アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.267
株式会社の大学経営参入 公共性のダブル・スタンダード
【学校設置会社の挑戦】
構造改革特区の事業として、株式会社(学校設置会社)による学校経営への参入が認められることになり、既に6校の株式会社立大学が開学して様々な話題を呼んでいる。
戦後の学制改革において、私学は、国公立学校となんらの差別もなく、公教育を担うものとして正当に位置付けられるとともに、その設置者は学校法人でなければならないこととされた。これは、後述するように、私学の自主性の精神を守るとともに、その公共的な性格を明確にするためであり、新しい民主的学校教育制度を担う私学の基本となる制度である。株式会社立の大学を認めるということは、この私学の基本的な制度の意義を否定し、戦後確立された学校制度の秩序を根本から揺るがすものであるが、この問題について、その重要性に相応しい審議の手順が踏まれたとはとても言えない。
株式会社立大学を認めるための法的措置は、構造改革特別区域法に規定されている。学校教育法第二条で、学校は、国、地方公共団体及び「学校法人のみ」が設置できる、とされているのを、「学校法人又は株式会社(学校設置会社)」と読み替えるという、いとも素っ気ない規定である。「学校法人のみ」と定めた学校教育法には手を付けず、そのままである。特区限りの経過的措置だからということであろうが、いずれ全国展開して一般化することが意図されているのである。この問題の審議のプロセス自体が、構造改革推進本部関係の機関に委ねられており(本紙第2250号(10月18日付)「アルカディア学報」261を参照)、中央教育審議会をはじめ、教育政策に責任を持つ本来的な審議機関はカヤの外である。このため、教育の重要問題として国民の目に映ずる機会も少ないままに、私学の本質に係わる重要な変革が進行している。教育界は「構造改革」「規制改革」の呪術に縛られているかのようである。これでよいのであろうか。
【学校法人とはなにか】
学校法人とは、国公立学校と並んで、民間にも「公の性質」を持つ正規の学校を経営できる道を開くための制度であると言える。構造改革の流儀で言えば「民活」であり、日本の高等教育が1960年代から70年代にかけての爆発的な需要拡大に上手く対応し、大衆化・多様化の時代に円滑に移行し得たのは、この学校法人制度の功績である。
明治期に入り、近代的学校制度が逐次整えられていったが、当時は、公教育としての学校の整備は国の仕事であるという思想があり、私学はこれを補完するものとして認識されていたに過ぎず、私学の位置付けについての法的整備は遅れていた。私学の設置形態については、民法の施行(明治31年)により、公益法人の制度が設けられてはじめて、社団法人または財団法人になる道が開かれた。当初は、規模の大きな私学の多くは社団法人を選んだが、大学令の制定(大正9年)によって私学にも大学になる道が開かれると同時に、その設置形態としては財団法人のみが認められることとなり、財団法人として極めて高い資産基準が求められることとなった。官学中心の高等教育政策の下で、私学に対してはno support but controlの抑制的政策が続けられたが、そのような困難な環境の中でも、私学は国民の強い進学意欲に支えられ、官学にはない自由と自主性の精神を育みつつ発展してきた。
戦後は、教育基本法によって、私学は国公立学校とともに「公の性質」を持つものとされ、これらの間になんらの差別もないことが明確にされた。しかし、そのためには、私学に十分な公共性が保たれるよう担保される必要があり、財団法人の制度では不十分な点があるとされた。この点については、既に終戦前から、私学の設置主体としての財団法人の制度的な欠陥として次のような点が指摘され、設置主体を特殊法人とする案も検討されていたのである。
(1)財団法人の運営が少数理事の専断になり易いこと
(2)役員が特定の同族によって占められる可能性があること
(3)財団法人の合併が認められていないため、学校の合併等に不都合があること
(4)残余財産がかつての寄付者に帰属することを認めることは不合理であること
戦後の教育改革において数々の重要な建議をした教育刷新委員会(のち審議会)における審議の中で、当時の日高学校教育局長は「(憲法第二十六条を頂点とする新しい教育法制の構想を述べて)その中の一つとして学校法人法というものを作ったらどうか。そして、その作る際の根本の目的は、教育は公共性を持っているのだという意味で、公立であろうが、官立であろうが、私立であろうが、すべてについて教育は公共性を持っているのだということを明らかにしようということが本当の眼目なのです。そして、それを明らかにするのと同時に、もし必要があれば国家から補助が受けられるようにする。助成も受けられるようにしたいというのが根本の趣旨でございます」と述べている。
戦後、国家経済の破綻状態の中にあって、私学経営は極度の困難にさらされており、憲法第八十九条との関係から、私学への公的支援が可能となるよう、その公共性を高めることが急務とされていたのである。一方で私学の伝統であり、生命である「自主性」の理念を守るためには、行政的監督の強化によるのではなく、自律的な仕組みによって公共性を担保する必要がある。こうして自主性と公共性の担保という、相互に矛盾した面もある二つの理念の調和を図って作り上げられたのが、私立学校法による学校法人制度である。
この学校法人と財団法人との違いは、結局、前記した財団法人の不十分とされた点に対応するものであり、主な点を挙げれば、@理事の増強と選任基準の明確化、A監事、評議員会の必置、B残余財産の帰属者の限定などである。なお、このほか、収益事業を認めたこと、国が助成できることを明文化したことなどがある。
その後、学校法人制度の本格的な手直しは行われなかったが、近年の私学の経営環境の困難化を背景に、経営力の強化と公共性のためのガバナンスの観点から、理事会や監事機能の強化を図る等の私立学校法の改正が行われた。これらの内容の詳述は省略するが、私学の設置者のあり方については、既に1世紀を越える歴史を経て議論と経験を積み重ね、今日の形が作り上げられた。そこには私学の伝統である自由と自律の精神と、学校経営の苦闘の長い歴史がある。
【公共性のダブル・スタンダード】
学校法人とはなにか。もう一度、言葉を変えて定義すれば、それは、民間が公教育に参入しようとする場合のスタンダードとしての制度であり、その目標は、私学の自主性を守りつつ公共性を担保することである。株式会社が参入する場合もスタンダードがないわけではない。構造改革特別区域法で3つの要件が決められている。すなわち、@学校の経営に必要な財産を有すること、A経営担当の役員が学校経営に必要な知識・経験を有すること、B役員が社会的信望を有することである。このほか、情報公開、評価等のシステムを整備することとしている。このスタンダードを学校法人の仕組みと比較すれば、役員の専断や営利性を排除する仕組みもなく、公共性担保の基準としてのレベルの違いは歴然である。株式会社立の学校は、一般の私学と同レベルの自主性・公共性の理念を持たないとしない限り、このダブル・スタンダードを弁護する理屈はありえない。あるいは、株式会社のスタンダードで私学の自主性・公共性が担保されるとするなら、学校法人制度は過剰で無意味なスタンダードを要求していることになり、この制度は崩壊せざるを得ない。
木に竹を接ぐような技術的な読み替え規定だけで設置者となったとしても、私立学校法の適用はなく、同法にいう自主性・公共性も持たない私学とは一体何者か。学校教育制度の意味体系は支離滅裂になろうとしている。特区のシステムが経済の活性化という目標を性急に追求し、教育の既存システムの意義を教育界とともに深く議論することなく、無造作に破壊する愚を犯すことのないよう求めたい。