アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.254
教育の質保証と戦略的経営 教授システム学専攻の試み
最近、高等教育における教育の「質保証」という概念は再考を要するのではないか、という大それた思いを抱くようになっている。従来の事前規制型の設置認可等による質保証にせよ、新たな事後チェック型の認証評価等による質保証にせよ、また、世界の高等教育の動向を見渡しても、評価機関による評価やアクレディテーション等の外的質保証は、施設設備、教員組織、カリキュラム、学習支援等々、インプットやプロセスを中心に(近年は教育成果等のアウトプットやアウトカムの把握も重要とされるが)、いわば網羅的・総花的に質を担保する資源・環境・組織・メカニズムの存否・適否を問うものが多い。基本的には、どのような教育内容についても共通すると想定されるさまざまな形式要件について、もれなく整備されているかどうかを問うものであると言えよう。換言すれば、これまでの質保証は、教える中身や身に付けさせる知識技能等の内容自体を正面から問うものではない。しかし、それで本当に教育の質は保証し得るのか。「仏作って魂入れず」となりはしないか。
学士課程教育であれ、大学院教育であれ、あらゆる「教育プログラム(学位課程)」は、明確な「人材養成目的」を有し、その目的に対応して体系付けられたカリキュラムと教授法を備えたものでなければならない。また、人材養成目的やカリキュラム・教授法に適合した入学者を受け入れ、卒業・修了時に目的とする人材に育つような教育を実施するものでなければならない。したがって、教育の質保証というからには、教育の目標・プロセス・成果の総体としての教育プログラムこそ問われなければならず、そもそも当該プログラムがどのような分野での活躍を想定し、どのような能力(知識技能)を身に付けさせようとするものか、という教育の中身抜きに語れないはずである。
もう少し具体的に述べると、明確な人材養成目的とは、「どこ」(地域・全国・外国)の「誰」(進学者・社会人・留学生)を対象とし、「どこで」(業種・職種)、「何ができる」(知識技能)人材に育て上げるのか、ということである。こうした目的が明確であってこそ、目的・対象に適した教育内容・方法を備えた体系的カリキュラムが意味をなすのであり、一見、カリキュラム自体は体系的に見えたとしても、人材養成目的に適合しないのであれば意味がない。PBL(プロジェクト(またはプロブレム)・ベースト・ラーニング)や産学連携教育といった授業方法も、それ自体が独立して意義を有するというよりも、人材養成目的に沿ってシステム化された教育プログラムの中に位置付けられてはじめて、本来の意義を有するはずのものである。
どういう場で何ができる人材に育成するために、どのような能力を身に付けさせるか、すなわち、知識技能の中身とその目的適合性こそ、教育の質の「魂」ではなかろうか。そうした中身あるいは内容抜きに、「施設設備も、教員も、カリキュラムも、学習支援の仕組みも整備されています。したがって、教育の質は保証されています」と言われても、「仏作って魂入れず」の感を禁じ得ない。真の質保証システムは、人材養成目的に基づいて、入口(入学)・過程(教育)・出口(進路)が一貫して体系化された教育プログラムを構築し、継続的な自己改善を図る組織的な質保証メカニズムであると言えよう。
入口・過程・出口の統合性を欠いた形で、「アドミッション・ポリシーを作成しました」「授業改善のためのFD活動を実施しています」「キャリア支援にも力を入れています」といった具合にばらばらの取り組みを並べて、果たして教育の質が保証されていると言えるのか疑問である(やらないよりは、やったほうがマシということを否定はしないが)。また、教育の目標・プロセス・成果及びこれらの相互連関が曖昧で、どのような人材需要に対応して、どのような能力を、どのようなカリキュラムと教授法で身に付けさせようとする教育プログラムなのか、という基本コンセプトが不明瞭では、学習者のモティベーションはもとより、教育者のインセンティブを保持することも困難である。これは、率直に言って、日本の多くの大学の多くの学部・研究科等で実際に起こっている状況ではなかろうか。人材需要に対応した教育プログラムの構築、そのために必要な人材養成目的の明確化とカリキュラムの体系化等の課題に正面から取り組んできた大学はそう多くないように思う。「改革」「改善」に追われながら「変われない」大学の姿がそこにある。
変われない大学の背景、大学の自己変革を困難にしている要因として、日本の大学の「構造問題」とも言える「4つの制度疲労」がある。第1に、学問分野・研究室ごとにばらばらのカリキュラムである。人材需要に対応した教育プログラムの構築に不可欠な体系的カリキュラム編成は、事実上困難になっている場合が多い。仮に授業科目名が体系的に並んでいるように見えても、個々の授業科目の実際の中身は、教員個々人に任されていることがほとんどであろう。学習者のためのカリキュラムではなく、各教員が教えたいことを教える教員の都合によるカリキュラムである。第2に、教養と専門で分断された学士課程教育である。就職活動を考慮すると、現状では実質3年足らずしかないとも言える学士課程教育において、学生に付加価値を付けるのに必要な体系性・一貫性を妨げるこの分断構造は、許容し難いものと言わざるを得ない。解決の鍵は、教養と専門の「連携」ではなく、学士課程「一貫」教育でなければならない。第3に、高度専門職業人養成に適合しない大学院教育である。課程制大学院の趣旨徹底が叫ばれながら、研究室単位で狭い学問領域の研究指導的な教育が続いており、教育プログラムとしての実態を欠いていることも少なくない。そうした徒弟制的な研究者養成型教育では、文科系の場合、修了後に専門性を活かすことは極めて困難である。大学院教育の機能として、研究者養成に加えて、高度専門職業人養成が謳われるようになって久しいが、実態はなかなか変わらない大学院が多い。そして第四に、自己変革を可能とする戦略的経営の不在である。人材需要に対応した教育プログラムを構築するには、人材養成目的の明確化やカリキュラムの体系化とともに、資源配分・人員配置・教職員の役割構造等の見直しが必要不可欠であるが、こうした課題に正面から取り組む経営の意思とメカニズムを欠いているのが通常である。
経営陣はともかくとして、教員の中には、「経営」不在は「教育」にとって必ずしも悪いことではない、と思われる向きもあるかもしれない。だが、それは間違っている。「戦略的経営」の不在は、「組織的質保証」の不在と相似形をなしており、両者は密接に結び付いている。真の「質保証」を可能とする人材需要に対応した教育プログラムの構築は、人的・物的・財政的資源の再配置と個々人の役割の再定義を伴い、それは「戦略的経営」があってこそ可能となる。教育の質保証を可能とするのは戦略的経営であり、教育の「質保証/戦略的経営」は、教育/経営の目標・プロセス・成果を統合するシステム的アプローチとして一体的に捉えるべきものであって、同一の営為の二つの断面とも言えよう。
◆ http://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/
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