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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.194
開かれた大学への道程―大学公開講座の現状に思う

私学高等教育研究所客員研究員 岩永 雅也(放送大学教授)

 本紙でも2回にわたりその全文が掲載されたように、第 II 期中央教育審議会は去る1月28日、『我が国の高等教育の将来像』を文部科学大臣に答申した。前文には、国公立大学の法人化や設置認可の弾力化、第三者評価制度の導入など、大学システム全体に関わる構造改革の進展という現実を踏まえ、今後わが国の大学が国際的な評価を高めつつ安定して発展を続けるため、答申が「中長期的観点から望ましい方向やあるべき姿を提示」し、「新時代の高等教育を築くための道標」となることが謳われている。第 II 期中教審の最終答申が高等教育に関するものであったことは、とりもなおさずこのテーマが現代日本の教育に関わる最重要課題の一つであることを明示しているといってよい。細部にわたる賛否の議論は当然あるにしても、この答申が今後わが国の高等教育政策の起点となっていくことは疑いを容れないところである。
 そうした認識の上に立ち、あらためて答申を読むと、意外な点に気づく。それは、答申の第二章でも触れられている大学をはじめとする高等教育機関(以下大学と総称)の最も基本的な三つの機能、すなわち「教育」「研究」「社会貢献」のうち、前二者についての記述がほとんどで、従来から最も弱体で強化が必要とされてきた社会貢献の機能についてはわずかしか触れられていないことである。確かに、生涯学習への視点や地域社会の知的中核といった記述もあるにはある。また、社会人が必要に応じて実社会と大学とを行き来するといった「往復型社会」の提言もある。しかし、その内容は1970年代のリカレント教育論の域を脱しておらず、また具体性にも乏しい。こうした答申での扱いは、まさに現下の大学問題の焦点が存続のための機関のあり方にのみ当てられ、残念ながら社会貢献は実質的に周辺部に留め置かれているという状況を如実に示したものといわざるを得ないだろう。
 ところで、大学の社会貢献という概念は、とりわけ今日の日本にあって、これまでになく多様なものになっている。伝統的な公開講座を初めとして、TLOや地域の産業との技術提携といった産学協同、キャンパス内の施設を利用した文化活動、あるいは教員の行政やマスコミへの参加など、大学の基本的な三機能のうちで最も多様性に富んだジャンルであるということができよう。そのことが、この機能をとらえどころのない境界の曖昧なものとしていることは事実である。大学も、社会貢献を建前としては標榜しつつも、なかなか積極的には取り組みかねていたというのが実情であろう。それを象徴的に示しているのが、大学開放の代表的な活動と考えられてきた大学公開講座の状況である。大学公開講座は、いうまでもなく欧米大学のエクステンション事業を基本的なモデルとしている。大学の権威に裏打ちされた「知」を渇望する新興の中産階級を対象としたケンブリッジ大学での巡回講義(逍遙大学)がその嚆矢であるとされるが、やがてそれは大学拡張運動に発展し、現在では大学に欠くことのできない事業として位置付けられるに至っている。
 現在わが国の大学にあっても、公開講座は大学開放の手段として代表的な存在である。すでに1970年代から、国公私立の先進的な大学で、大学開放に関わる比較的取り組みやすい課題として実施されてきた。それが生涯教育あるいは生涯学習への全社会的な関心の高まりの中で大半の大学に広まったのは80年代になってからのことである。統計値から見ても、一般市民に対する公開講座を開講している国公私立大学は、1976年度に137校だったものが2002年度には644校にまで増加しているし、講座数、受講者数も約千講座、8万人余だったものが、2002年度には1万8千講座以上、約90万人にまで増加している。4半世紀の間に、学校数で約4.7倍、講座数で約18倍、受講者数で約11倍になった計算になる(いずれも文部科学省の統計値による)。
 しかし、実はこの数値には大きな問題がある。受講者数は全体として伸びているものの、一講座あたりの受講者数は著しく減少しており、その傾向には全く歯止めが掛かっていないのである。つまり、受講者数の増加は専ら講座数の増加によってのみもたらされ、かつ個々の講座の教育効率は著しく低下しているということである。また、全講座数の85%は私立大学で提供されており、一大学あたりの受講者数は私立大学だけで減少している。つまり、大学公開講座の低迷は、私学において最も顕著にあらわれているのである。受講者を引きつける力の低下がそのまま公開講座存続の問題へと直結しかねないことはいうまでもないだろう。
 もちろん、教育の問題を数の観点からのみ論ずることは適切でないし、また、採算性を度外視した活動こそ社会貢献の貢献たる所以だ、という議論にも一理はある。しかし、社会貢献・大学開放の中心的存在として多くの蓄積を重ねてきた公開講座が、おしなべてやっと一桁の学習者しか集めることができないとしたら、最早社会への貢献すら満足になしえなくなってしまうだろうことは想像に難くない。
 こうした低迷にはいくつかの要因が考えられる。その第1は、地域の学習者のニーズが適切に把握されていないことである。確かに、多くの大学では公開講座のテーマに関するアンケート調査などを実施し、ニーズの把握に努めている。しかし、お決まりの項目を列挙した調査票で選択肢を選ぶという行為と、実際に学習の場に参加することとの間には計り知れない距離があることを認識すべきである。アンケートの結果にのみ依拠することの危険性は著しく高い。第2は、これまで大きな受講者層を形成してきた「リピーター」の高齢化である。日本の大学公開講座の参加者を見ると、児童・生徒向けのものは別として、受講者層の年齢が高いことを見て取ることができる。多くの講座で60歳以上が過半を占め、8割以上が高齢者という講座も少なくない。例えばアメリカのコミュニティカレッジの同様の講座では20代から40代が中心であることと比べても、その特徴は著しい。そうした若年層〜壮年層が魅力を感じるテーマの欠如がその決定的な原因となっていることは間違いない。そして第3は、講座運営の適切性と柔軟性の不足である。大学の他の機能に比べ、大学開放は最も体系化が遅れている領域であり、さまざまな学習者に柔軟に対応することがなかなか困難だというのが実情である。その上、現在、大半の大学で公開講座の運営を支えているのは、ローテーションで担当となった職員と持ち回りで無報酬の講義を担当する教員であるが、それらの担当者の事務処理能力と研究能力の高さが公開講座運営のための能力の高さと必ず一致するという保証はどこにもない。そうした多くの問題を抱えつつ、大学公開講座はただでさえ増加の一途を辿る民間の生涯学習機会との競合に晒されているのである。
 現在、多くの課題を抱えながら、それでも意欲的で魅力ある講座を開設している大学は日本中に決して少なくない。大学開放に携わる付置センターの連合体、協議会などの活動も活発になってきた。上に挙げたような問題点も、徐々にではあるが克服されつつある。大学公開講座に代表される社会貢献が、建前ではなく実質的に重要な意味を持った活動として認知されるのもそれほど遠い未来のことではないかもしれない。そのためにも、『我が国の高等教育の将来像』により積極的な社会貢献への言及が欲しかったと思うのは私だけではないだろう。

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