化するための資金という意味合いが強く、個別大学の競争はそれほど大きな問題ではない。
 そもそも米国の大学では連邦政府の研究資金のほか、州政府資金、多額の寄付金、授業料、事業収入など豊富で多様な資金源があり、それらを含めての各大学や研究者同士の競争は熾烈ではあるが、それは米国社会全体の競争的環境の中で自然に位置づいてきたものである。その競争への参加のために、教員だけではなく、多数の経営専門職が配置されていることは周知のことである。寄付金を含め外部資金のプールが小さい上に、経営専門職が不足で教員中心の素人集団であるわが国の大学に、米国流の競争原理をそのまま導入しても、評価を受けるための膨大な事務作業を含めて、いたずらに教員を忙しくするだけで、かえってマイナスとなる面が大きいのではないか。
 ちなみに米国連邦政府には大学を所轄する機関はない。これは州政府に大幅な権限を保持させる憲法上の要請でもあるが、我々の目からは、連邦政府の各機関もまた大学への資金助成を通じて互いに競争関係に立っているように見える。この点、わが国のように政府が競争せず大学のみが競争を強いられるのは、大学の健全な発展にとって適切なのかどうか疑問が残る。

【幅広い裾野あっての頂点】
 第2に、経済財政諮問会議に意見を提出した民間議員の頭には、すぐれた活動をしている大学にさらに重点投資をするのが得策という考えがあるようだが、すぐれた大学を育てるためには、それを支える裾野を広くすることが重要である。経済学やその他の社会科学の分野で、パレートの法則と呼ばれる理論的概念があるようだが、「全体の八割の数値は全体を構成する2割の要素が生み出している」ということは、逆に2割の頂点を作り上げるには8割の裾野が必要だということでもある。
 砂山を作ることを考えてみてほしい。裾野の砂をいくら掻き揚げてみても、頂点だけを高くすることは難しい。それこそ砂上の楼閣である。重点投資によって二割だけを育てようとしても、残りの八割が細ってしまえば結果として残りの二割もその優秀性を脅かされることになるのである。
 近年、地方の私立大学において教員の労務環境が厳しくなり、人文社会系の教員も以前ほどは自由な研究時間が持てなくなっているそうであるが、それが東京などの有名大学における同じ分野の研究活動に悪い影響を与えているという話を聞いたことがある。つまり裾野の研究環境が、頂点と思われる有名大学の研究環境と相関するという一つの例証でもあるだろう。その点、わが国の大学に対する公的投資がOECD加盟国の中で低位にあるということは、非常に危険なことである。今こそ全体の底上げを図り、その中で頂点部分を育てることが必要である。

【公的資金の意義・役割】
 第3に、競争的環境の中での公的投資のあり方である。競争的環境が優れているとされているのは、完全な市場を仮定するならば、その中で資源の最適配分がおのずからなされるという点にある。しかしその前提は、すでに産業活動においても、完全ではない。「市場の失敗」と呼ばれる現象がそうである。さらに大学を巡る環境は、産業活動以上に完全市場とは言いがたい。それは国立と私立との格差をはじめ、歴史的あるいは機能的に位置づけられた各大学のよって立つ違いを克服することが容易ではないことからも分かるであろう。「イコール・フッティング論」も格差非難の主張の一つである。そのような市場の失敗を補うのが政府の大きな役割であり、そのためになされる手法の一つが公的投資なのである。つまり、公的資金は必ずしも競争を促すように配分するだけではなく、競争のもつ弊害を防止あるいは補完するためにも配分すべきなのである。
 その意味で、競争にはなじまないが、長期的には国家・社会に重要と思われる教育や研究に投資することが必要である。また何が重要な教育活動か、あるいは研究課題かということは、必ずしも政府主導で決めるべきとは限らない。それらの多くは、個々の大学の判断あるいは大学にいる個々の研究者の知恵の集積を待たねばならない。一定量の非競争的資金すなわち基盤的資金を、国が公的投資として配分する意義はここにもあるのである。

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