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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.136
医療と教育を考える―学生のための大学と患者本位の病院

私学高等教育研究所主幹 喜多村 和之

 私事でたいへん恐縮であるが、病を得て7月から10月までの約3か月余り入院治療を余儀なくされたので、その間本欄への執筆も休ませていただいた。このたび、おかげ様でようやく筆をとることができるまでに回復したので、あらためて執筆を再開させていただきたい。
 入院中には医師、看護師、理学療法士、放射線等技師、薬剤師等々の何十人もの医療関係者の方々が、検査、手術、事後の種々の治療、リハビリ等と、たった私ひとりの命を救うために、懸命に治癒に取り組んでくださったことは、いくら感謝してもしきれない思いである。しかもその背後には実にきめ細かな福祉・保険制度があることも、今さらながらあらためて感じさせられた次第である。私の生命を直接救ってくださった執刀医は、脳外科医として日本でトップの名医と評価されている松谷雅生先生(埼玉医科大学教授)であるが、その背後には優秀な医師団とそのサポートに徹する医療看護関係者の部局をこえた見事な連携プレイがあることも知った。たとえば、リハビリは手術直後からすぐに開始され、患者の身体の状態に応じて柔軟に対応し、機動的にどこにでも出張してきてくれる。10年前に他の大学病院に入院したときにはこういうシステムはなかったので、麻痺の後遺症に悩まされることになったが、この機動的で柔軟なシステムがなければ、今回の社会復帰ははるかに遅れたであろう。
 患者を英語でペイシェントというが、これは実によくできた言葉だと痛感した。患者は、苦痛に耐え、眠れぬ無限長夜の時間を待つことに耐え、身内以外に頼めないようないことでも、自分では何ひとつできなくなってしまった自己嫌悪や屈辱感にも耐えなければならない。病気は人間に自分ひとりだけでは生きていけない、人の助けを借りなければ水ひとつ飲めず、食事も排泄すらままならない情けない事態に陥ることを教えてくれる。そのとき患者が生きるために必要としているのは医療であり看護である。
 私はこれまで国立・私立の大学病院に何度か入院した経験がある。今も生きていられるのはそのおかげであるが、これまでの患者としての経験では、病院というものは、患者本位というよりは医療関係者本位で経営されているのではないかという思いばかりが強かった。
 しかし、今回入院した埼玉医科大学では、そうした先入観が見事にくつがえされた。それは医師も看護師もその他の医療関係者ももっぱら患者本位に考えられていて、それが日常の医療行為のなかに実行されて如実に生かされていると感じさせられたからである。医師は患者に頻繁に病状や治療方針を丁寧に説明してくれ、いわば患者と対等な目線で接してくれて、これまでありがちな権威主義的な態度はまったく見られなかった。とりわけ感銘を深くしたのは、脳外科病棟全体の医師や看護師はみな患者の状況をよく把握していて実に親身に気にかけていることが感じられたことである。どんな患者にでも回復の兆しが見えるとその病棟全体の喜びとしてみんなが励ましあい、喜びあう。私はまったく別の病棟で、最近あの人は明るくなったね、と自分のことを噂し合っている看護師さんたちの会話を仄聞して感激したものである。
 病に陥ったとき人間がまず何よりも必要とするのは、医療者の患者に対する思いやりであり、優しさである。それに臨機応変に対応できるためには、医療者は患者が何を欲しているかを想像できる力をもっていること、つまり思いやりの気持ちがなければ不可能である。なぜなら看護師たちは病気を体験しているわけではないからである。その点では看護短大や医療専門学校で学んできた彼ら彼女らは、実習を通して実によく訓練されているとの印象を受け、感銘を深くした。
 そして常日頃から大学教育の場で痛感していることであるが、今日の学生に最も欠けていると言わざるをえないのが、想像力(イマジネーション)の欠如にあるのではないかと私は考えている。普段あまり脚光を浴びることのない実業教育の圧倒的な実力や実績や努力にもっと目が向けられるべきだと思う。この点、有名大学重視に陥りがちなマスメディアや研究者は、筆者も含めて大いに反省すべきであろう。
 医療看護の仕事はいわゆる3K(きつい、危険、きたない)の典型のような仕事である。楽で格好よくて、収入の多い仕事につくための学歴ほしさにキャンパスにひしめいている、いわゆる有名大学の学生などに到底務まる仕事ではない。私はこの病院で、いわゆる有名大学ではほとんどお目にかかれない、目の涼しい、目前の仕事に黙々と専念している何人もの若者たちに出会った。単に看護という仕事にプロとして優れているばかりでなく、今の世の中では信じがたいほど優しく、人間的にも、尊敬すべき人々が少なくなかった。しかも、みな自分たちは特別なことをしているなどという自負はひとりももっていなかった。私は教育学の研究者として教師として、自分は何が出来ているのかという疑問を痛切に恥じいるとともに、こういう人たちが日本を支えていてくれているのだと、将来が明るくなった。
 大学評価の時代だが、ここで力説しておきたいのは、大学や病院の質は、簡単に数値化できる軽薄なランキングの順位などによってはかることなどできるものではないということである。病院でいえば、この埼玉医科大学の基本理念のいうように、患者の満足を最大限に尊重するという精神が現場にいきわたっているかどうかであろう。単にブランドや学閥を重視した評価項目で欠点や短所を懲罰的に指摘したり評定するのではなく、患者が心から満足しているかどうかという点に着目し、このような営々たる努力をしている病院を積極的に評価し、そうした長所を大いに奨励して力づけることこそが、大学評価や病院評価の本来の目的ではないだろうか。埼玉医科大学病院は、最近、日本医療機能評価機構の認定を得たというが、当然の評価だと患者の体験からも判定できる。
 最近は患者本位の病院をスローガンに掲げるところが多いが、現実にはきれいな病室に改装したり、食事の質を競う傾向も出てきているようだ。しかし、病院の質は地味な医療・看護の不断のきめ細かい努力からのみ向上するのではないだろうか。
 一方、学生本位の大学改革や教育重視を掲げる大学もようやく増えてきた。しかしそうした理念が果たして日常の営為のなかにどこまで具現化されているかということになると、首を傾げざるをえないところが多いのが現状であろう。早稲田大学も筆者が40年来主唱してきた「学生中心の大学」をようやく理念に掲げるようになったが、学生の間では具体的に何が学生中心に変わったのかと問う声が高い。
 病院が患者の治癒を目的としているように、大学の目的は、第一義的には学生の学習と教育の促進である。しかし、病院もわがままな患者を甘やかすべきでないのと同様に、もし大学が無原則的に怠惰な学生の恣意に媚びるようなことがあるならば、それは大学教育の死である。
 今日も私の病室の担当になった若い看護師さんが私の顔色が悪いと心配してくれた。しばらくして別の看護師さんが部屋にやってきた。忙しい彼女は仲間のひとりにわざわざ私の顔色を確認するよう頼んでくれたのである。この種の心遣いは日常当然のことのように行われていた。
 埼玉医科大学病院での3か月の入院生活は、私に医療と教育に関わる基本的な問題を考え直させてくれた。
 埼玉医科大学と国立大学病院との大きな違いは、私の入院経験によれば、後者における患者の立場は権威ある医師に診ていただく弱者であり、管理される対象だが、私大病院の患者は医師と対等の人間として扱われると同時に大事なお客様なのである。ただ患者優位の時代を反映してか、わがままで傍若無人の振る舞いをする患者も増えてきているようである。しかし、いずれが時代の流れにそっているか、いずれの病院に入院したほうが患者にとって幸せであるのかはおのずから明らかであろう。

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