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アルカディア学報

アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)

No.9
私大政策の点検・評価 ―助成と規制―

客員研究員 市川昭午

 大学の教育・研究について点検・評価の必要性が叫ばれるようになって久しいが、それより先に大学政策の点検・評価がなされていなければならない。私大政策で真っ先に問われる必要があるのは、私大に対して基本的に行政がいかなる姿勢で臨むべきかということである。私学に対する国の政策としては容認主義と禁止主義とがあるが、わが国はいうまでもなく容認主義をとっており、そこから私学政策の必要性が生まれる。
 現代国家の教育行政活動は規制・助成・事業の3種に分類されるが、私立学校の教育事業活動は行政による規制と助成の対象とされているだけでなく、国・公立学校と補完・競合する関係にある。規制・助成および補完の3機能について近年の行政改革は再検討を求めている。規制の緩和、民間の自立自助の促進、民間活力の活用などがそれである。
 こうした改革原理は教育行政にも適用されるから私大政策もその影響を免れず、一層の規制緩和が図られる反面、助成は抑制基調となろう。一般に私学に対する政策は規制と助成に大別されるが、この規制の強弱と助成の大小を組み合わせることにより、放任主義、統制主義、育成主義、同化主義という4つの類型に分類することができる。
 わが国における私学政策は戦前にあっては統制主義が基本とされ、私学経営に対する監督は厳しく、それに引き換え補助金などは極めて少なかった。戦後は学校教育法および私立学校法の制定を通じて文部省の監督が著しく制限されるとともに、「私学の自主性」尊重が強調され、「私学行政消極の原則」とでも称すべき傾向が形成された。
 しかし、この放任主義から1970年代初頭に育成主義ないしは誘導主義とでも称すべき方向に180度の転換が図られた。レッセフェール的な対応が私学の急激な膨張と経営危機の到来をもたらしたことから、私学助成が緊急の政策課題になり、経営費補助の本格化、振興助成法の制定、新増設の抑制などの施策が行われた。
 しかし、80年代に入るとこの政策転換は補助金の伸び悩み、補助率の低下などから挫折し、90年代に入ってからは多様化促進の名の下に大学設置基準の改定などの規制緩和政策が採られるようになった。これらは積極的な育成主義というよりも消極的な救済政策とみられるが、他方で経常費補助金における特別補助の割合を急激に増大させているなど、放任主義と統制主義、救済主義などが混在しながら若干勢力を戻してきている。
 わが国の教育政策は初等中等教育中心、国公立学校中心であって、高等教育政策、特に私大政策は不在なような状況が続いてきた。それでも戦前は設置者行政により政策目標を実現できたが、戦後は私大のシェアが増大したためそれが不可能になった。そのため、高等教育政策における私大政策が重要な課題となるに至った。
 その中心は私学の圧倒的なシェアをどうするかということである。欧米先進諸国との比較で考えれば民間部門の縮小と公共部門の拡充を図るべきだという見解にも一理あるが、これまでの経緯からみて実現の可能性は乏しい。私大の新増設抑制、大都市集中の是正、国公立の拡充による公・私均衡の回復などを内容とした高等教育計画は実質的に70年代後半の第1次計画だけで頓挫し、長期的に政策目標は達成できなかった。
 となると、結局私大優位の現状を容認するのもやむをえないとし、むしろそこに積極的な意味を見出していくことが選択肢となるが、その場合にはそれに伴う施策が講じられる必要がある。特に国公立と私立との間にみられる管理・財政と機能との間の不整合をどうするかが、重要な政策課題に浮上してくる。それは設置者が異なる公共部門と民間部門との間で、機能(公共性と私事性)が接近してきた結果である。
 公私間格差の是正策として有力な公費支出の均等化論は学習者の性格が接近したことに注目するもので、その限りでは一理あるが、設置者の違いを無視している点で問題がある。均等補助論は私立大学の国立大学化を招く点で結局吸収主義ないしは同化主義を意味する。それは私学にとって望ましくないだけでなく、財政的にも不可能である。
 それゆえ、これからの私大政策は学習者の接近と供給者の違いの双方に着目した複眼的なものであることが求められる。供給者側に注目するとき、しばしば出てくるのは私学二分論である。これは既に私立学校法制定当時から存在したし、中教審による四六答申も私大の一部に限って同化政策をとろうとするものであった。
 46答申の私大政策は陽の目を見るには至らなかった。70年代に私立学校振興助成法の制定や私立学校法の改正により実現したのは、全私学を対象に経常費の2分の1補助を努力目標とする部分的補助であった。同時に前述した私学を含めた高等教育計画が策定された。こうした政策も財政の逼迫などから80年代以降しだいに行き詰まりとなった。
 90年代以降は私大の多様化が一層進行しただけでなく、大学審議会や文部省によってそれが容認され、さらには奨励されるようになった。その結果、公私の接近とは逆に私学内部の格差が拡大した。それに対応して私大政策もまた多様化が不可避となることから、前に失敗に終わった部分的同化政策が復活してくる可能性がある。一部の私学は同化政策の対象となり、残りの大部分は放任主義ないしは救済政策に委ねられることになる。そうした政策が採られることになれば、恣意的な種別化に代わる線引きの手段として必然的により客観的な外部評価が要請されよう。
 私学政策の基本方針が不明瞭なことは戦前から専門家によって指摘されてきたが、私大側も私学教育の理念・本質の究明をないがしろにしてきた。私学政策が確立するためには、行政・私学双方が私学の理念・私学教育の本質を明確に把握することが先決要件となる。私学とは何か?私学教育は公教育か私教育か?そもそも公教育・私教育とは何を意味するのか。教育基本法にいう「公の性質」( public nature )、憲法が規定する「公の支配」( public control )とは何を指すのか。私立学校法の法的性格は「特許」か「許可」か「認可」かなど、検討されるべき課題は多い。
 これに加えて近年は国公立を含めた大学政策の基本方針が不明確である。高等教育の大衆化、普遍化に伴って高等教育ないしは大学教育が実質的に中等後教育ないしは第三段階教育と化してきている。それ自体は理由のあることであるが、そうであればあるほど高等教育の本質、大学の理念が求められる。それは “より高次の教育( higher education )”、“真の大学( real university )” とはいかなるものかということである。
 今日大学審や文部省によって大学改革が性急に進められているが、部分的な改正案が次から次へと打ち出されるだけで、全体的な構図はいっこうに明示されない。大学改革は管理運営の円滑化だけが求められ、効率のみが追及されている嫌いがある。むろん現在の大学改革でも “ 個性輝く ” とか “ 卓越性を求めて ” など、理念らしきものは掲げられているが、いずれも内容が実質を欠いている。他方、各大学は追加財源を求めて空虚なミッション・ステイトメント作成に狂奔しており、大学改革を覆うニヒリズムは否定しがたい。今こそ大学政策には価値観の確立と改革の基本理念が必要とされよう。

 (本稿は、去る9月18日の公開研究会で市川氏が発表された内容の骨子をご自身に執筆いただいたものです)

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