平成26年10月 第2581号(10月1日)
■改革の現場
ミドルのリーダーシップ <70>
改革断行で財政健全化
破たん寸前大学の再生モデル
平安女学院大学
平安女学院大学は、1875年、大阪川口に設置されたミッションスクール「エディの学校」から始まる。1894年に平安女学院に改称、翌年京都に移転。2000年に平安女学院大学をびわ湖守山キャンパスに開学するも、2005年には高槻キャンパスに統合。その後、国際観光学部、子ども学部を開設する。「私学経営」2014年4月号に詳説があるように、破たんの一歩手前に立たされたが、山岡景一郎理事長・学長の卓越した経営手腕により黒字化する。改革のプロセス、そして、山岡理事長・学長の経営哲学を聞いた。
数々の難問を切り抜けてきた大胆な経営手腕、メディアで読む多少過激とも取れる物言いから、「怖くて厳しい人」というイメージだったが、学長室には学生たちと撮った写真が飾られ、取材では終始笑いが起こる雰囲気。失礼ながら「好々爺」という言葉が良く似合う。具体的な改革についてはこれまでにも多く語られているので、ここでは取材の中で飛び出た山岡理事長・学長の言葉を紹介したい。
まずは衆議独裁から。「私の経営スタイルは『独裁』です。ただ、経営者の考えを現場に押しつけるワンマン経営とは違う。現場から様々なアイデアをもらって、皆で検討して、最後は私が1人で責任を持って決断する。だから衆議独裁。現場の教職員は私の意見に対してよく批判や反論をします」。
実際、同席した職員は萎縮などせずにどんどんと発言する。カリスマでありながら、現場の反論を厭わない。だから改革は進む。
「指示待ちにならないよう、教職員にはもっともっとアイデアを出せと、常にはっぱを掛けます。「今日は何かないか、アイデアはないか」。日々の問いかけの中で、教職員は明らかに変わってきますし、変われない人は辞めていきますから、大学に残った教職員は変化した人だと言えます」。
京都を中心に政・財・産業界等に顔が広い山岡理事長・学長自身から出されるアイデアも膨大だ。例えば、京都市の旅館組合やJR東海と連携して発案して、現場の教職員に引き継ぐ。
「企業等とのコラボでは、学生のプロジェクト学習やインターンシップのネタにしていきます。学生には『おもてなし』の流儀を身につけさせているから、社会人に負けないしっかりとした対応ができると自負しています。
最近は、千玄室裏千家大宗匠・前家元15代に名誉学院長に就任頂き、京都の教育文化発展の中軸としての活動をさらに強力に推進しています。教育に、茶、華、碁、着物の着付けなどを取り入れて、日本のリベラルアーツとして特色を出していきたい」。
大学改革の肝は。「改革は“勢い”です。裁判も多数やりましたが、今後、18歳が急減する待ったなしの状況で、裁判を恐れてなどいられない。また、危機を突破するには腕力も度胸も必要です。例えば、理事数削減の際には、1人ひとりの理事と対話して、これまでに何をやったか、改革できる自信があるか、できなければ辞めてもらう、と問い質しました」。
京都の大学でも高額だった給与は3割カットした。「『住宅ローンが払えない』と相談に来た職員は、いったん退職させて退職金を支払ったうえで再雇用しました。給与カットしても学校が好きだと言ってくれる教職員は残るし、逆に高給目当ての人は余所に行きます。以前の職員組織は、教員からの指示待ちでしたが、私が赴任してからはそれはありません。今では教員と職員が一体となって協働しています」。
実際、多くの教員は、研究室ではなく職員室で仕事をすることが多い。職員は、臨時教員として自分の領域のことを教えることができる(大学設置基準上の教員ではない)「特別科目教員制度」を創設するなど、教職の垣根は低くなっている。
教員評価について。「シラバスをくまなく点検すれば、どのように授業をしているか分かります。改善が全く見られない、去年と同じ授業だと自動的に評価が下がる給与体系にしています。査定は学部長、学科長に聞きながら、最後は私が決めます。これも衆議独裁。当然、年齢給等はありません。ただし不満や抗議があればいつでも私のところに来なさいと。それで給与を変更した職員もいます。
役職が仕事を保障するのではなく、各職員がそれぞれの判断で、自分で考えて仕事を創る。そうなると実力がある人に仕事が集まる。それを皆で評価する。ある意味で本学は実力主義です」。
これだけカリスマがあると、後任は大変では。「後任人事は全く考えていません。全職員には経営感覚を持って仕事をしなさいと言っておりますが、どう引き継いでいくかはその人次第。きれいにレールを引けばうまくいくというわけでもありません。後任がうまくやってくれると信じるだけです」と、あくまで現在に全力投球する姿勢だ。
取材後日、山岡理事長・学長から文香を忍ばせたお手紙が届いた。京都人の「粋(すい)」の心を実感したひと時だった。
衆議独裁、皆で論議して、トップが決断し、断固やり抜く
桜美林大教授/日本福祉大学園参与 篠田道夫
平安女学院は創立から140年近く、日本で初めて制服にセーラー服を採用するなど歴史は古い。しかし、大学は2000年から。国際観光学部、子ども学部の2学部を置く。マナー、スキル、ホスピタリティの3つの資質を身に付けた「貴品女性」の育成に向け、小さな女子大の強みを最大限に生かす“コンパクト・グッドネス大学”のブランド構築を目指す。顔の見える教育を重視、クラス担任制を敷き、上級生がチューターとなり後輩の個別相談にのったり、学生個々の状況把握のための学生評価シートを作成、活用する。
特に就職に力を入れ、全ての学科の就職率が2年連続100%。就職講座は講義形式ではなくディスカッションやワークスタイルを取り入れた実践的なものだ。個別相談では、学生個々の背景を理解して相談業務ができるよう教職員がチームを組み、キャリアサポートセンターだけでなく、クラス担任、教務、実習担当教員や実習指導室などが連携・協力し、学生に合った支援を行う。語学力を付ける1年間の留学プログラムも重視、卒業すれば返還免除の120万円の奨学金を支給する。
だが、大学設置直後は苦難の連続だった。毎年5億以上の赤字、隠れた数十億円の借金を抱え経営危機に直面する。収入に比して高過ぎる人件費、高額退職金、理事会が機能せず、組合要求に妥協し京都一の高額給与の法人になっており、2002年、人件費比率は81.4%まで上がった。
2003年に経営コンサルタントの山岡氏が理事長・学院長に就任、まず理事の人数を20人から10人へ、最終的には5人にまで削減し、意思決定の迅速化と責任体制を確立。専任教員も段階的に77人から47人に減じ、非常勤は175人いたものを31人まで減らした。
給与も30%カット、定期昇給や賞与、諸手当も廃止した。組合交渉は数か月にわたって難航、最後の団交も決裂、廃校を宣言し組合側も合意した。苦渋の決断だったが、誰かが憎まれ役を引き受けないと沈没してしまうとの強い思いだった。翌2003年以降、一気に黒字化、昨年は人件費比率54.5%、帰属収支差額比率+2.6%になり、財政のV字回復を果たした。
守山キャンパスからの撤退、高槻キャンパスへの統合も決断した。
2005年からは学長、学部長は選挙制度を廃止、理事長・学長の任命制に。経営責任を持つ理事会に人事決定権がないのがおかしいと、教授会が持っていた教員採用等の人事権を理事会に移した。学術的審査は教授会にしてもらう。平成10年の大阪高裁の判決「学問研究のゆえに当然に教授会に人事の権限があるとは認められず…教授会の決議を経なければならないとは解しがたい」も追い風になった。
2004年からは功績評価に基づく年俸制を導入、職務記述書に基づき、最終、理事長が評価、決定する。理事長の補佐体制強化のため理事長・学長室(現在の学院統括室)も強化した。2007年から事務局のフラット化を実施、部長職はマネージャー、課長はチームリーダー、専門職管理者はスーパーバイザーとし、縦割りの弊害打破、幅広く職務を担当することで業務全般に精通させ、教職対等の関係も強化した。
学部教授会は2学部合同の全学部教授会として行い学長が直接統括するが、学科会議も重視し丁寧な議論を行う。外からはワンマン経営と言われるが、衆議独裁、ボトムアップとトップダウンの併用、みんなで議論、提案も批判もOK、ベストの案を最後は理事長が決め、決めたことには全員が従い、迅速に実行することを心掛けている。企業再生を多く手掛けてきた理事長の豊富な経験を基に、今日的テーマであるガバナンス改革の数々の手法を先取りし、倒産の危機を乗り越えた、破たん寸前大学再生の一つのモデルと言える。
それでも、なかなか定員充足には至らない。大規模な広告・宣伝をしなかったことに加え、学部構成が連続的に変わって定着せず、合格水準を下げなかったことも影響している。大幅な定員割れが続いていたが2012年からは反転、回復傾向となってきた。就職率100%など丁寧な教育の成果が徐々に浸透して来ている。
2012年から始めたプラス15プロジェクトは、学科ごとに15人ずつ入学者を増やすという取り組みで、教員・職員上げての地道な努力も成果につながっている。財政・経営再建から教育・大学改革へ大きく前進、今後の成果が期待される。