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平成25年5月 第2523号(5月15日)

高等教育の明日 われら大学人〈34〉
 工学のノーベル賞を受賞金沢工業大学名誉教授
 奥村善久さん(85)

 「10年先を見て考えよ」、「自分の仕事に、自分のベストをつくせ」―優れた工学者は、文学的素養があり言葉を大事にするものである。携帯電話の実用化に貢献したとして「工学分野のノーベル賞」とも呼ばれる「チャールズ・スターク・ドレイパー賞」を受賞した金沢工業大学名誉教授の奥村善久さん。受賞理由は、「世界で初めてのセルラー電話のネットワーク、システム、の先駆的貢献」といわれるが、現在の「セルラー方式」と呼ばれる技術開発などに貢献したことが評価された。同賞は、アメリカの研究機関「全米技術アカデミー」が毎年、実用的な技術の進歩や社会の発展に貢献した研究者に贈られる。日本人として初めて選ばれた奥村さんは「こんなに評価してもらい光栄です。携帯電話を子どもが持つほどまでに普及するとは思っていませんでした。自分の仕事に全力で取り組んだ結果、社会の役に立つ技術に発展したことは本当に嬉しい」と語った。奥村さんの生い立ちから研究者人生を尋ねたが、奥村さんの口から発せられる言葉はひとつひとつ屹立していた。

「10年先を見て考えよ」
奥村モデル世界で脚光 携帯電話実用化に貢献

 奥村さんは、2000年の金沢工業大学退任のさい、同窓会で記念講演「私の人生体験と信条」を行った。愛弟子である同大電子情報通信工学科教授の野口啓介さんが講演のレジメを見せてくれた。珠玉の奥村語録が散りばれられていた。
 (思考と行動の核は)「他と異なることを怖るる勿れ」
 「“専門バカ”にならぬために、公正な判断力の啓発」
 「(見識を高める術は)高度な判断力と行動力」
 「(リーダーの役目は)@仕事に対する基本理念を明確にし、全員に徹底させるA効率的な推進組織(システム)を作り、その活性化を図るB円滑な活動を助けるための環境の整備C公正な業績評価を行い、昇給・昇格へも反映)
 1926年、石川県河北郡花園村(現金沢市)に生まれた。どんなこどもだったのか。「小学校は、1学年40人の小さな学級で、成績はよかったが、運動は得意ではなく、本を読むのが好きでした」。真面目な少年だった。
 10歳のとき、「なりたくない職業」を三つ考えた。「学校の先生とお巡りさん、それと坊さん。お巡りさんは村の名士で、小学校の入学・卒業式ではサーベル下げて列席した。戦前だから、三つとも人前で尊敬されていた。他よりも尊敬されるような職業は堅苦しくて嫌いで、なぜか自由人に憧れていた」
 県立金沢三中(現金沢桜丘高校)に進むつもりで願書を出した。すると、「銀行員の叔父が『これからは工業の時代、電機などがもてはやされる。普通科はやめたほうがいい』と助言。親もそれに応じて、市立金沢工業学校電気科に進みました。特に電気が好きというわけではなかった」
 努力家だった。「小学校に鉄棒などなく、中学入試の体操実技で逆上がりが出来なかった。体育の授業でも鉄棒があり、『蹴上がり』が1学期の試験科目なのに出来なかった。友だちに1カ月間、毎日練習に付き合ってもらって出来るようになった」
 手が豆だらけになった。「蹴上がりが出来ないのがしゃくだった。子ども心に駄目だと思っても、できるまでやるという気持ちがあったんだと思う」
 「大学に行きたかった」が、家庭の事情で断念、旧制金沢工業専門学校(現在の金沢大学理工学域電子情報学類)に進む。1947年に卒業して通商産業省を経て、1950年、日本電信電話公社(現在のNTT)に入社する。
 転機が訪れる。「社会に出て、専門学校卒と大学卒との歴然とした差別に腹が立ちました。電電公社では、給与も役職に就く年齢も大卒が優位になっていた。これを克服したい、という気持が強まった」
 これがバネになった。そこで、二つの目標を立てた。「やりたい仕事を探して実行に移すことと、大学卒業者のやる同じ仕事はしたくない」。この決意が、「チャールズ・スターク・ドレイパー賞」受賞に結びつくことになる。
 受賞理由となった研究は、二つあった。一つは、1962年から67年に行った「陸上移動伝播特性の研究」。「世界で初めて四つの周波数の電波を使い、東京タワー中心に半径100キロメートルの関東平野を移動測定車で走行実験を行ったもので、この結果が『奥村モデル』『奥村カーブ』と世界的にもてはやされて、その後の携帯電話システムの設計に広く使われた」
 二つは、70年から72年に行った「800MHZ帯大容量広域自動車電話方式の実用化」の大幅促進。「日本(NTT)が遅れていた新しい自動車電話方式を、普通10年かかるものを3年以内で実用化の線上に乗せる働きをし、結果、79年、米国を越して世界でトップを切って商用化できたことです」
 なぜ、かくも研究が成果に結びついたのだろうか。「新しいことに取り組むときは、10年先にどうなるか、を想像することである。更に、目の前にある問題点を点検して洗い出しておくこと」
 10年先を見て考えよ、とは?「過去の発展動向を踏まえて、そこから、いくつか枝分かれに発展していく先を見据えて、今から何をすべきかについて考えるということです」
気迫ある大学での講義
 1979年、金沢工業大学工学部教授に就任。野口さんによれば、小柄な身体から発せられる気迫ある講義だった。壇上に立つ奥村先生に学生は緊張した面持ちで向かっていた。就職部長も歴任、同大の進路指導と企業への進路開発の道を確立したという。
 野口さんは「現在の本学の就職に対して外部評価が高いことも、奥村先生の礎があってのことと思う」と述べている。もうひとつ、金沢工業大学は、面倒見のいい大学として全国の学長からの評価が極めて高い。
 今回の受賞について、朝日新聞の「記者有論」(2013.4.16)で辻 篤子記者が「ドレイパー賞 工学の業績もっと評価を」という見出しで書いていた。その通りだと思う。
 〈過去の受賞者には、世界を一変させた技術の生みの親たちが並ぶ。日本でも、工学分野の貢献はもっとたたえられていいと思う。日本人の業績を、海外での評価によって知る例は、これまでも少なくなかった。まずは、功績を自らしっかりと評価することだ〉
 今回の受賞にさいし、下村博文文部科学大臣から奥村名誉教授に感謝状が贈られた。4月10日の金沢工業大学扇が丘キャンパスでの贈呈式の後に記者会見があった。ここでは、奥村節が記者をけむに巻いた。
 受賞の感想を聞かれると、「天災は忘れたころにやってくる、ということわざ(寺田寅彦)があるが、私にとっては“天恵も忘れたころにやってくる”だね」
 米国からの受賞の知らせの際、俳句を披露したが、今回は?「二番煎じになるし、つくっても空々しいから、今回はつくらない」。ちなみに、受賞の知らせの際、つくった句。〈寒晴れや 天恵の賞 授かりぬ〉
 冒頭の大学退任の記念講演のレジメの最後には、「贈る言葉」が載っていた。全く古びておらず、いまの学生に向けて言いたいことと重なる。再録させて頂く。
 「地位に居て、地位の上に」
 「上司に惚れよ。然らざれば、いい上司に恵まれぬ」
 事を処すには熱い心を
 「事を処すには 熱い心を以て当たり、自ら納得すべき結果を導くべし」
 愛弟子の野口さんは恩師の偉業を、こう語っている。「最後の『事を処すには…』の言葉が、今回の受賞につながったのではないでしょうか」

 おくむら よしひさ 日本の工学者、電波伝播の研究に取り組み、移動無線電波が伝わる環境を独自に分類した経験則である「奥村モデル(奥村カーブ)」で知られる。1947年、旧制金沢工業専門学校卒業。通商産業省勤務を経て、1950年、日本電信電話公社入社。在職中の1961年―73年、現代の携帯通信の基となるシステムも構築。1970年、移動無線通信室長に就任する。75年には東芝日野工場に移り、新移動体通信システム・機器の開発に従事。79年、金沢工業大学工学部教授に就任。2000年に退職し、現在、金沢工業大学名誉教授。



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