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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.22
大学に国際競争力を

主幹 喜多村和之

 日本の高等教育の国際的地位や外国人留学生受け入れ政策を考える際に、重要な視点のひとつは、日本の大学・高等教育が、日本の青年や外国人留学生にとって魅力ある存在であるか、とくに教育・研究の面で諸外国の大学に比して国際競争力をもっているかどうか、ということであろう。言うまでもなく、この最も基本的な機能の質が高ければ、国内外の優秀な頭脳は自然に日本の大学に集まって来るだろうし、逆の場合であれば、彼らはもっと魅力のある国の大学へと移ってしまう可能性があるからだ。
 先ごろ発表された日本経済研究センターの『アジア・日本の潜在競争力』という報告書は、教育関係者にとって甚だショッキングな内容を示している(日本経済新聞、1月15日付朝刊参照)。これによると、日本は総合指標、IT化指標、教育指標等においていずれも順位を大幅に下げている。とりわけ教育の面での順位の低下は甚だしく、31カ国のなかで日本の順位は、1980年時の10位から90年には17位に、最近では25位にまで落ち続けており、このまま放置するならば遠からず最下位になってしまうだろう、と報告書は警告している。
 このような順位の低下の最大の要因は、報告書によれば政府の教育支出の低さで、95年のGDPに対する比率は17位、学生一人あたりのGDPに対する比率では19位だったという。しかも80年時点ではアジアのトップの教育環境を維持していた日本も、90年時点では台湾に抜かれ、最新時点では香港、台湾、シンガポール、韓国が揃って日本より上位にランクされたという。
 こうした順位が日本の実態を表現しているか否かは議論の余地があり得るだろうし、評価の指標や方法にも問題があるのかも知れない。だからこの報告書の内容を鵜呑みにすることは軽率であろう。しかし、スイスの国際競争力評価機関のIMD(国際経営開発研究所)などの毎年の評価でも、おおむね似通った順位が出ていることは、これまでも識者によってしばしば指摘されてきた。事実、この日経センターの調査もスイスのそれとは違った指標で順位づけたにもかかわらず、似たような結果が出たと述べている。
 こうした調査結果の適否を検証することも必要だが、それよりも、なぜ日本は全体的にこのような順位の継続的な低落が続いているのか、とりわけ教育や人材開発という、かつての日本のお家芸的な分野において、いかなる理由で急激な地位低下が続いているとみなされているのか、その真因を早急に突き止める必要があるのではないか。また日経センター報告書が指摘しているように、もし教育分野の低下の原因のひとつが政府の高等教育支出の不足にあるとするのならば、なぜそのような政策が続けられているのか、これからなにをどうしたらよいのか、さらなる調査と分析に早急に着手すべきだと考える。こうした作業に基づかないいかなる政策も、実効あるものとはなり得ないと考えるからだ。
 日本の低迷が一時的なものであり、日本の高等教育の質はゆるぎないものであることを願うものだが、万一こうした評価が実態を示すものであり、しかも日本の大学も政府もこれを放置し続けるのならば、外国人留学生の増加を実現するどころか、日本人の優れた頭脳を海外に失うことにもなりかねないであろう。

科研費の配分を再考


 日本の大学における学術研究を支える最大の、最も重要な資金は文部科学省の科学研究費補助金(科研費)であるが、その審査や配分の在り方について論争が行われている。この問題は実は古くて新しい問題であり、論議の対象になったのはなにも今回が初めてではない。日本の将来が研究の質の向上にかかっている今日、科研費の在り方は極めて重大な問題であるので、あえて再論したい。
 昨年暮に早稲田大学理工学部の竹内 淳助教授が、科研費の配分先の集計や分析の結果、「科学研究費は私立大学軽視だ」とする意見(朝日新聞論壇、平成12年12月5日付)を発表された。この問題に対しては、筆者も本欄でもとりあげ、「公正な研究費配分を――国立偏重から実力主義へ」と題して、メリトクラシーに基づいた科研費の在り方の検討を訴えたところである(本紙、平成12年12月20日付)。これに対して「私大軽視論は心外」とする反論(朝日新聞、1月26日付)が、住友病院院長の豊島久真男氏によって科研審査員の立場から寄せられている。その趣旨は、要するに科研の審査は申請者の所属にかかわりなく純粋に学術的価値に基づいて選定が行われているし、審査員の構成は学会の推薦に基づくものだから、私大軽視にはあたらないというものである。
 もっとも、そう主張される豊島氏も「(学会という)その大もとのところで、学術上の見識とともに年齢や性別や所属大学の偏りをもたらさないような工夫も必要であろう」と付言しておられるから、国立大学に偏った審査体制の実態を一部は認めておられるのであろう。
 しかしここで求められているのは、このようなデータに基づかない、科研審査員の公正性を強調するための、科研費の運用や配分方式の建前的な説明ではない。
 科研費が純粋に学術的な価値に基づいて選定されているというのならば、それでもなお、国私格差といわざるをえないような補助金の採択率や金額の膨大な格差が出ているのはいったいなぜなのか。つまり従来の国の研究費配分方式の構造的な在り方が問われているのである。もし豊島氏の言われるとおりだとすれば、毎年発表される国立大学や国立研究機関への配分額の過度の集中は、私立大学の研究が学術的価値において劣っているから配分額も低くなるのは当然ということになる。
 私学の研究能力の質や水準が総体的に国立大学のそれよりも明らかに実力として低いということが実証されているのならば、研究というものはメリトクラシーの原理で評価されるべきものだと信ずるから、研究者の自発的な申請を建前としている科研費の場合、ある意味で当然のことである。しかしながら、日本全国の450校を超える私大のなかで、たとえば私大で最高額の科研費を得ている慶應義塾大学が、一地方国立大学のそれにも及ばないという事実は、客観的かつ科学的に説明できるのだろうか。
 問題は、公正に運営されているはずの科研費の配分が、なぜ長年このような私学軽視とみられざるを得ないような結果になるのかを説明することである。そこには構造的ともいうべき問題があるのではないか。私学の側も、国民の税金から支出され、国私に共通に実力によって配分されるべき研究費をもっと積極的に申請して、その成果を国民に還元するよう努める必要がある。と同時に、文部科学省や学術振興会のような科研関係者にも、透明性のある情報公開とわかりやすい説明責任(アカウンタビリティ)を求めたい。当研究所も厳正なデータ分析を通じてこの問題を追究していくつもりである。

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