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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.35
私学化と私立大学―第5回公開研究会の議論から

早稲田大学専任講師  沖 清豪

 さる5月9日、当研究所主催の第5回公開研究会が、「世界の私学化の潮流と日本の私立大学」と題して開催され、森 利枝研究員(大学評価・学位授与機構助教授)と喜多村和之主幹(早稲田大学客員教授)による報告と、それを踏まえての多様な質疑応答が行われた。本稿では両報告の要約とその後の質疑について概略を紹介し、若干のコメントを述べさせていただきたい。
 森研究員の報告は「世界の高等教育の私学化の展望」と題して、高等教育機関における公立機関と私立機関の違いが実は明確ではないこと、機関の財源、機関の管理経営形態、機関の有する使命といった基準によって公立と私立とを区別しようとしても実際には多様な条件が問題になって峻別不可能なこと、最終的には「私立と呼ばれる機関」「自らを私立機関と同定した機関」が私立であることなどが紹介された。
 一方、喜多村主幹は「私学化」(プライバタイゼーション)の世界的な傾向について説明し、第1に国立・公立教育機関において多くの場合保持されてきた公費負担の原則が、各国で受益者負担の原則やその他の新たな原理へと転換される傾向がみられること、第2に国立・公立教育機関における経営の改善を図るために市場原理の導入や新たな制度改革、公教育制度の変革が迫られていること、第3に例えば公設民営方式などの導入によって、従来の設置者別の設置形態の類型が不明確になってきていること、第4に公的教育機能の代替物としての私立学校が勃興しつつあること、そして第5にIT化の進展によって学習機会が多様化するに伴い、従来の非営利型機関だけでなく、営利型とも言いうる機関が高等教育に参入する構えを見せていること、などが指摘された。
 以上のような報告を踏まえて質疑応答が行われた。ここでは私が特に注目した質疑について紹介したい。
 まず報告の内容と直接関係する質問として、プライバタイゼーションを私学化とみなすことに関しての質疑応答がいくつか行われた。例えば、報告された内容をすべてプライバタイゼーションとしてまとめることは違和感があって、現在進行しているのは行政機構としての大学の崩壊とみなすべきではないのかという質問に対して、喜多村主幹からはプライバタイゼーションという用語は一般的に市場主義やコンシューマリズムの導入を意味するものであり、私学化に限定することに対して違和感があることも確かであるが、私立化という発想を導入することで、国立大学こそ高等教育の主体であるという国立大学や文部科学省の主張が実質的に崩れていることを指摘できるのではないかとの説明がなされた。
 またIT化との関連では、競争的な国際社会の中での公共性(パブリック)をどのように保持していくべきなのか、高等教育におけるIT化を進めるにあたってはアメリカ以外の諸国では経済的な面からみて国による保護が必要なのではないか、といった疑義が出されたが、喜多村主幹は、従来のメディア活用型の高等教育と比較して、IT化は必要とされる費用が格段に少ない点を挙げ、さらにIT化が高等教育の内実を変革してしまい、公でも私でもない形態の教育機会・機関が増加するのではないかと予測した。
 その他、私学化が進行するなかで国立・私立といった区別がもはや有効ではなく、設置形態別の分類そのものが現状に即しておらず、教育法制の面で公私の区別を中心に再検討が必要であること、そして変わるべき大学の分類の研究が必要不可欠であることが指摘された。喜多村主幹からは、設置形態の多様化が進行するにつれて、設置基準が現状に合わなくなっていること、私学が果たしてきた役割が正当に認められていないことへの異議申し立てが必要であること、現在の変革状況において、教育基本法や設置者負担主義について教育法学者を中心に研究が深められるべきであるとの指摘がなされた。
 最後に研究会での議論を踏まえて、今後「私学化」に関して問題となると思われる点を紹介したい。
 第1に、私立大学の内部での「私学化」がどこまで進展するかについて考えなければならない。私立大学内の民営化、すなわち事務の民間委託については、すでに一部で検討がはじめられたと報道されている。おそらくこうしたアウトソーシングも今後本格的に検討されることになる。これは単に大学事務に関する課題だけではなく、将来的には教育・授業面においても多様な形態でのアウトソーシングの可能性がある。事実遠隔教育を全国の大学で共同実施する事例や、全国的な規模で単位互換制度を導入する事例など、すでに従来の授業形態からは想定しえない事例が常態化してきている。こうした動向は基本的に大学財務の緊縮化との関連で検討されることが多くなっており、全国的な財政緊縮化の中で大学のサービス機能をどのように維持していくかが、様々な側面から検討されなければならないだろう。
 第2に、公と私との関係に関する理論の再構築が緊急に必要であろう。国立大学の独立行政法人化に関する議論は、研究会においても喜多村主幹から指摘があったとおり、現時点では国立機関の枠を超えるものにはなっていない。しかし将来的には国立大学の民営化もないとはいえない。こうした状況の中で、現在の国立大学がどのように改革されたとしても、私立大学が不利な条件を課されることのないよう、常に国立大学の改革状況を把握しておく必要があるだろう。場合によっては、国立大学が民営化された場合に旧国立大学と従来から私立であった大学とが平等な環境のもとで学生募集や研究活動の競争を実施できるような制度・条件について、具体的に検討しておく必要がある。
 第3に、日本における私立化を検討するためには、実は国立大学に関して更なる検討が必要なのではないかと思われる。研究会での森研究員の報告の背後にはナショナル(国立)ユニバーシティとは何か、パブリック(公立)ユニバーシティと何が異なるのか、という問題が意識され、その対概念としてプライベートを位置付けるという試みがあるように感じられた。例えば英国の諸大学をOECDの分類のように私立大学とみるべきか、あるいは大学運営資金の多くが公的資金に依存していることをもって「公立大学」と位置付けるかという問題も、実際には「公立大学」と「国立大学」なるものの区別を無視することはできない。ナショナルという概念とパブリックという概念の区別について、さらに丁寧な検討が必要であるように感じられた。ちなみに英国で「唯一」の私立大学とされているバッキンガム大学は、自らを大学運営に関して直接的に公的資金を受け取っていないという意味で「独立(インディペンデント)」大学と呼んでいる。こうした事例をみると、プライベートとは何かという確認も改めて必要なのかもしれない。
 最後の論点として、大学のアカウンタビリティ観の変化を指摘しておきたい。私学化が進行した場合、大学は誰に対して何についてアカウンタビリティを負うことになるのであろうか。ここでアカウンタビリティとは求められた成果を出し、その成果について説明する責任を意味する。この考え方は単純化すれば、大学は資金の提供元(通常中央政府あるいは学生)に対して、その提供された資金に応じて何らかの成果を出す責任を果たさなければならないという発想である。私学化がさらに進行していくなかで、個々の大学は誰に対して責任を負っているのか、その責任はどのように果たすことが可能であるのか、改めて検証する必要を強く意識させられた研究会であった。
 (本稿は早稲田大学専任講師の沖 清豪氏にご執筆いただいたものです)

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