アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.256
大学評価について学生と考える 3年間の講義経験を通して
ここ3年の間、桜美林大学、慶應義塾大学、東京大学、という3つの大学で、大学評価について非常勤講師を務めさせていただいた。国立の研究所育ちの私は、普段、大学について何かを語る立場にいながら、ほとんど学生、なかでも私立大学の学部生の皆さんと直接接する機会はない。特に慶應義塾大学総合政策学部では、3年間にわたって、政策論の立場から自分の本業である大学評価について学生たちとともに議論することができ、大変貴重な機会であった。現在、私が本務として関わり、多くの大学関係者が否応なしに巻き込まれていると言ってもよい大学評価は、学生の目から見て、どのように映っているのだろうか。今回は、自分の3年間の講義経験を通じて、感じたことを書かせていただこうと思う。
慶應義塾大学では、故孫福教授が横浜市立大学理事長へ転出されたピンチヒッターとして「教育評価論」という講義を担当し、主に大学評価の政策的意図と実際について、歴史的背景と国際比較の観点を交えながら話をしてきた。1年目260名、2年目391名、3年目には100名を上限とする履修制限を宣言したうえで、96名の学生が登録してくれた。学生数が少ない国立大学の教育学部で学んだ私にとっては、ほぼ初めてに近い、本格的な大教室での講義であった。この講義では、同時に、SFC Global Campusというインターネットを通じた授業配信システムに参加させていただいた。このシステムを通じて、毎回簡単な文献課題を課し、授業の前日までに各自のコメントをネット上に書き込んでもらい、授業の題材に活用した。断っておくが、私の講義は、決して名講義ではない。発達したウェブベースの授業評価システムのおかげで、私が熱心に授業に取り組んでいることが学生に伝わったことはうれしかったとして、上には上がいるというか、同僚の先生方の評価の中で、比較的授業の準備に時間をかけられる環境にある自分が、せいぜい平均点よりもちょっと上ぐらいの講義ができたにすぎないことを、思い知った。
もともと学生が勉強熱心で、活発であることに定評があるキャンパスではあるが、学生の授業内容や水準に対する目は、予想以上に厳しかった。パワーポイントの文字の大きさや、しゃべるスピードという基本的なところはもちろん、つまらない、内容の薄い話をすれば、中身のレベルで要望がくる。聴講者がキャンパスでも最大規模になってしまった2年目には、恥ずかしながら私語が発生し、対処に苦労した。しかしながら、「大学を評価する」という問題設定の中で、今、自分たちがどのような社会的文脈の中に置かれていて、世界の大学生がどのような学習生活を送っていて、将来、どのような形で今の大学生活が活きてくるのか、という観点で話をすると、学生たちは驚くほど真剣に、こちらの議論に立ち向かってきてくれた。
現在の大学評価は、主に教職員と文部科学省など、一部の関係者が右往左往しているだけで、学生からは縁遠い存在に映っているようだ。比較的大学に対して意識が高いと思われるSFC(湘南藤沢キャンパス)の学生でさえ、9割以上の学生は、大学基準協会、日本高等教育評価機構といった認証評価機関の存在を知らない。また、SFCは、日本の中でも極めて明確なミッションをもってカリキュラムが設計され、そのうえで確信的に学生たちに高度な選択の自由が与えられているのだが、この仕組みの意味や、自分たちが4年間に何を目指して学ぼうとしているのかなどについて、「知らなかった」という学生も相当数いたし、「忘れていた」「見失っていた」「この授業で思い出した」というコメントも多数寄せられた。他方で、国立大学出身の私には、とても新鮮だったのだが、特に1年目、慶應義塾の成り立ちなどについてほとんど知らない私に対して、ことあるごとに、学生たちから「福澤諭吉先生は実学を重んじ…」「我が校は半学半教の精神で…」と、大学の学問のあり方について意見をもらい、大学の理念の周知とは、こういうことを言うのだと、身をもって実感した。
学生は、当然ながら、学生という立場に立って、大学を評価している。換言すれば、教えられて初めて、教授団・学会というピア(同僚)としての大学評価や大学職員、そして政府の視点からの大学評価のあり方に気がつくことになる。東京大学でも、慶應義塾大学でも、大学が書いた自己点検評価書や、第三者評価機関の評価報告書を学生に実際に読んでもらったが、自分たちの普段の実感からして、表層的だとか、単なる宣伝にすぎないと感じる学生もいれば、大学が、どのような意図で何を実践し、その状態をどのように評価して、どう改革を進めていこうとしているのかを読み取って、自らの大学生活に新たな視点を獲得していった学生も多く見られた。
日本や世界の大学が、どのような背景で発展し、どのような構造をもっているのかを説明すればするほど、「学生は大学の主人公であり、消費者である」というありがちな発想が、いかに現実味を持たない議論かを思い知ることになる。学生に、大学とは誰のものか、ということを簡明に説明しようとすると、結局のところ、パリ大学とボローニャ大学の頃の学生ギルドと教員ギルドの話から、1000年近くにわたる大学の歴史を語ることになり、そのなかで、大学は第一にファカルティ(教授団)のものだと語っている自分を発見した。特に理科系の比重が高く、少なくとも、大学入学当初は大学院に進学して研究者になることを一応は目指す者のシェアが高いような国立大学で教えていると、学生に、教職員として自己完結するようなレベルでの大学や大学評価の話題をしても、相当数の学生は、大学などで教員や研究者として活躍する将来の自分の姿と重ね合わせ、自分の問題として捉えて聞いてくれる。ところが、私立大学、あるいは文科系を中心とした国公立大学では、まず、学生は、自分たちが、限定した時間を学生の立場としてのみ過ごすことを前提に大学を見る者が大多数であり、大学を評価する視野は、こちらから何も仕掛けなければ相当程度限定的であるし、また、その視野の限定をこちらが仕掛けて取り外してしまうと、今度は日本の学生が大学コミュニティにおいて置かれている立場の不安定さや周辺的な位置づけに、不安感や無力感をもってしまうようである。
現在の大学評価、特に教育活動の評価は、本質的に、日本の大学の教育活動を、ファカルティの都合に合わせた設計から、学習者を中心とした設計へと、変更を促すという思想を内包している。しかし、その学習者の視点は、欧州のように学生組合が発達し、大学のコミュニティにおいて明確に位置づけられているわけではない日本の文脈の中で、大学が自分の都合で行う数多くのアンケートの分析、というものに矮小化された形で参照されるにすぎない。結果として、ファカルティは、本来、立ち向かうべき顧客であり、仲間である学生以上に、政府を後ろ盾にもつ評価機関が主張する「社会に対する説明責任」のプレッシャーにおびえ、自己点検評価書の誤字脱字チェックや、評価の書類作りのための証拠作りに多くの時間をかけることになる。
現在、多くの大学に、大学の評価やファカルティ・ディベロップメント、あるいはアドミッションやキャリア形成支援、初年次教育などを企画し、実施する人員が配置されるようになり、こうした新しいタイプの教員が、そのほかの教員と一緒に、学生に「大学とは何か」を語りかける授業を行うことが増えてきている。こうした教員たちは、おそらく私が経験したような実感、つまり、やり方によっては、学生はもっと大学に主体的に関わる意欲を潜在的にもっているし、そのことによって、より主体的な学習を実現しうる強力な仲間となりうる、という感想を共有いただけるのではないだろうか?こうした現在行われている大学評価について、学生たちと一緒に考える機会をうまく活かして、学習者を中心に置く大学教育のあり方が日本で育まれていくことを期待したい。