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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.206
大学制度“実質化”に向けて―「骨太な」ファンディング・システムを

帝京科学大学顧問 瀧澤 博三

《戦後のツケの清算―制度の「実質化」》
 このところ大学改革に関連して「実質化」という言葉がよく使われる。最近では今年1月の中教審答申「我が国の高等教育の将来像」で「大学院教育の実質化」をかなりのウエイトを置いて提言している。この「実質化」とは、大学院の課程の目的、役割を明確にし、その組織的展開を強化することによって課程制大学院の本来の趣旨を実現しようということである。
 少しさかのぼって、平成10年の大学審議会答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について」では、「単位制度の実質化」を取り上げている。これは、大学設置基準に定められた単位制度の趣旨に沿って、教室における授業と学生の教室外の学習をあわせた充実した授業展開をしようということである。大学院にしても単位制度にしても、今その「実質化」を改革課題として取り上げているということは、新制大学が発足して既に半世紀を優に超えた今日になってなお、大学制度の基本的な部分で「制度あって中身なし」の空洞状態が続いていたことを意味しているのである。
 これは考えてみれば不思議なことで、知の拠点である大学でなぜこういう制度無視の状態が放置されてきたのかと考え込まざるを得ない。もちろん当の大学人が、新制度の大学院は所定の修業年限や修了要件をはじめ組織的なカリキュラムを備えた「課程」になったということや、単位制度では、教室内の授業と教室外の自主的な学習とをあわせ45時間の学習をもって1単位とすることなどを知らなかった筈はない。にもかかわらず制度の趣旨が実現されなかった理由はといえば、これは、戦後の困難な状況の中で必要な資源投入の見通しもなく、加えて新しい制度に対する戸惑いもあって、政府も大学人もその趣旨を実現し「実質化」しようという決意を持てなかったということであろう。
 もう一つ、そうした戦後のツケが今日まで持ち越された理由を挙げる必要があるだろう。これまで大学の問題は「国内問題」に過ぎず、制度は制度、実態はそうはいかないと仲間内で目をつぶって過ごすことができたことである。そのような気楽な環境は最近の大学教育のユニバーサル化、グローバル化によって一気に崩れてきた。学習量の「credit」である単位の内実についての信頼性が確立されることなしには、日本の大学の将来を左右するユニバーサルアクセスの実現は難しく、また大学院の充実なしには国際的信頼性と競争力を高めることもできない。日本の大学は高等教育の世界的な潮流から取り残されることになろう。しかしそうは言っても空洞状態の続いていた単位制や課程制大学院を「実質化」し、戦後のツケを清算するという大仕事が、半世紀を超えた今になって一体どうしたら可能なのだろうか。

《単位制度の実質化》 
 新制大学発足後10年を経てその全般的な見直しをした昭和38年の中教審答申では単位制度についてこう言っている。「単位制度をその本来の趣旨どおり実施するには幾多の困難があり、これが学力向上の一つの妨げになっていることも争えない。このように、単位制度の現状は、わが国の実情に即しないものがあるので、一方でその障害を取り除くことに努めるとともに、単位制度そのものに対して幾多の改善を加えることが要請される。」
 単位制度は日本の大学に馴染まないと感じ、その趣旨どおりの実施には懐疑的だったのである。しかし結局は、単位制度の抜本的な改正は行われず、15時間の講義のみで45時間の学習が行われたものとして目をつぶるという、教育を犠牲にした最も安易な対応が選択されることとなった。「21世紀の大学像」答申では、履修科目の登録に上限を設け学生の過剰な履修登録を防ぐことによって、単位制度の趣旨どおりの充実した授業展開を図ることを提言しているが、こうした方法だけで「実質化」が実現できるとはとても思えない。「実質化」するということは、人文・社会系であれば、1単位の学習時間をほぼ3倍にすることを意味する。これは精神論でできることではなく、必要なことは何よりも授業方法に手間をかけて工夫をし、学習指導を充実し、学習環境を整えるための人的、物的資源の投入であり、そのための相応の財政措置である。

《大学院教育の実質化》
 新しい課程制大学院制度の理解が浸透するにはかなり手間取ったといえよう。大学院独自の教育指導体制はなく、大学院とは学部の付属的な機能の一つに過ぎないかのような旧制当時と変わらない実態が長く続いたが、これは新制度に対する無理解というより、理解するゆとりが無かった時代だったというべきかも知れない。その後、大学審議会では数次にわたり大学院問題を取り上げ、制度の弾力化、学位制度の改革等が進められた。また大学院の量的整備には力が注がれたが、課程制の実質化について抜本的方策が提起されることはなかった。
 今年に入って「高等教育の将来像」答申で「実質化」が俎上に上がったわけだが、すでに無計画に拡大し、拡散した国公私の大学院を「実質化」することがどんなに膨大な資源を要することか想像もつかない。いま、実質化の一つの道として専門職大学院の制度が創設され、法科大学院等の設置が進められたが、今後の設置方針や財政支援の見通し、既存の制度との関係なども混沌としており、大学には不安と困惑が広がっている。「実質化」とは、新しい大学院制度の実施と同じ大改革である。その実施手順と財政措置を伴った大学院のグランドデザインなしでは、大学の混乱は収まりようがないだろう。

 《骨太なファンディング・システムを》
 必要な資源を注入することなしに空洞化していた大学の制度を実質化するということはありえないと思う。単位制度にしても大学院制度にしても、その「実質化」は大きな政策課題であり、慎重に調整された政策手順と財政措置が不可欠である。現在、中教審では、課程制大学院の実質化に重点をおいて大学院問題を更に審議中であり、その中で大学院改革への5年程度の集中的取組み計画の策定が提言されると聞いているが、国立大学とバランスの取れた私立大学への財政支援計画が盛り込まれるものと期待する。
 私立大学への助成については、このところ一般補助の割合が目減りする一方で、特別補助や国公私を通じた競争的経費等の割合が増える傾向が続いている。これらの特別な経費はそれぞれ特定の政策目標と結びついており、それが大学の改革を促し、活性化する上で大きな効果をあげていることを疑うものではない。
 しかし、きめ細かく教育を誘導するような財政支援の形が長期的に継続することは、半面で私学の自主性と個性を損なう面が出てこないかと懸念される。国公私を通じた競争的資源配分という考え方についても、設置者としての管理責任を持つ国立大学に対する政府の立場と、私立大学に対する一般的な監督庁としての政府の立場が混同されるきらいはないだろうか。この2つの立場の本質的な違いについては注意深い配意が必要だと思う。「高等教育の将来像について」の答申にある「きめ細やかなファンディング・システム」がどのような考え方なのかよく理解していないが、語感からすれば、「きめ細やかな」よりは私立大学の大きな政策課題に対する「骨太な」ファンディング・システムにこそ期待したいと思う。
 行財政改革の大きな流れが進行し、補助金等については効率性の観点からの見直しが続いており、私立大学への補助のあり方も大きく変化しつつある今日、政府と私立大学の関係について改めて基本的な考察が必要な時ではないだろうか。

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