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平成25年7月 第2529号(7月3日)

高等教育の明日 われら大学人〈36〉
 前全日本男子バレーボール監督
 母校の大阪商業大学特任教授に
 植田辰哉さん(48)

 熱血の指導者が母校に帰ってきた。前全日本男子バレーボールチーム監督の植田辰哉さんは、4月から母校の大阪商業大学(谷岡一郎学長、大阪府東大阪市)教授となった。特任教授という形で、バレーボール部に限らず全学生に向けて幅広い指導を行う。1992年、バルセロナ五輪に主将として出場し6位入賞を果たす。2005年、低迷を続けていた全日本の監督に就任。凄まじい量の練習と、日本代表選手としての誇りを持つことを選手に要求するなど、強烈なリーダーシップでチームを作り上げた。08年の北京五輪の世界最終予選で、16年ぶりのオリンピック出場を勝ち取ったさい、コートに倒れこみ、男泣きした姿を覚えている人は多いのではないか。熱血指導の一方で、目標を達成するための緻密な計画も立てるなど、卓越した組織マネジメント力を持ちあわせる。植田さんに、長く歩んできたバレーボール人生と、これからの歩みを聞いた。

運動各部を「関西の雄」に
かつての栄光を取り戻す  一般学生も“熱血指導”

 香川県東かがわ市(旧大川郡白鳥町)に生まれた。バレーボールとの出会い?子どもの時から背は高いほうだった。両親とも上背があった。「小学2年生から剣道をやっていた。警察の道場を使ったり警察官が身近だったので、将来の夢は警察官になることでした」
 中学でも、有段者になりたかったのと、憧れの先生が顧問だったので剣道部に入ろうと思っていた。「ところが、入部した翌日に先生が急逝され途方に暮れていたら、バレーボール部の顧問の先生から誘われて入部しました」
 高校は大阪商業大学附属高校(現大阪商業大学高等学校)に進む。「中3の時、テレビで春の全国高校バレー決勝戦、藤沢高校(神奈川県)と大商大高校の試合を見て、どうせやるなら強いところで自分を鍛えたいと思った」
 一般入試で入学、バレーボール部に入った。「ところが、大商大高校には身長190センチを超える選手がざらにいて、当時178センチだった僕は体育館で練習させてもらえず、外で懸垂したり、走ったり、の毎日でした」
 「ところが、1年間に身長が13センチほど伸びたんです。監督も驚いて高校2年からレギュラーになり、春高バレーで準優勝。高3のインターハイも準優勝。優勝はなかったが、川合俊一らとともに高校選抜に選ばれました」
 大阪商業大学に進む。大商大バレーボール部が輝いていた時代だった。「関西、西日本では敵なしだったが、関東勢が強く全国ではベスト4が最高でした。2年生の時、神戸であったユニバーシアードで金メダルを取ったのは思い出です」
 1987年、新日本製鐵に入社。「10数社からスカウトが来ましたが、大学の先輩がいたし、伝統のある強いチームということで選びました」。日本リーグ(現、Vリーグ)では、9年間、主にセンタープレーヤーとして活躍した。
 現役引退後は、新日鐵、日本代表ジュニアチームの監督を歴任し、05年に日本代表監督に就任。オリンピック出場を果たすため厳しい指導を続け、08年の北京五輪の出場権を16年ぶりに獲得した。
 8年間務めた代表監督を振り返る。「理不尽なことを求め、厳しい監督だったと選手は思っているはず。悔いはロンドン五輪に行けなかったこと。監督を辞めるとき、日本代表の福澤達哉、清水邦広から『監督と出会ってなかったら、今の僕はない』という言葉をもらった、嬉しかった」
 選手と指導者の違いについて。「選手は自分のことが主で自分のプレーを磨き、コートで結果を出すことを考えればよかった。監督はコート内での指導はもちろんだし、全選手とコミュニケーションをとらなければならない。また、関係する企業や団体との打ち合わせなどコート外でやることも多い」
 大商大の特任教授を引き受けたのは?「昨年のロンドン五輪は最終予選で敗れたとき、バレー部の監督就任も打診されたが、日本協会での選手強化の役割もあるため辞退。今回は、特任教授としてあらゆるスポーツを見てほしい、という有難いお話でしたので…」
 大商大のバレーボール部は、現在、全国優勝からは遠ざかっている。「バレーボール部の強化だけでなく、野球、サッカーなど12競技ある、いろんなスポーツの分野で長いビジョンを描きながら強化していきたい」
 一般学生に向けても、生涯スポーツ論、組織マネジメントなど、不定期で講義も担当する。「一般の学生ともいろいろ話をしたい。これまでの体験を話すなどして、学生には“自分は、こうなりたい”というビジョンを持つよう促したい」
 また、4月から、日本バレーボール協会育成強化委員会ディレクターを務める。男子が植田さんで、女子はロサンゼルス五輪銅メダルの三屋裕子さん。現在、年代別に行われているジュニア層強化を、日本代表に向けた人材発掘や育成につなげるのが目的。小学校から大学までスムーズに強化できるようにする。
 なぜ、そこまでするのですか?「日本が強かった時代は、ロシアや東欧諸国がライバルでした。当時の強豪国は男子は10カ国、女子は6カ国ぐらい。それが、いまやイタリア、米国、中南米、中東、アフリカと世界中が力を入れ出しました」
バレーボールの話になると止まらない。「バレーで五輪に出られるのは世界のトップ12の国です。北京五輪に出た時、日本は16位から勝ち上がって出場、奇跡といわれました。今、日本は19位、少子化でバレー人口は減り、体力的にも劣ります。ディレクター制は遅いくらいですが、直ちにアクションを起こします」
 母校である大商大のスポーツ強化という役目もある。「僕が学生時代は、バレーの上野尚志、サッカーの上田亮三郎、バスケットの島田三郎というように名監督がいて、強かった。スポーツ界では関西の雄だった。もう一度、各部を関西の雄にしたい」
スポーツだけでは駄目
 「結果を求められている」と眦を決し、こう続けた。「スポーツの強化は大学のブランド力を高めることにつながる。ただ、スポーツが強いだけでは駄目で、学業のほうも起業家になるのか、企業幹部をめざすのか、これまでの海外経験などを生かしてバックアップしていきたい」
 二足のわらじは大変なのでは?「広い視野に立って、日本のバレー界や大商大の活性化のため情熱をもってやっていきたい。選手時代に感じた周囲のバックアップはとても大事で、自分が広告塔になるつもりで、競技の普及や選手の育成に尽力したい」
 いまの若者について。「僕らの時代は、スポーツ刈りで規律正しい、だった。今の学生は、見た感じではだらけているが、話を聞くと学ぶ意欲は強く意外としっかりしている。大商大の学生に限らず、コミュニケーション力は劣っている」
 どう指導していきますか。「スポーツ競技は、いい選手だけでは勝てない。能力、情熱、人間性が大事です。自分の経験を基に、社会に出たらこうなる、世界に出たらこうだということを、学生にわかりやすく伝えていきたい。それが、コミュニケーション力につながると思います」
 植田さんの夢は?「日本のバレーボール人口が増えて、そのなかから優秀な人材をみつけ、育成強化して、強かったニッポンを復活させたい。大商大では、2020年の五輪に大学からオリンピアンを輩出するのが夢です」 
 スポーツ界で取り沙汰される体罰問題について。「あってはいけないこと。指導力がないから手を上げる。選手にペナルティーを与えるのには暴力でなく、いろんな方法がある。指導者には論理的な説明(する力)が必要だ」
熱く指導者論を語る
 最後は指導者論。「指導者は、さまざまな情報を集め、それをわかりやすく部下に伝えるのが役割」、「自分の器の中だけで考えたら固定観念にとらわれる。さまざまなことに耳を傾けるのが指導者」、「指導者が学ぶことをやめたら、教えることをやめたほうがいい」
 最初に述べた「目標を達成するため緻密な計画も立て、卓越した組織マネジメント力を持つ」指導者とは、こういう人物をいうのだ。

 うえた・たつや 1964年生まれ。身長196センチ。日本の元バレーボール選手(元全日本主将)、指導者(前バレーボール全日本男子代表監督)。大商大時代の85年に全日本入りし、92年はバルセロナ五輪に主将として出場。98年の現役引退後は05年、男子代表監督に就任して以降、アジア選手権で10年ぶりの優勝や世界選手権では24年ぶりの入賞を果たした。08年に北京五輪出場、10年はアジア大会を制覇した。2013年4月からは、母校・大阪商業大学の特任教授と、日本バレーボール協会育成強化委員会ディレクターを務める。座右の銘は、『驕兵必敗』




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