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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.192
政策と市場のバランスを―「我が国の高等教育の将来像」を読む

帝京科学大学顧問 瀧澤 博三

 《「政策」と「市場」の攻防》
 日本の高等教育界のこの10年程の動きは、「政策」と「市場」の攻防に明け暮れた一時期として後世に記憶されるのではないだろうか。「政策」は戦後の長い歴史としがらみを背負っているのに対して、「市場」の方は新自由主義を標榜する行政改革の世界的な動向を背景にし、新しい風に乗っているという強みを発揮している。攻防といっても「政策」の方は「守旧派」と見なされやすく明らかに守勢である。
 ここで高等教育の「政策」はどう定義したらよいだろうか。まずは平易に、「高等教育への社会のニーズを把握すること、ニーズにマッチする高等教育のシステムを設計すること、この設計を現実化すべく、規制、誘導、支援などの行政手段を講ずること」としておこう。
 一方で、「市場」の主張は、政府によるニーズの把握とこれに応ずるシステムの設計は概して失敗が多く、かつ非効率である。「政策」の出動は少ないほどよい、ということになる。
 この「政策」と「市場」は、それぞれに持ち味が全くちがうものであり、あれかこれかの議論をすべきではなく、両者の得意とすることを生かして、バランスのよい使い方をする必要があると思う。ところが、市場主義者の高等教育論の中には、「政策」は人間の想像力の乏しさの見本であり、市場こそ神の手である、と言わんばかりであり、そのような高等教育論にまことにむなしい思いをさせられることが多い。
 この両者の攻防の様子は、文部科学省の審議会の答申等からも窺えるところであるが、中でも平成14年の中教審答申「大学の質の保証に係る新たなシステムの構築について」は、波に乗った「市場」の影響力がもっとも大きな力を発揮した時期ではなかったろうか。「事前規制から事後チェックへ」という規制改革のキャッチフレーズに沿って、設置認可の簡素化をいっそう進めるとともに、事後のチェックとして認証評価制度をつくり、法令違反に対する段階的是正措置を打ち出した。これによって行政は高等教育システムの設計からは手を引き、市場の働きを支える仕事に専念することになった。
 18歳人口の減少と並行して、高等教育の地殻変動が世界的規模で進行し、高等教育の将来への不安が最も高くなっているこの時期に、高等教育全体の調整役を果たすべき「政策」を後退させて「市場」任せにすることは、この不安にいっそう火に油を注ぐであろうことは言うまでもない。その後、大学関係者から、高等教育のグランドデザインをという声が大きくなったことは当然であろう。

 《「我が国の高等教育の将来像」答申の軌道修正》
 こうした背景もあってのことと思うが、中教審では2年半に及ぶ審議を経て、このほど「我が国の高等教育の将来像」を答申した。この答申の基本的な考え方がどの辺にあるか読み取りにくいところがあるが、その第二章の冒頭にある「高等教育計画の策定と各種規制の時代から将来像の提示と政策誘導の時代への移行」というキャッチフレーズからは、市場任せということではなく、政策手段は強制色の少ない柔軟なものになったとしても、政策はその責任を果たすべきだという意思が読み取れるように思われる。
 また高等教育政策における計画性についても、計画の時代ではないと言いつつ、あまり表立たないところで計画の必要性にも言及しているようである。2点ほど挙げてみよう。まず、「第二章2(2)地域配置に関する考え方」では、大都市部における過当競争や地域間格差の拡大によって教育条件の低下やアクセスに関する格差の増大等を招くことのないよう、たとえば、各大学における適正な定員管理に一層留意する等の方策を検討する必要がある、としている。つまり、地域配置については市場原理に委ねられない問題があるということであり、さらに、「適正な定員管理」という表現が極めて判りづらいが、この意味するところが関係大学の入学定員の調整ということであれば、市場への大きな政策の介入である。
 もう一点指摘しておきたいのは、国立大学の役割についての記述である。「第三章2、国公私立大学の特色ある発展に関する考え方」の中で、国立大学は、国からの交付金等によって支えられ、また学長任命や目標による管理などの国の関与があるという特性からして、計画的な人材養成をはじめ国の高等教育政策の実現に貢献すべき社会的責任がある、という趣旨が述べられている。
 国立大学の法人化の議論が進められていた当時は、国から独立した法人となることによって、運営の自主性、自律性が高められるということがもっぱら強調されており、国による財政的支持と運営の国からの自由という両立し難い地位に疑問が呈され、ひいては私学側からの「イコール・フッティング」という声が高まることにもなった。今回の答申では、国立大学は「国策大学」であるという、当然であり、かつ曖昧にされていた点が明確にされたのだと思う。同時に、国は決して計画性を放棄したわけではなく、国立大学を中心として高等教育政策の計画的実現を図るという従来の方針を継続するという意思を示したものと理解したい。
 この答申による重要な軌道修正がもう一つある。設置認可制度の重要性を改めて指摘していることである。設置認可制度については、国の規制緩和の方針に従って逐次簡素化が進められてきたが、特に前記平成14年の中教審答申では、総合規制改革会議の答申を受けて学部の設置も一定の条件の下では届出とするという大胆な改正を打ち出した。この改正は第三者評価制度の整備も待たずに直ちに平成15年4月から実施に移されたが、その結果は大学の質の保証という観点から大きな問題を残している。
 余りにも市場原理主義的な思考に偏った政策選択の例として高等教育政策の歴史にも汚点を残すのではないかと危惧されることである。今回の答申で、サービスとしての高等教育の特殊性を挙げ、その質に関しては、市場万能主義に依拠するべきではないとしているのは、教育サービスの質の実質的な保証という観点を軽視した安易な認可の簡素化に対する反省を含むものと理解したい。
 今回の中教審の答申は、計画策定の時代からの決別を宣言しているところからも、規制改革に主導されたこれまでの高等教育政策の流れを引き継いでいるようにも見える。しかし一方ではこれまで指摘したように、市場万能主義への批判を提示しており、これまでの路線の軌道修正の意図も見受けられ、大きな路線の議論をするには非常に難しい時期であることを窺わせるものがある。政策の力でも市場の力でも、いずれにしてもこれを万能視することなく、バランスの取れた高等教育政策の在り方を確立したいものである。

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