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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.81
新しい評価体制を求めて―私大協関東地区連絡協議会から

私学高等教育研究所主幹  喜多村和之

 去る6月17日に、日本私立大学協会の関東地区連絡協議会において、「大学評価のあり方と新しい評価システムの構築―私立大学の特性に配慮した評価システムをめざして」と題するシンポジウムが東京で開催された。周知のように、現在中央教育審議会は、全高等教育機関に、自己点検・評価に加えて、第三者評価を「義務」付ける方向で検討しており、おそらくその実施も時間の問題と思われる。その意味で、タイミングのよいテーマであり、それゆえか出席者も170人余を越す盛況であった。筆者もパネリストのひとりとして参加したので、その内容を報告させていただきたい。
 原野幸康同協会常務理事をコーディネーターに、まず文部科学省の板東久美子高等教育企画課長は、大学評価の重点が「事前評価」から「事後評価」重視に移行しつつあり、今後は大学の主体性にもとづく自己点検・評価と公正かつ客観的な第三者評価の両者によって、高等教育の質を官ではなく民のシステムで保証していくことが時代の要請になっていることを強調し、私学独自の評価システムの構築を大いに期待しているとの意見を表明した。
 朝日新聞社の「大学ランキング」編集に長年たずさわってきた清水建宇編集委員は、「誰のための大学評価か」という問題意識から、大学の中身を知らせることが評価の重要な役割のひとつであり、大学は受験生や世間への情報公開のために、マスメディアにももっと積極的に情報提供をすべきだと注文をつけた。
 齋藤諦淳武蔵野女子大学学長は、かつて文部官僚として大学の設置認可にも携わった経験と現在学長として私学の現場に身を置いている立場から、いまや大学の設置や評価に関与する20世紀型の官僚統制の時代は終わったのであり、これからは大学の主体性を最大限重視する規制緩和を図り、文科省が第三者評価機関を認証するといったような従来型の政策はとるべきではないと主張した。
 いずれも大学評価の重要性と方法について、それぞれの立場から説得力のある主張が展開された。
 しかしながら、評価というものの難しさは、評価の目的、評価する主体、評価の方法や視点によって結果が変わり、万人を納得させるに足る絶対的な評価結果や完璧な評価システムというものは存在しないという点にある。例えば政府や資金助成機関は、政策の重点化や資源の効率的配分のために評価を必要としているし、マスメディアは受験生や企業の学校選びのために大学の格付けやランキングを求め、大学は教育・研究のための組織の活性化や機能の向上改善をめざして自己評価を実施するだろう。
 しかも評価を実施する主体とこれを必要とする者との目的や利害は必ずしも一致するとはかぎらない。評価はそれぞれの目的に最もふさわしい方法で行われるべきで、いくつもの目的に奉仕したり、混同されては混乱するばかりだろう。例えば、事前評価としての設置認可の審査と事後評価としての達成度の水準を量ることとは別のことであり、政府の資源配分のための評価と大学の自己改善のための評価とは安易に混同されてはならないであろう。また設置形態を異にし、財政的にも国費に大きく依存する国立大学と学生納付金に大半の収入を頼っている私学とを、同一の条件下のままで共通の基準で評価することには基本的に無理があるだろう。
 言うまでも無く、評価をするには判定の指標となる基準がなければならない。しかし評価の基準とは何だろうか。例えば大学設置基準に規定されているような諸条件を充たすことであろうか。それとも、東大や早慶のような既成の有力大学をモデルにして、それに少しでも近づくことなのであろうか。しかし、従来のように外に基準を求めるのは、齋藤氏の言うように20世紀型の大学観ではないだろうか。
 21紀型の大学とは、そのような外に基準やモデルを求めるのではなく、それぞれの学校の内で目指されている自校の教育理念(ミッション)を実現するところに求められるものではないだろうか。私学は建学の精神によって創設され、独自の目的を実現すべく教育・研究を遂行している。例えば、文化女子大学は服飾やファッションの教育・研究をミッションとし、身延山大学は僧侶の養成を目的としている。これらのユニークな大学が東大や早慶と同じ基準で評価することは不可能でもあるし、そのような評価は無意味であろう。ここで評価基準とは、おのおの異なるミッションをもつ大学がその目的をどこまで誠実に達成しているかであって、例えば学術の研究というひとつの水準で一律に横並びに序列化することではないだろう。このように一つのスタンダードで横並びに価値を測定できない大学や学校が併存・共存する時代こそが、万人型のためのユニバーサル高等教育システムであり、21世紀型の大学の特徴なのではないだろうか。
 評価はまた「両刃の剣」という側面をもち、一方では人や組織を刺激し活性化することにもなれば、逆に萎縮させ硬直化させることにもなりかねない。研究や教育に競争原理を持ち込むことは、質の向上改善につながる可能性も否定できないが、むしろ過激な資金獲得戦争やランキング競争に堕する危険も少なくないだろう。あらゆる政策には意図とは違った副作用が伴わざるを得ないからである。
 しかし現代は「評価の時代」である。競争と効率を追求してやまない今日では、いかなる制度、組織、個人も、評価の網の目から逃れることはできなくなった。学校や大学も例外でないことは、病院や銀行や官庁が評価の対象とされるようになったことと同じである。高校生、学生、保護者、政府、企業、マスコミ等々は、みなそれぞれの立場から、それぞれの目的にしたがって、大学を評価の対象としている。
 言論の自由の原理に立つかぎり、現代社会では、この評価網を禁止したり、断ち切ったりすることは不可能である。この評価社会の構造を前提とするかぎり、我々にできる唯一の方策は、各学校が評価を避けずに真正面から取り組むことではないだろうか。
 それは外部の評価に対して、大学でなければできない評価を実施し、その結果を関係者に率直に提供することではないだろうか。学内においてはミッションを明確にし、これをいかに誠実に実現しているかを、他者に納得でき、信頼されるような自己評価を実践してみせることであろう。そして、他のランキングや市場の評価に劣らぬような情報公開を行い、大学の情報を必要とする人々に、最も大学の使命にふさわしい形で提供することではないか。大学側の評価情報の質が世間の信頼を勝ち取るのに成功するならば、他の評価はおのずから従属的な地位に引き下がることになるだろう。
 情報開示と聞くと身構える向きもあるかも知れないが、現代は情報を隠すことが、自己の弱みも含めて積極的に開示することよりも不利になる時代でもある。なぜなら隠す学校は、却って市場からの信頼を失う可能性が高いと考えるからである。まさに「隠せば逃げる顧客と市場」の時代なのである。私学の特性に配慮した評価システムの構築によって、各私学が自己の特性を闊達に発揮し、そのことによって外部の評価に対抗できるばかりでなく、私学の特性と存在価値を堂々と世間に提示し得るような評価システムが必要となっている。

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