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平成25年12月 第2546号(12月4日)

高等教育の明日
 われら大学人 〈41〉
 米総局長から「さかな記者」に元朝日記者で仙台大学教授
 高成田 享さん(65)

 何ともうらやましい新聞記者人生である。定年後に、やり残したことを実現させるなんて。朝日新聞のアメリカ総局長、論説委員を歴任した高成田 享さんは、「さかな記者」になるのが夢だった。定年を機に、2008年、宮城県石巻支局長になった。魚の話題や調査捕鯨のことなどを書きまくった。石巻支局長を2度目の定年で辞めた“卒業旅行”でパリに出掛けている最中に東日本大震災が起きた。大震災から1ヶ月後の2011年4月から、仙台大学(朴澤泰治学長、宮城県柴田町)教授を務める。大震災では、石巻の取材で知り合った人のなかには亡くなった方も。すぐに、大震災で親を亡くした子どもたちを支援する特定非営利活動法人「東日本大震災こども未来基金」を自ら立ち上げた。記者時代のこと、定年後のこと、大震災、大学のことなどを尋ねた。実は、高成田さんには、まだやり残したことがあった。

定年後、やり残した夢を実現
東日本大震災でこども未来基金 親を亡くした子を支援

 1948年2月、岡山市で生まれた。父親が銀行員だった関係で名古屋、福岡など全国を転勤。「小中学校は東京でした。子どもの時の夢?父がサラリーマンだったので、サラリーマンになるかなと思ったり、外交官になって外国に行ってみたいと思ったり…」
 東京都立小山台高校から1浪して67年、東京大学文科二類(経済学部)に進んだ。「大学紛争が激しかった時代で、授業にはあまり出なかった。デモに参加したりしたけど、水俣病など公害病含め社会問題にめざめ、ジャーナリズムの世界に入りたいと思った」
 朝日新聞は「補欠入社です」と笑った。「受かるとは思わず、朝日1社だけ受験、見事に落ちたので、内定を取っていた民間会社に入るはずでした。8月になって、記者が足りないので追加入社させるという知らせが届きました。運がよかった」
 新聞社は入社すると地方支局勤務がある。「山形支局に2年、静岡支局に4年いました。山形ではサツ(警察)回りで、支局長から『行く先々で土地を愛せ』と言われました。こっちは土地の女性を愛してしまって、それが今の妻です」
 「静岡支局が一番楽しかった」という。「遊軍記者としてマグロの焼津を担当。『さかな記者になりたい』と本社に希望を出していたくらいでしたから。小さな漁船に乗ったり、漁港や漁業組合などを訪ねたり、漁業や地域の話題を記事にしました」
 地方記者にとって、本紙の社会面に記事が載るのは勲章だ。「マグロのことを書くと社会面に載るんです。日本の商社がマグロ漁船を“一船買い”した話とか、マグロを求めて日本の漁船が地中海に進出した話題が社会面に載りました」
 本社に上がることになった。「社会部希望でしたが、経済部というのでがっかり。自分の記者人生は終わりと、思った」。経済部では、証券、繊維化学、大蔵省で国際金融、日銀で金融問題…と主要なセクションはほとんど回った。
 海外特派員も2度、経験した。「87年からワシントン勤務で日米の貿易摩擦、次期戦闘機(FSX)問題などを追いかけました。98年からアメリカ総局長になり、9.11もたまたまニューヨークに滞在していて遭遇しました」
 この間、96年から97年までテレビ朝日の「ニュースステーション」のキャスターを務めた。テレビの世界は「当初、顔をさらすことに抵抗感がありました。わかりやすく伝える面白さや、新聞にはない臨場感を味わえたのは面白かった」
 そして、定年。石巻には、「シニアスタッフ」として赴任した。「新聞記者としてやり残したことは『さかな記者』になることでした。石巻では、漁村や魚市場、漁業組合、鮮魚商などを訪ね歩きました。サンマ船、サバ船、底引き船などいろんな漁船に乗りました。調査捕鯨の取材では沿岸捕鯨船にも同乗しました」
 東日本大震災の被災地は、かつて取材で赴いたところだった。「亡くなった方もいるし、父母を失い、漁船を津波で流された人もいます。水産加工の工場も、鮮魚商を営んでいた人も壊滅的な被害にあいました」
 同年4月から翌年2月まで政府の東日本大震災復興構想会議委員を務めた。「民主党の菅政権が立ち上げましたが、中長期の本格的議論を始める段になって委員の意見は官僚によって押さえこまれました。野田政権は別の委員会を設置して…」。言葉少なだった。
 力を注いだのは、「東日本大震災こども未来基金」。「女川の中学の先生からの訴えがきっかけでした。東日本大震災で親を亡くし、厳しい学習環境におかれている子どもたちがいます。彼ら彼女らが学業を続けていけるように、経済的な支援を行なおうと思い立ちました」
 被災地の小学校、中学校、高等学校の学校長から推薦された161人の児童・生徒全員に対して、高校を卒業するまで、月額2万円を支給。2012年3月には17人、13年3月には18人の支給を受けていた高校生が卒業したため、13年度支援している児童・生徒は126人。
 いま、被災地の石巻はどうなっているのか。「2週間に1度は石巻に出掛けて、魚に関係する人たちに会っています。新しい船を作って漁場に出たり、水産加工の工場を再建したり、徐々に復興に向かっています。とにかく魚が旨い」
企業スポーツ論を講義
 仙台大学教授になったのは?「山形支局時代に知り合った友人が仙台大学にいて、誘われたので応募しました」。大学で担当する科目は、企業スポーツ論とスポーツとマスメディアなど。
 「前者は企業がスポーツとどう関わってきたかを、後者はスポーツとメディアは持ちつ持たれつの関係で教えています」
 今の学生は、自身の学生時代に比べてどうですか?「あまり授業に出なかったので偉そうなことは言えませんが、授業中に私語が多い。ときどき、うるさいと注意するが聞いてくれない。
 少子化の時代に育ったせいもあるのか、何でも誰かがしてくれると思っている。水飲み場に連れて行くだけでは駄目で、ストローをくわえさせないと、水を飲んでくれないという感じ。自ら動くことの大事さを教えていきたい」
 学生に言いたいこと。「これから、どう生きていくのか、もう少し先を見てほしい。希望だけでは駄目で、希望を叶える方法論を考えて、急ぐことはないので、一歩ずつ歩んでいってほしい」
「東北こども博」に尽力
 2011年10月、「東北こども博」が仙台大学で開かれ、毎年、この時期に行われる地域イベントになった。被災地の子どもを元気づけようと日本玩具協会が企画、相談を受けた高成田さんが仙台大学を紹介した。
 今年は、大学や地域の団体などによるプログラムも加わり、2日間で1万8000人を超える入場者でにぎわった。「地域に開かれた大学の象徴として、こども博を発展させていきたい」と話す。
 まだやり残したことのひとつは、東日本大震災こども未来基金。今年10月から小学校1、2年生31人の支援が決まった。「彼ら彼女らが高校を卒業するまで12年間、理事長として責任を持って見守っていきたい」
 自著「こちら石巻 さかな記者奮闘記」のあとがきには、美空ひばり、北島三郎、鳥羽一郎、八代亜紀らの歌う演歌の歌詞が並ぶ。海外特派員を経験した記者には似合わない気がしたが、こんな文を読んで思い直した。
 〈八代亜紀の「船唄」を聴いていると、あぶったイカは、しみじみとほろほろと酒を飲む「神事」のための「神饌」のように思えてくる〉
 まだまだやり残したことがある高成田さんの志を支えるのは、明るい南ではなく厳しい北の街や海を歌う演歌なのかもしれない。さかな記者は、同じ北の街で大学教授に変わったが、自らの対象に向ける眼差し、愛情は同じように映った。

たかなりた・とおる  1948年、岡山県に生まれる。都立小山台高校から東大経済学部へ。71年、朝日新聞に入社。山形、静岡支局を経て本社経済部へ。アメリカ総局長、論説委員を歴任。定年を機に、2008年、宮城県石巻支局長い通信部記者に。現在、仙台大学教授、特定非営利活動法人・東日本大震災こども未来基金理事長。農林水産省・太平洋広域漁業調整委員会委員。共愛学園前橋国際大学、東京農業大学の客員教授。著書に、「ディズニーランドの経済学」(共著、朝日文庫)、「さかな記者の見た大震災 石巻讃歌」(講談社)、「話のさかな」(共著、荒蝦夷)、「こちら石巻 さかな記者奮闘記」(時事通信社)など。


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