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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.146
「価格」妥当性を説明せよ―保護者の教育費負担に関する調査

関西国際大学人間学部教授 濱名 篤

 本稿では、前号に関連して、米澤彰純氏らとともに実施した保護者調査データから、保護者が学費負担についてどのように考え、大学教育についてどのような意見を抱いているかを紹介していく。
 今回主に分析に用いるのは、自由記述欄である。通常の質問紙調査の自由記述欄では記入率は低いが、本調査では回答者の43.5%が記入していた。この保護者たちの学費負担と大学教育について貴重な質的データに注目しようと思ったのは、この高い回答率とともに、あらかじめ用意された回答には現れにくい彼らの“本音”を知ることができるからである。それぞれの意見のキーワードを探し分類してみると、(1)学費負担の考え方、(2)大学教育に対する期待と評価、(3)大学教育に対する意見、(4)学費負担への改善意見の大きく分けて四領域に整理できる。ここでは(1)から(3)を取り上げていく。
 第1に、学費負担の考え方、つまり、どういう思いで学費を負担しているかみてみる。保護者の考え方は、@「負担感の重さ」、A「消費(プレゼント)としての教育支出」B「対費用効果」の三つの観点におおむね集約される。
 @の費用負担の例を紹介すると「昨年の我が家の娘2人の教育費は約800万円かかりました(次女の大学入試が重なったため)。長女は今週A大学を卒業しましたが、大学院に進学するため年間500万円の教育費が今後最低2年は続きます。総額では約3200万円くらいになると思います。地元群馬では小さな家なら2軒買えます。地方から首都圏の大学へ入学させるには、仕方がないと自分自身に言い聞かせています」とか「地方から都内にアパートを借りて就学させると、4年間で800万円くらいの金が必要になる。教育のためとはいえ、親にとっては非常な負担である」等で重い負担感を表している。
 Aの「消費としての教育費支出」については、「4年間という時間と何百万円という大金を子供にかけるということは贅沢かもしれませんが、親としての大きなプレゼントとして考えています」といった意見に代表される、“消費としての教育費支出”という声が少なくない。
 Bの「対費用効果」の中には、「授業料等は大学の内容が良ければ高くても通わせたいし、安くてもそのために授業等に差し支えるようであれば困る」等“教育の質次第”といったものもあるが、「授業料は決して安くありません。もう少し、授業をたくさん受けることができるようにしてほしい」とか、「入学金・授業料についてはあくまでそれに見合う内容が受けられることが大前提」といったシビアな“消費者意識”をもつ保護者が少なからず見られる。中には、「くじ引きで(履修登録に)はずれてしまい、入学した目的(資格・免許取得)が持てない学生がいるのはあまりにひどすぎる」といった強い不満を示しているケースもあった。
 学費負担は重いと感じられていることは間違いないが、対費用効果の関心が高まりつつある一方で、子どもに対するプレゼントといった消費的に学費負担を感じている保護者が併存している状況といえよう。
 第2に、大学教育に対する期待と評価、言い換えれば大学教育の価値をどのようにとらえているかについて意見を整理してみよう。
 大学教育に対する価値づけは、大学が提供する@「フォーマルな教育課程」だけではない、A「進路決定の準備ができる」、B「『手段』としての教育に対する評価」、C「『経験』自体に価値がある」、といった観点からなされている。
 @「フォーマルな教育課程」は、専門教育、専門の基礎、教養教育、一般常識、人生観、価値観といったキーワードとともに、大学教育への期待や価値づけをみることができる。伝統的な大学教育観でもあり、第二世代(両親のいずれかが大卒か短大卒で、高等教育を受けている)の高学歴層に多い考え方である。
 A「進路決定の準備ができる」は、「在学中に自分の進む方向をしっかり見つけられ、それに見合う教育が受けられれば最高」、あるいは「早く自分のやりたいことを見つけて」といった、“自分探し”の時間として必要なものと大目にみる考えをもつ保護者の存在を示しており、第二世代の保護者に多い考え方である。
 B「手段」としての評価とは、資格、就職、実践的な知識や技術が身につけられる教育を“手段”としてとらえ、“将来に対する投資”だという考え方である。「卒業したらせめて『就職』だけは保証されるような指導、システムを作って欲しい」であるとか、「せっかく高い授業料を納めているので学校側で積極的に資格を取らせて欲しい」といった「手段」としての“結果”を大学に厳しく求めている。中には「学生や親は『大学教育というサービス産業の一面を持つもの』の消費者という感覚があります」と明言したものもあった。こうした声は第一世代(両親ともに高卒以下で、子どもが高等教育の第一世代という家庭)の保護者に強いようである。
 しかし、大学教育に対する価値・評価として最も目につくのは、教育そのものよりも、大学生活を通して学生たちが得るという、Cの「経験」に対する価値づけである。「色々な体験ができる時間的余裕を与える」、「勉強の場であると同時に人間として成長する過程の熟成期間」、「大学生という立場で、勉学、アルバイト、サークル、その他社会との関わりなどを通して、人間として成長して欲しい」といった経験の“時間”や“場”を与えるために子どもを大学進学させる価値観である。こうした保護者は、自らが大学教育の経験者である「第二世代」に多い。自らのマス段階あるいはそれ以前に受けた大学生活の経験に基づく評価であるといえよう。いうならば“多様な経験もできるトータルな場”としての価値である。
 「本人1人の卒業とは思っていません。家族3人の勉強でした」や「子供達が大学で学んでいると思うと、子育て一段落の私自身、学ぶことを考え始め子供からいい刺激をもらった」といった“家族の共有体験”として享受している保護者もいた。フォーマルに大学が提供する教育そのものだけでなく、結果的に大学生活が果たす機能に価値を置く、“優しい(ものわかりのいい)保護者”に、大学は寛容にみてもらっていると言えるかもしれない。
 保護者の77.3%、(保護者からみて)卒業者本人の82.9%が、大学教育に満足している根底にはこうした情勢がある。
 進学率の上昇は、第一世代の子弟の増加を必然的に伴う。果たして、今後の大学教育への価値づけがこうした情勢として継承されていくのであろうか?
 第3の「大学教育への意見」をみると、見通しは厳しく考えざるを得ない。
 大学教育に対する苦情・不満の多くは調査協力してもらった個別大学に向けられたものであったが、厳しい意見が少なくない。
 「入るときには広く、出るときには狭き門であるべき」、「入学することの難しさにウェイトが置かれ、押し出し式のように出席度、成績にかかわらず卒業させてしまう」、「卒業に際し、きちんと卒業レベルに合うかどうか判別する必要がある。(中略)国家試験とまでいかなくても、共通卒業試験(基礎的な内容+専攻別科目の基礎的内容)の導入」といった大学教育の“質的保証”と“出口管理”を求める声が目立つ。
 特に、大学教育自体に対して理解を示している「第二世代」の保護者からこうした声が出ていることを考えると、“トータルな経験の場”としてだけの大学が評価され続ける状況は考えにくい。
 「第一世代」の保護者からは「休みが多いのでもっと単位を多くして密度の濃い勉強」や「単位を取った時点で授業料を払わなくても良いように」といった“学費に見合った単位・教育”への声が出てきている。
 学費負担に対する考え方は一様ではない。しかし、大学利用層の社会的背景や入学生が多様化すると共に、それぞれの大学の学費徴収に対し、“価格妥当性”の説明を求める声が強まってくることだけは不可避である。学費新時代は確実に近づいている。

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