アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.268
アジア次元の私学高等教育研究 国際ワークショップを開催して
私学高等教育の国際比較研究を、日本人としてどのような形で進めるべきか。20年近くの歳月がたってしまったが、私学を中心とした高等教育の発展という切り口で日本の高等教育の特質をとらえ世界の高等教育研究に影響を与えた天野郁夫先生たちや、一足先を行くアメリカの高等教育の動向を示し続けることで日本の高等教育に大きな影響を与えた喜多村和之先生などは、筆者の目標となってきた。
高等教育研究の国際化は、着実に進んでいる。アルトバック先生とともに、英語でアジアの高等教育についての著書をまとめた馬越 徹先生の仕事は、アジア人によるアジア高等教育研究の水準が高まっていることを見事に示した。また、21世紀に入り、日本人の高等教育研究者による英語での発信は、飛躍的に増加している。同時に、現在の英語での出版事情は、既に「日本」という国に市場価値を見出せなくなっており、日本人の研究者は「アジア」「OECD」など、国際的な地域やグループの一部として、自らの高等教育システムをとらえ、分析し、発信しなければならない時代となっているのは皮肉である。
他方で、高等教育研究の中での比較研究の立場は、非常に難しくなってきている。外国の高等教育のあり方を日本語で書くとき、その教育システムや社会全体が持つ文脈を十分に語らなければ、なぜ、ある政策手段が選択され、ある効果が起きるのかは説明できない。そうすると、日本へのインプリケーションをいち早く得たい読者に対して、前提ばかりが妙に長いとの印象を与える。
比較研究は、そこまで大変な仕事なのに、最近は英語が共通語として普及することで、簡単に外国人と出会い、あるいは一度も会ったことのない外国人とインターネットを通じて「共同研究」ができ、誰とも連絡を取らずとも、ウェブサイトを覗くだけである種の論文は書けてしまう。おまけに、各国の高等教育研究のコミュニティが拡大し、実践との結びつきが増す中で分野が細分化し、純粋な「比較高等教育研究」は、米国の高等教育学会などでもマイナーな存在となっている。
グローバル化は、国際比較研究を日常化させ、同時に、その手軽さの中で、日本語でも、英語でも、誰をオーディエンスとし、何を問題として提示するのかが不明確になっている。日本語で、英語以上に早く国際比較の情報を書き続けることは不可能である。英語もまた、世界が「フラット」化して、国籍を問わず誰もが国際比較研究をリードできる時代が訪れたのはよいが、国境を越えて資金を得て、多様な国の人々をネットワークし、その分野において世界で一番働いて、リーダーとなっていくことは並大抵のことではない。
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アジアの高等教育研究者が、最も身近に感じる「私学」というフィールドで、自ら国際研究を組織し、新しい研究領域を切り開き、世界に向けて発信することができないかと思い、昨年の12月14日と15日、馬越 徹、田中義郎、大森不二雄、森 利枝の各氏とともに「東アジアにおける私学高等教育研究のフロンティア」と題する英語での国際ワークショップを東京・市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷を中心に開かせていいただいた。私学高等教育研究所の英語名が示すとおり、私学が「独立 independent」を意味するのであれば、国境は関係ない。アジア、あるいは、さらに広い地理的、社会・経済的広がりの中で、どう自らの世界を定義し、研究の枠組みを確立し、世界に発信するのか。また、アジアの私学高等教育のために働く人たちとどう連帯し、還元できるのか。
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ワークショップでは、ニューヨーク州立大学のレヴィ教授が、氏の私学高等教育研究プロジェクト(PROPHE)の成果に基づいて、世界的動向の中でのアジアの私学高等教育の特質について整理した。その中で特に指摘されたのは、量的な存在感の大きさと同時に、アメリカのような威信の高い研究大学は、アジアを含め、世界のどこにも存在しないという論点であった。特に後者については、世界的に見れば、そう見えてしまうのかという感想と同時に、アジア人の研究者の間には違和感が残った。
次に、東京大学の金子元久教授が、オーナーシップという観点から、日本の私学高等教育をとらえ直す刺激的な話を展開した。非営利を基本とする私学高等教育という考え方は、日本のみならず、アメリカの影響を受けた多くのアジア諸国に共通するが、同時に、そのお膝元を含めて、営利の大学が出現し、淘汰を含めた市場競争的な政策が出されるほど、そのオーナーシップは厳しく問われる。
ブリストル大学のモック教授は、日本を東アジアの主要国の政策動向を網羅する形で、この地域を席巻する新自由主義と私事化との関わりを整理した。また、彼の口頭発表では、アジアの高等教育のアイデンティティへの熱い思いが発せられた。
このあと、デリー大学のグプタ博士、北京大学の鮑博士から、それぞれ、インド、中国の私学高等教育の持つ文脈についての報告があり、続いて、広島大学のマッキニス教授から、オーストラリアの文脈を踏まえたコメントが寄せられた。
東アジアの地理的定義は難しく、実際には、南アジア、オセアニアと密接に関わる形で私学高等教育が展開している。その中で、われわれの頭の中には、どうしても馬越モデルのような発展段階的ともいえる発想があるわけだが、同時に、もっとフラットな共通の枠組みも必要なのだろうと感じられた。
翌日、焦点は、アジアの私学高等教育研究がおかれた文脈に移った。北京大学の閻教授からは、氏が中国フォード財団の助成を受けて進めている、西安での私学高等教育に対するスタッフ・ディベロップメントを主体としたアクション・リサーチの紹介があった。また、桜美林大学の馬越教授からは、日本と韓国での私学高等教育機関職員を対象とした、アドミニストレータ養成の大学院プログラムについての報告がなされた。
私学高等教育研究に対して投じられる資金は、世界的にも驚くほど小さい。レヴィ教授の率いるPROPHEは、米国フォード財団の資金を得た国際プロジェクトであるが、これを除けば、東欧、南米などで、細々とした資金が得られるか得られないかというのが現状である。その中で、中国、韓国、日本では、私学高等教育研究所自体がよい例であるように、私学高等教育自身から研究資金が投じられ、私学の高等教育研究を盛り立てるべきだという動きがある。
では、このような研究者にとってありがたい環境の中で、私学に実務として関わる方々と一緒に、どのように研究を盛り立てることができるのか。同時に、国際的な学術共同体に対して、どのように学術的貢献ができるのかという、2つの異なる目的の間のバランスを考えることが、アジアらしい私学高等教育研究につながるのではないかと感じた。
続いて、私学高等教育の国際的文脈に話題が移り、ブリュネル大学のキム博士から、韓国の私学高等教育及びその教員が持つ国際的な背景が語られた。レヴィ氏による、アメリカ以外に威信が高い私立の研究大学は存在しないという話は、韓国の事例を通しても、きれいに覆ったわけであるが、植民地や社会主義の経験を持つ多くのアジア諸国にとっての「私学」の持つ意味合いに対して、阿部義也先生の名訳が出版されたルドルフが指摘している、アメリカの私学のアイデンティティの問題と併せ、複雑さと同時に、歴史的重みをあらためて感じた。また、熊本大学の大森教授からは、この地域に不可欠な、国境を越えた高等教育の展開についての発表がなされた。氏の議論は、日本が実践的な部分を含め、国際的政策対話に貢献を果たした大きな成果のひとつである。
この日の午後には、今後の研究の方向性についての自由な議論が行われた。主催者として結論的に感じたのは、地道な研究を通しての交流の重要性である。それぞれの国内オーディエンスと、英語を通した国際オーディエンスの両方に対して、アンビバレントな立場にあるアジア私学高等教育の比較研究にとっては、まずは質の高い学術的成果を蓄積し、発信することを通して、関心を持つ者のネットワークを広げていくのが最も実際的な戦略ではないか。そのあとのことは、また、そのあとで考えたいと思った。