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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.10
私学政策の在り方

研究員 杉谷祐美子

 本欄で既報の通り、先月18日、当研究所主催による第2回公開研究会「私学政策の在り方を点検・評価する――私大の助成と規制」が開かれた。教育経済・財政を専門とする二名の問題提起者が、私学助成を中心としてこれまでの私学高等教育行政の実績を評価するとともに、今後のあるべき方向性を示唆したのである。
 田中敬文研究員は、個々の私立大学が創意工夫を凝らした自由な経営を行えるように規制改革が必要であり、私立大学が公共的使命をもつ以上、奨学金制度をはじめとする財政支援を拡大すべきだと主張した。一方、NPO(非営利組織)として見た場合の私大は比較的恵まれた経営条件にあるとも指摘し、それを有効に活かすと同時に、支援を受けるからには情報公開にも努めなければならないと苦言も呈していた。
 これに対して、これまでの私大政策を統制の強弱と助成の大小の両面から四類型に分類して評価した市川昭午客員研究員は、量的拡大を遂げた私立セクターは公立セクターと機能(私事性と公共性)が接近した反面、私学間における格差が広がったと考える。その結果、私学政策と一口にいっても一律の政策をとることは難しく、必然的に多様化せざるをえないと述べた。そして、今迄も不明瞭だった私学政策がその基本方針を確立するためには、行政・私学双方が私学の理念を明確にする必要があり、ひいては国公私を含めた大学政策を確立するうえで何よりも大学の理念が求められると言葉を結んだ。
 その概要については問題提起者自身の論稿(9月27日・10月4日付、本欄)に譲りたいが、視点は異なるものの、どちらも現在の私学が直面している本質的な問題を提起し、行政の責任と個別大学自身の責任の両方を問うていた。その厳しい言に喚起され、その後の討論においては意見が百出した。問題提起者との議論の応酬はほとんどなかったが、私学関係者から元官僚に至るまで多様な立場の参加者から様々な意見が出されたことで、論点はより広がりをみせたといえる。その内容を一参加者であった筆者の目から見てまとめるならば、およそ三点に集約できるだろう。
 第1は、私立大学の公共性と経費負担の配分の問題である。私立大学において高等教育機会を享受するということをどのようにとらえるべきか。これについては、大学・短大への進学率が5割に近づき、なおかつ学生の約八割が私立大学に在籍している現状を踏まえれば、高等教育はもはや生活水準の一部であるとの前提に立ち、私立大学が公教育の重要な一環を担うものとして位置づけられるという点で、参加者の間にはほぼ共通理解が得られていたように思う。したがって、国が「助成」するという発想から、国庫負担という形で国が「責任」や「義務」を負うという考え方に切り替わるべきであり、既に1971年に中教審答申が出された頃には、そのような見解が文部省内でもあったとの話題も上った。
 また、このように私立大学は公共性と社会的便益をもつものであることから、その経費は国家、設立責任者、受益者の三者で均等に負担して当然だとする意見も提案された。あるいは、もう一つの均等負担策として、直接の受益者たる学生(もしくは保護者)と、研究費、人材養成費、目的税のいずれの名目にせよ、間接的受益者の社会・企業等から、そして究極の受益者である国家によって、三者が均等に負担するべきだとの案も提示された。後者は私立大学協会のかねてからの要望である。たしかに、これらの提案は正論であり理想的ではある。しかしながら、私学助成の現状を鑑みると、国家財政に3分の1を依存することは到底難しく、仮に私学全体としてこの水準を達成できたとしても、今後個々の大学にそれが均等に配分されるとも限らない。むしろ、特別補助などの競争的経費の増大が象徴しているように、情勢はますます厳しさを増すのではないかと筆者はみている。
 そこで、第2の論点、公費の合理的配分とその基準が大きな問題となってくる。少なくとも国立大学に限ってみれば、資源配分と大学評価は否応無しに結びつけられていくと予想される。会場からは第三者評価機関に対する指摘はわずかにとどまったが、前回の公開研究会で問題提起されたように(9月13日付、本欄など参照)、公的補助を受けるために、第三者評価機関による評価が私立大学にも適用される可能性は少なからずあるだろう。ある意見者は、行政の手法が事前の管理から事後のチェックに移行する場合、いかに自主的に質のコントロールを行うかが問題となろうが、それは現在の大学評価でもアクレディテーションでもよいと述べた。しかし、事態はそんなに甘いものではない。質のコントロールを目的とした大学評価が、いつしか財政配分のための評価というもう一つの役割を付加されてしまう危うさは否定できない。そうかといって、市場原理だけに委ねられてしまうのもまた厳しい。いずれにせよ、早晩大学は試練の時代を迎えることになるだろう。
 元文部官僚は公費財政負担の合理的配分に関して、文部省が大学を選択するのではなく、学生が選ぶ方法しかないだろうと述べた。また、もう一人の元官僚も、将来的には私学への経常費助成は廃され、育英奨学金と科学研究費の2本立てになると予測する。つまり、一定の能力水準以上の学生が奨学金を獲得し、そうした持参金つきの学生を各大学がどれだけ集められるかが勝負となるわけである。そうなれば、独立行政法人となった国立大学も学校法人も同様に、いかにして優秀な学生を惹きつけるか、国公私を巻き込んだ競争的環境が生ずる。したがって、独法化は私学とは決して無縁な問題ではないのである。
 ここで、第3の論点となった国立大学の独立行政法人化問題が浮上してくる。今回のテーマは「私学政策」であったため、問題提起者からも直接国立大学にふれるような議論は少なかった。だが、会場からは国立大学との関係で私学の問題を考えるべきだとの声も上がり、とりわけこの独法化問題に意見は集中した。
 元ジャーナリストは、驚いたことに文部省いわく国立大学の独立行政法人化は私立大学とは何ら関係ないというが、私立大学の助成策の問題や国立大学の国費の問題を取り上げれば無関係で済まされないことは明白だと指摘した。先にも述べたように、資金の獲得をめぐって国公私を巻き込んだ競争となった場合、一体私立大学にはどのような未来が待ち受けているだろうか。
 最後に問題提起者から、独法化は一部の国立大学の生き残り策ではないかとの鋭い批判があった。ある国立大学の学長が、独法化した場合には定員を増大すると言っていたそうだ。授業料の水準がこれまでと同様に維持されれば、当然その大学に学生は集中し、周囲の私立大学にとっては大打撃となるだろう。しかし、国立大学の独法化がそうした脅威をもたらしかねないことについて、現在の私立大学が果たしてどれほど自覚的であるか。会場では、元文部官僚自らが、これほど国私間に財政的格差をつけておきながら同じ土俵で「競争的環境」だとはよくいえたものだと述べているのである。独法化された場合、表面上は「公正な競争」がまかり通ってしまう危険性を見過ごしてしまってよいものだろうか。
 高等教育の理念はまず大学関係団体のアクションから生み出していくべきではないか、との発言が心に残っている。私学のみならず国立も含めた高等教育政策を考えるべきことはいうまでもないが、各大学、さらには私学団体そのものの自律性や在り方も見直す時期に来ていると思われる。

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