平成25年9月 第2537号(9月25日)
■高等教育の明日 われら大学人〈39〉
学長を退くことになり最終講義を行った東京都市大学長
中村 英夫さん(77)
研究者として、教育者として、そして国土政策の泰斗として大きな足跡を残して学長を退くことになった中村英夫東京都市大学学長の最終講義が8月末、同大横浜キャンパスであった。中村さんは、東京大学工学部を卒業後、東京工業大学、東大工学部で教鞭をとり、東京都市大学の前身の武蔵工業大学教授に。2004年から同大学長を3期9年務めた。この間、系列の東横学園女子短期大学を統合、大学名を東京都市大学に変えるなど、6学部16学科を擁する総合大学に発展させた。最終講義のテーマは、「大学生活50年を振り返って」。教職員に交じって、東大、東工大の教え子ら約400人が詰めかけた。最終講義は、自分史にとどまらず、日本の国土開発の歩みとも重なった。最後に、「これからも国土政策において、お役に立つことがあれば関わっていきたい」と述べると、聴衆たちからひときわ大きな拍手を浴びた。
研究、教育、国土政策に足跡
教え子ら400人が受講 総合大学化に力尽くす
「新島襄の言葉に『良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ望テ止マサルナリ』というのがあります」
最終講義は、同志社を創った新島襄が最晩年(1889年)、療養に励む東京から同志社に学ぶ学生の横田安止に送った手紙の一節から始まった。
中村さんは、1935年、京都・伏見に生まれ、中学・高校と同志社で学び大きな影響を受ける。18歳の時、上京して東大教養学部理科一類に進む。「当時、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞で物理が人気で、はじめは物理をやろうと思っていましたが、周りには物理をやるに値するのがいっぱいいるし、電気や機械工学科も難しく、結局、土木工学科に入りました」
1958年、東大工学部を卒業、帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)に入社。「当時、東京に地下鉄は銀座線(戦前に開通)と丸の内線の一部しかありませんでした。国道含め日本のインフラは極めて劣悪な状態でした」
3本目の地下鉄、日比谷線の工事に携わり、人形町工区の事故で、工事用の鉄材が、頭部に当たり大怪我。「ヘルメットに救われました」と、壊れたヘルメットの写真をスライドで見せた。
その後、大学に招かれ、助手として研究者の道を歩む。1962年、東京大学生産技術研究所の助手に。「糸川英夫博士のロケットで知られる鹿児島・内之浦の東大ロケット基地の設計・工事にもチーフとして携わりました」
66年、東大工学部助教授になる。解析写真測量の研究に取り組み、道路や鉄道などの建設を急ぐ当時の社会的なニーズに応える研究を行なった。「航空写真による測量と電子計算機による処理で、高速道路のような道路設計を楽にできるようにしようとしたものでした」
67年、この研究が評価されドイツのシュトゥットガルト大学に客員講師、客員教授として迎えられる。ドイツで研究や多くの講義に携わった後、帰国、70年、東京工大工学部社会工学科の助教授に。前年の69年には東大紛争があった。この新分野の学科で経済学や社会学など他の専門分野の研究者と交わる。
77年、母校の東大に戻り、東大工学部土木工学科の教授に。「これまで学んだ測量学とシステム分析、そしてドイツで体験した効率的な美しい国土、これらの知識をまとめ、土地利用の問題に研究の焦点を合わせ、コンピュータを使って土地利用交通モデルを作りました」
80年代には、東南アジア各国などの開発援助のため交通計画の調査を数多く行った。85年には再び、ドイツに滞在。帰国後は政府の国土審議会、運輸政策審議会、社会資本審議会などの各委員に。道路公団の民営化にも携わった。
東京工大時代の教え子に、東京都市大学講師の角田光男さんがいる。「多くの大学や外国での経験と多様な人々とのつき合いが地域計画、国土計画という広汎でスケールの大きい場での活躍につながったのではないでしょうか」
94年に土木学会会長に。翌95年に阪神淡路大震災が起こる。「あれ程まで壊れると思わなかったものが現実に壊れた。調査と復旧に学会のメンバーと共に従事、その成果はその後のインフラの設計にも取り入れられました。それもあって、東日本大震災では高速道路や新幹線に極端な被害は出ませんでした」
96年に東大を退官、運輸政策研究所の所長となり、国内外の若い研究者を育てる。97年、武蔵工大環境情報学部の教授になる。「富士見高原での合宿、研究室での卒業コンパなど、女子学生も多く、楽しい教授生活でした」
2004年、同大学長に就任。学長就任以来、“キラリと光る個性ある大学”を打ち出し、学部・学科の新増設や他大学との連携強化など、数多くの改革を先導。最終講義では、学長就任時に示した課題を話した。
「教育面では@惰性的な教育の存在A勉学意欲の乏しい学生の増加B受験生の減少C社会人、女子学生の少なさ、研究面では@活発な研究者が少ないA斯界をリードする研究が少ないB外部研究資金の導入が少ない、などの課題を学長就任時に挙げました」
数々の大学改革を断行
学長1期目(04年〜07年)から、これらの課題と格闘する。「学長室を設置。生体医工学科、原子力安全工学科という新学科を新設するなど、学部・学科の再編を行い、特任教授の制度化、社会人講座(渋谷コロキウム)の開設などを行いました」
2期目(07年〜10年)。09年、大学名称を東京都市大学に改称。系列の東横学園女子短大を統合し、社会科学系の都市生活学部と人間科学部を新設。「東横学園女子短大の改革では廃止論も出ましたが、その立地条件やこれまでの実績を勘案して大学に統合することにしました」
難儀した大学名改称
大学名の改称は難儀したようだ。「東京都市大学、東京横浜大学、武蔵都市大学などの中から選んだのですが、その間、教授会、学生集会、同窓会などで繰り返し説明して、最後は名称を決める委員会の多数決で決めました」
「2期目には、室蘭工大や昭和大学との連携、早稲田大学との原子力共同大学院の設置を行いました。大学のロゴ、カラーを決め、広報部門を強化し、東急電車の車内吊りなども使って、女性参画に熱心な大学、エネルギー問題に取り組む大学などを世間にアピールしました」
3期目(10年〜13年)。10年には東京大学生産技術研究所と研究面で連携。「環境学部とメディア情報学部を開設。インターンシップ制度の拡充、中長期計画の策定やオーストラリアプロジェクトの準備などに取り組みました」
9年前の学長就任時に示した課題はどうなったのか?「入学志願者をみても、07年がどん底で、09年から上昇気流に乗っています。グループの中高も志願者が急増しています」。自身の九年間の評価を笑いながら語った。「教育、学内業務、研究、社会貢献の4部門でどれも大体、75点前後。本業では60点以下は落第なので、まあ良の真ん中かな」
今後の東京都市大への期待。「将来の明確な目標を立て、全学一丸となって計画的にその実現に取り組んでほしい。課題を克服し、社会的な評価を高め、国内外で存在感のあるキラリと光る大学にしてほしい」
自身の今後。「みなさんに助けて頂いて、ここまでやってこれました。これからは、三陸の大震災の復興や、東京の都市整備などに、もし必要と声がかかれば、関わっていきたい」
最終講義の受講者の中に、東大時代の教え子、徳山日出男さんの姿があった。東日本大震災発生時の国交省東北地方整備局長。あの混乱の中で、「命の道」を開く初動体制を立ち上げ、被災自治体の首長らに「何でもやる闇屋のオヤジです」とメッセージを送り、粉骨砕身、被災地の復旧に捧げた男だ。
引き継がれる学長の志
冒頭の新島襄の言葉の意は、「維新後の日本社会をリードするに足る『良心』が全身に充ち満ちている立派な男子が、志をもって立ち現れてきてくれることを期待する」である。中村さんの国土に対する「良心」は、確実に後輩に引き継がれている。
なかむら・ひでお 京都市生まれ、同志社高校卒。1958年、東京大学工学部土木工学科卒、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)に入社。東京大学生産技術研究所助手、ドイツのシュトゥットガルト大学客員講師・教授、東京工業大学工学部助教授、東京大学工学部教授を経て、96年、運輸政策研究所長。97年、武蔵工業大学情報学部教授、04年、武蔵工業大学学長。09年、武蔵工業大学から東京都市大学への校名変更などを行う。94〜95年まで土木学会会長。98〜01年まで世界交通学会会長。著書に「国土調査」(技報堂出版)など。