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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.251
大学の底力-大学図書館アーカイブス

客員研究員 村上 義紀((財)私立大学退職金財団常務理事・元早稲田大学副総長)

 海外旅行をするとなぜか大学に足が向く。これは私的に、37年ぶりにシカゴ大学インターナショナル・ハウスと学生コモンズ(学生食堂・クラブ等がある)を再訪した後、誰ともアポイントなしに訪ねた同大学図書館での体験記である。
 100年前に同大学神学部で修士号を取得後、明治41年に来日した、バプティスト派の米国人B宣教師が何を学んだのか、わかるかもしれないと思い立ち、急遽、図書館を訪ねることにした。師は来日して間もなく、学生のためにアメリカの大学と同じような寄宿舎(現在、財団法人となっている)を大学に近接したところに創設。34年間学生とともにあった方である。
 図書館の玄関ホールの左に入館許可証発行カウンターがある。何人も並んで待っている。待つこと約10分。入館目的と利用希望日を記した申請用紙を提出すると、パスポートの提示を求められる。すぐに端末に向い、希望どおり3日間有効のパスカードを発行してくれた。
 たぶん大学アーカイブスを訪ねればよいだろうと、行き会った図書館員に聞く。「スペシャル・コレクションに行きなさい」と、同じフロアーの奥の方を指差す。カウンターのコーディネイターの女性に来た理由を言うと、「スペシャル・コレクションに入室するには別に入室証が必要です。もう一度戻って、もらってきてください」と気の毒そうに言う。
 再発行してもらい、入室前にロッカーに私物を入れ、コーディネイターに調査に来た理由を説明する。聞くやいなや誰かに電話をかけて、「少し待ってください」と言う。その間に調査目的を記す申込用紙に記入する。この用紙は、スペシャル・コレクション・オフィスの誰が、何のサービスをしたかの評価資料になるらしい。
 「ドクターメイヤー。この方がミスタームラカミ」と彼女が紹介してくれて、名刺を交換する。たった今、彼女はドクターと言ったはずなのに、名刺にはドクターの称号はない。アソシエイト・ディレクター兼ユニバーシティ・アーキビストとある。アソシエイト・ディレクターともなれば、ドクターを持っているのはあたりまえだから記さないのだろうか。図書館の専門家は誰でも持っているから記さないのかな、と頭を駆け巡る。ここで聞いたわけではないが、専門司書ともなればPh.Dが今や常識のようである。日本の大学図書館とのサービスの質の差を思わざるをえない。
 「大学を退職し、37年ぶりにシカゴ大学を訪ねた。早稲田大学を知っていますか」と聞く。「知っている」と言うので、「日本に行ったことがありますか」と聞くと「一度もありません」。
 そのような会話をした後、大学カタログを配架してあるコーナーに案内され、100年前ぐらいの神学部のカタログを取り出してくれる。「ご希望のカタログはこの辺ですから」と言いながら、隣接する優に12畳はある個室(読書室)を開けてくれ、「ここを利用してください」と言う。個室といってもガラス張りだから内部が外から見える。何室もある。仕切っているのは、静寂を確保するためと資料の盗難を防ぐためか。室内への持ち込みは鉛筆のみ。ボールペン、万年筆、マーカー、カメラ、ハンドコピー、携帯電話の持ち込みは不可との説明を受ける。
 お願いのついでに「イソオ・アベ教授を知っていますか」と聞くと、これまた「知っています」と即答である。しばらくして書簡の入ったボックスを、確か4つであったか持って来てくれた。
 まずはカタログで神学部学科目の配当表をめくり、コピーしてほしいところに紙をはさむ作業を続ける。そして、そのページを申込用紙に鉛筆で記入する。
 お昼どきになったので「食事に出かけたいので、資料はどうしたらよいですか」とコーディネイターに聞くと、「そのままで結構です。ロックをしておきますから」とのこと。食事を終えて戻り、五時近くまで作業を続け、明日また来ることにする。帰るときは、資料は机の上に載せたままロックしてもらって帰る。翌日来ると、資料は当然昨日のままである。
 この日はアベ・イソオ先生が、この大学の先生に書き送った手紙をボックスから取り出して読む。手書きの手紙は、読みやすいようにタイプされ、保存されてもいる。古いものは1920年。80年以上も前である。手紙の内容は、野球部の学生をアメリカに連れて行くにあたっての詳細な打ち合わせである。全部コピーしてほしいところだが、手紙類は1箱50ページまでということだった。原資料を痛めないための配慮からか。どれをコピーするか選ばなければならない。時間との勝負となったが、希望のコピーリストとページ数を書き終えてカウンターに行く。
 「わかりました。コピーして、後日、航空便で送ります。コピー代金は51ドルです」。払おうとすると、「いや、航空便で資料を受け取ってから支払ってください」。「払わなかったら困るのでは」と聞くと、「リサーチで来た方は間違いなく送金してくださいますから」。
 後で送金するのは面倒だとは思ったが、一見さんにもかかわらず、この信頼はうれしくもあった。果たしてこの種のサービスは、日本の大学図書館ではどうだろうか。
 もう1つ、ドクターメイヤーに会って頼みたいことがあった。かの宣教師の学生時代の学業成績である。頼むとすぐにレジストラーに電話をかけてくれ、別の建物にオフィスがあるので行きなさいとメモに書いてくれた。その労に感謝しつつ、「あなたはこの仕事を何年しているのですか」と聞いたら、「25年ここにいます」。テニュアを持っている人は大学間を異動せず、在職期間が長いが、彼もその一人であろう。一大学に生涯をかける人も多い。彼はシカゴ大学の生き字引であり、語り部に違いない。
 レジストラー。学生記録部長である。バーサー(財務部長)と並んで、大学の歴史の中で最も古くからあるアドミニストレイターのポジションである。
 オフィスに出向くと、L字型のカウンターに全員女性のクラーク(?)が、卒業生、学部学生、大学院学生と、担当別に六人、端末に向って座っている。その中の一人に「レジストラーに会いたい」と言うと、黙って奥の部屋を指す。広い部屋に一人ブラック氏が座っている。挨拶を交わしていると、ここには2年前にコーネル大学から来たと言う。そういえば学長(プレジデント)も、3年前にコーネル大学から来たのだったと思い出す。学長が連れて来たのだろうか。
 「100年前の学生が何を学んだのかを知りたい。彼のアカデミック・トランスクリプトをいただけるか」と聞くと、「OK」と即答である。「ただし、マイクロフィッシュで別のところに保管している。調査して、後日、航空便で送りますが、いいですか」。後日、少し遅れたお詫びの手紙と一緒に送られてきた。すべて無料である。
 短い会話であったが、帰り際に「この大学で最初にPh.Dを与えたのは日本人だった。名前は思い出せないが」と言う。2年しかいなくても、100年以上も前の卒業生のことを知っているとは、さすがにプロフェッショナルだなと感心した。
 シカゴ大学からPh.Dを最初にもらった日本人。これも知りたくなった。スペシャル・コレクションに戻る途中、廊下でドクターメイヤーに出会った。聞くと、これまた「あー。エイジ・アサダ」と即答である。すごい。帰国後、アサダ・エイジ(浅田栄次)なる人物を調べてみると、東京外国語大学の前身の東京外国語学校の初代教務主任で、英語学科主任として同校の教育体制の確立に貢献のあった人であることがわかった。博士論文は明治26(1893)年に、旧約聖書研究に対して授与されたということだった。東京帝国大学の数学科を中退して、創立早々のシカゴ大学に留学。数か国語を操る語学の天才であったらしい。その顕彰碑が平成13年に、東京外大の構内に建てられている。
 シカゴ大学は私立である。1890年にバプティストのジョン・ロックフェラーの寄付金で創立された。授業開始は1892年。学部を持つ大学院大学の嚆矢の1つであるが、翌年の学位授与である。
 まだ100年余にすぎない大学ではあるが、なんと79名のノーベル賞受賞者を輩出し、現役六名という。驚くのはそれだけではない。ノーベル賞受賞者だけでなく、同大学の教育改革や各種事業に貢献のあった人々の文書・手紙の類も個人別に蒐集し、整理・保管して大学の歴史を紡ぎ、語り継ぐ懐の深さである。研究しようと思う者は、誰でも受け入れる度量の大きさである。そこに大学の底力を見た。研究サービスの一端をかいま見たにすぎないが、他も推して知るべしであろう。大学のサービスはかくありたいと思ったが、このスペシャル・コレクションの仕事だけで一四名のスタッフがいると知り、裾野の広さにまたまた驚いた。

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