平成25年2月 第2515号(2月27日)
■知の拠点から〜継続支援〜
今も、被災地より遠く離れた場所から、寄り添うようにして支援する大学がある。今回、3大学より取組の様子を寄せていただいた。
3月11日から1週間、自分が何をなすべきかひたすら考え続けていた時、阪神・淡路大震災での被災体験を持つ同僚がこう言いました。「あの時は、1か月経つと世間がみんな冷たくなった。けれども、本当に困難なことは1か月経って初めて見えてきた」。その瞬間わかったのです。支援し続けることが最も大切であり最も難しいのだと。ならば、私たちはその一番難しいことを自らに課そう、そう決心しました。
こうして「リムデイ」が始動しました。でも「リムデイってなに?」とよく訊かれます。実はリムデイとは、かつて私が高校生の息子たちと月に1回行っていた夕食のことでした。例えば鍋物を食べたつもりで、実際には白飯に冷蔵庫の残り野菜のみそ汁だけで済ませ、鍋物の材料費分を募金用にストックしていました。我が家では、その粗末な夕食を前にして食糧問題や環境問題について家族で語り合い、とても実り多い豊かな時間を過ごしていました。この方法なら、どんな家庭でも無理なく必ず募金できるので、震災支援にも応用できると考えたのです。リムデイのリムはムリの反対、つまり無理じゃないという意味です。
T.持続的震災募金プロジェクト「リムデイ・(ドット)11(イチイチ)」
「忘却」は人間の基本的な能力の一つですから、継続のためにはなんらかの仕組みが必要です。そこで生まれたのが、学内における様々なシステムでした。
@リム・ファミリーとしての協力:入学式で新入生および保護者の方々に募金を呼びかけ、現在に至るまで数世帯のリム・ファミリーから継続的に口座振り込みが続いている他、東京の賛同企業からも毎月振り込みがあります。また、学内の学生支援オフィス内に設置された募金箱に直接募金する方法もあります。
A学生食堂での募金メニューの設置:「リムデイランチ」=400円の定食ですが材料費は100円。1食300円の募金になります。「リムメニュー」=週替わりでカレーや丼ものを提供。1食50円の募金になります。
B大学生協コンビニでのレジリム:レジスターに震災募金用のボタンを設定してもらいました。たとえば280円の買い物をして300円出し、「おつりリムします」と言えば、20円が募金されます。
C近隣商店での募金箱の設置:近隣商店に募金箱の設置をお願いしました。正門前のスープカレー屋さんは、店内に古本コーナーを作り、代金100円をリムデイ募金するという仕組みを考案してくださいました。
D書き損じ・未使用年賀ハガキの回収と換金
E単発的募金活動:入学式・卒業式、同窓会総会や学内講演会・シンポジウムなど様々な機会を捉えて募金活動を行っています。
以上のような活動を、学内の教職員及び学生有志からなるプロジェクトチームによって推進してきましたが、特に大学生協の協力が決定的に重要だったため、生協役員の方にもメンバーとして参加していただいています。ミーティングは月に1回、リムデイランチを食べながら行うことになっており、募金活動の一環としても位置づけられています。このような活動を通して集まった募金から、毎月11日に5万円を、主として被災地の高校に直接送金してきました。
U.被災地ボランティア
9月には、被災地にボランティアを派遣してきました。1年目は25名が岩手県大槌町で瓦礫の撤去、2年目はNPO法人北海道ブックシェアリングのお世話になり、2班に分かれた34名が岩手県陸前高田市で市立図書館建設に携わりました。いずれも、大学がバスをチャーターすることで学生の旅費負担をなくし、教職員が引率しました。本学では、被災地ボランティアは自らが成長するための大きな学びの機会だと考えており、大学教育の一環として今後も取り組んでいきます。
V.福島Uターンプロジェクト
本学では震災直後から、被災地に立地する大学をなんとか支援したいと考えてきました。とりわけ、原発問題で多くの困難を抱えている福島県の大学に対しては進学をためらう高校生が続出することが予想されたため、福島の大学を支えることを目的として提案されたのが、Uターンプロジェクトでした。具体的には、福島の大学(現段階ではいわき明星大学)と協定を結び、いったん本学へ入学した学生が同大学への転変入を希望した際、円滑に実現するようにサポートするとともに、費用の一部も本学が負担します。
W.リムデイ奨学金制度
リムデイの名を冠するもう一つの震災支援が、リムデイ奨学金制度です。これは「リムデイ・11」の取り組みの過程で生まれてきたものであり、主に学外の賛同者によって担われています。リムデイ奨学生には、大学在学中に月額5万円の奨学金が給付され返還義務はありません。
奨学生の条件は三つあります。
@3.11大震災で被災したこと。Aエネルギー問題、環境問題、災害対策、放射能などの専門研究を志すこと。震災を契機に、これらの分野の脆弱さが露わになりました。そのことを重く受けとめ、自らがそれを担うことで社会に貢献したいという決意を固めた高校生が各地に現れており、そのような若者をこそ支援したいと考えました。B東北の太平洋側4県に位置する大学へ進学すること。被災地の大学へ進学する学生に奨学金を給付することにより、被災地の大学自体を支援したいと考えました。しかし、なによりも重要な意義は、4年間、被災地と結びついて学習・研究活動を行うことにより、学生自身の社会意識を鍛え、視座の確立を促すという点です。今日、東北の被災地としっかり向き合って鍛えられた研究は、必ずや世界に通用する質を獲得するはずです。卒業後の進路は自由です。
奨学生には一つだけ義務があります。賛同者に、一斉送信でいいので月に1回メールを送ることです。どんな本を読み、何を考えたか、授業で何を学んでいるかなど、近況を知らせます。これは賛同者がモチベーションを維持するための大きな励みになっていますが、このように顔の見える関係が築かれ確実に学生たちの成長が確認できる奨学金制度は、非常に稀だといえます。もちろん、これを重すぎる義務と考える意見もありました。しかし、賛同者には大学教員や有名企業のトップが含まれており、そのような人々が常に奨学生の成長を気にかけサポートしてくださるのは、奨学生自身にとって大きなメリットとなっています。先日も、九州の大学教授から、福島大在籍のリムデイ奨学生に会い、その後、大学にも招待して交流する予定だという連絡がありました。この奨学生の父親は消防士で、地震が起きるやいなや飛び出して行き、その直後、自宅は津波にさらわれ父親とは3日間連絡がとれませんでした。しかし彼は、その時の父親の姿を見て自分も消防士になることを決意し、福島大学共生システム理工学類で防災についてしっかり学ぶことにしたとのこと。また彼の家は代々「相馬野馬追い」を中心的に担ってきましたが、小さい頃から一緒に暮らしてきた2頭の馬も先祖伝来の鎧兜や真刀すべて流されてしまい、彼は野馬追いの復興も誓っています。
リムデイ奨学金制度は、このような若者たちを育てているのです。しかし、震災後1年が経過した頃から、どんなに呼びかけても賛同者数はほとんど増えなくなりました。奨学生数は毎年2名ですが、年間最大8名分の奨学金を給付するには大きく不足しています。
この機会に紙面をお借りし、震災について問い続けていらっしゃる志の高い皆様に対し、本奨学金制度へのご賛同とご支援を心からお願いいたします。また、被災地の高校の先生方には、熱意と志のある高校生をリムデイ奨学生候補としてご推薦くださいますよう、お願い申し上げます。
以上、持続的震災支援活動「リムデイ」について述べてきました。震災支援は「弱者救済」ではありません。関わり続ける過程で自らが、人と自然、人と社会の関係性について深く考え、成長していける道なのだと私は考えています。多くの方々と手を携えて進んで行きたいと願っています。
「共生」と「実学」を石巻市雄勝町の人々に寄り添い、学ぶ
―淑徳大学における被災地支援の継続的な取り組み―
東日本大震災発生から2年が経とうとしている。この間、さまざまな支援活動を展開し、今も被災地の方々との交流を続けている。本学がどういう背景、経緯で立ち上がり、どう行動し、何をめざしているのか。これを明らかにすることで、大学による教育、地域貢献のあり方を考えてみたい。各大学がそれぞれの特徴を活かした支援活動に取り組む中で、本学が軸に据えているのは福祉や教育の本質に関わる「地域・コミュニティの中で、人々と共に生き、学ぶ」ことである。
共生の精神、実学教育の伝統から必然的に始まった支援活動
本学は、社会福祉への関心が今日ほど高まっていなかった1965年、当時わが国で数少ない社会福祉系単科大学として開学した。大乗仏教の理念を建学の精神とし、宗教・社会福祉・教育の三位一体による人間開発、社会開発をその使命に掲げている。
“Not for him , but together with him.”
これは、学祖(創立者)長谷川良信が、著書『社会事業とはなんぞや』(1919年)の中で、述べた言葉である。(社会事業のあり方は)「彼のために」ではなく、「彼とともに」でなければならないと説く。すなわち、慈善や救済ではなく、自助・共助、ひいては共生社会の実現をめざす、今日の社会福祉の源流となる考え方である。
学祖は青年期(1910年代)、東京・西巣鴨の通称「二百軒長屋」に単身で移住し、年少労働者や未就学児童のための夜学校を開くなど、一般隣人の身上相談に応じるなどのセツルメントに身を投じた。まさに寝食を共にし、身をもって学ぶことにより、大乗仏教の「自利利他」の精神、今日でいう「共生」の思想を礎とする新しい社会事業の理念に思い至ったのであった。
「自利利他」は、本学園の校訓でもある「感恩奉仕」の精神に基づく。生きていることに感謝し(感恩)、与えられた命を他者にお返しする(奉仕)。人のために役にたちたいと思い、行動し、そのことによって自らも他者も生かされていく。これが「自利利他」のあるべき姿であり、共に生きること(共生)なのである。「感恩奉仕」の自覚がなければ、自己と他者は対等の関係とは言えない。利他的な振る舞いに見えても、情緒的であったり、自己満足であったり、あるいは一過性のものに終わってしまう場合もある。
そしてこの精神は、座学で体得できるものではない。社会の中でのさまざまな体験を通して、人々と関わりながら、心に、体に刻み込んでいく。学祖が唱えた「実学」とは、単に実際の役にたつということではなく、「社会の現場で学び、真に自己の形成に実りをもたらす学問」を意味する。同時にそれが、人々と共に幸せをもたらす行為となる。
学祖は、社会事業、教育事業、さらにブラジルにおける布教活動を通じ、「共生」と「実学」の実践に生涯を捧げた。その集大成として、「同志的後継者を育てたい」という情熱から本学は生まれたのである。「共生」と「実学」を教育理念に掲げる本学が、東日本大震災の支援活動に赴いたのは、必然の経緯であった。
実学を体現する仕組みと建学の精神を受け継ぐ土壌
では、本学が具体的にどのような人材を育成しようとしているのか。そして、「実学」を実践するために、これまでどのような取り組みを行ってきたか。
学祖は、福祉や教育の専門家を育成することはもちろん、各専門家を有機的につなげ、組織化して動かす「オルガナイザー」の育成を目標に掲げた。言い換えると「実学的専門性」を身につけた人材である。「実学的専門性」とは、リーダーシップ、チームワーク、行動力はもちろん、地域支援に欠かせない視点「日常性=生活を確保すること、継続性=生活が維持されること、関係性=生活を支える地域の人々とのつながり」などが挙げられる。
本学は、「実学」を体現できる場として、学生が主体的に運営する「地域支援ボランティアセンター」を従来から開設してきた。常任支援員(学生)がキャンパスの一室に常駐し、地域からのボランティアの依頼やボランティア参加者の募集をコーディネートするものである。さらに2007年には、地域社会とのネットワークをいっそう強化するため「地域支援室」を発足させた。活動の一例を挙げれば、2010年に千葉県で開催された全国障害者スポーツ大会では、県内ボランティア学生の実に6割以上を占める541名を派遣した。また、全国でも珍しいキャンパス内に拠点を置く淑徳大学学生消防隊(千葉市消防団第3分団5部)の活動も各メディアで取り上げられているほか、防犯ボランティアサークルの学生達は、大学周辺のパトロールをしたり地域のお年寄りを対象に振り込め詐欺防止の啓発活動などに日常的に勤しんでいる。
こうした学びを経た同窓生も、全国各地で地域の中心的存在として活躍している。東日本大震災発生後、大須小学校避難所(宮城県石巻市雄勝町)支援に赴いたのも、現地で中学校校長を務める同窓生の第一報がきっかけだった。これを受け、すぐさま野菜を調達し現地に届けた同窓生もいた。世代を超えて学祖が託したバトンが受け継がれていった。
学生、同窓生、教職員、本学に関わる人々が、自主的に支援に名乗りを上げる。社会と共にある。社会に出て、社会の中で学ぶ。こうした空気が伝統の中で醸成されており、学生たちもそれを肌で感じていたわけである。
「学祖が存命であったなら、すぐに立ち上がっただろう」と学長自ら陣頭指揮に立ち、足立叡副学長を中心に全学的組織として「東日本大震災支援ボランティアセンター」を設置。2011年4月29日から6月5日までの1か月以上にわたり、大須小学校避難所に延べ298名の学生ボランティアを派遣した。余震が続き、水道や電気、通信インフラが未だ整っていない中、1チームが4泊5日の日程で現地入りし、前後のチームと支援情報の細かな共有をしながら、避難所の生活支援や、漁業施設でのがれき撤去活動にあたった。
ボランティアとは。これからの「共生」のかたちとは
これらの活動で地元の小学生や中学生との交流が生まれ、現在まで学習支援ボランティア等の活動を継続的に展開している。このほか仮設商店街の復興イベントの手伝いや、生活の足となる中古軽自動車を贈呈したり、大学の学園祭で特産品である雄勝石工芸品や海産物を販売するなど、今でもその関係は切れることなく続いている。
ボランティアに参加した学生が気づきを得て、自主的な活動を始めたことも心強く思うところである。仲間に声をかけフリーマーケットを開いて義援金を募った、あるいは弁護士や司法書士と仮設住宅での相談会を手伝いに行った、等々の声を聞く。活動の幅が、関わる人の輪が確実に広がっていった。
ある学生は言う。「ボランティアの本質がわかった。現地で活動して本当の意味の“ボランティア”になった」と。ボランティアは単なる労働や物資の提供ではない。人との関わりを通して自分を高めていくことによって意義ある活動になる。
震災後2年が過ぎようとする今、一般的な概念のボランティアによる人海戦術は求められていない。そのような中、今後どのように展開すべきなのか。それは息の長い支援活動を続けるための仕組みづくりである。被災地の方々と学生が共にいきいきと生きる、人々の出会いを広げる、つまり「実学」を実践する場が必要であると考える。
本学は、石巻市より使用しなくなった保育所を無償で借り受け「石巻おがつセミナーハウス」を設置した。現地では住民の流出が続いている。現実は私たちが考える以上に厳しく、また学生の立場でできることに限界があることにもどかしさを感じる。しかし、同セミナーハウスの設置は本学が雄勝の人々と長く寄り添っていく決意の証である。
さまざまな復興施策・支援活動が展開される中、それを具体化していくのは被災地に暮らす人々の力、それを支える人の力である。どう人々の関係性を築くか。共に汗を流し、お互いに高め合う環境を創出できるか。「共生」という土台となる部分において、本学は一定の役割を果たしていきたい。
卒業生との絆をホームページで連載
―名城大学の震災復興支援と広報活動―
東日本大震災の発生から間もなく2年。名城大学(本部・名古屋市天白区、中根敏晴学長)では5回にわたり宮城県気仙沼市大島に学生ボランティアを派遣するなど、被災地の復興支援活動を続けています。渉外部広報課(2012年7月までは総合政策部広報)では、被災した卒業生たちの動向も含めた支援の取り組みを「名城大学きずな物語」としてホームページ上で連載しました。未曾有の大災害に対する大学の社会的使命として取り組まれた支援活動ですが、活動を通し、被災した卒業生たちの壮絶な体験や母校との絆の物語が次々に見えてきたからです。取材した卒業生たちにも後押しされ、ホームページ連載後に加筆した単行本「東日本大震災、私たちは忘れない〜名城大学きずな物語〜」(風媒社)も発刊されました。
名城大学は八学部(法、経営、経済、人間、都市情報、理工、農、薬)で約1万6000人が学んでいます。東日本大震災が発生した2011年3月11日以降、早速、ボランティア協議会に所属する学生たちによって義援金が集められ、卒業式、入学式での呼びかけでは34万円近くが集められました。
ボランティア協議会は2004年に発足。同年11月には新潟県中越地震被災地支援のため、学生ら43人が現地に乗り込むなど、数多くのボランティア活動に取り組んできた実績があります。就任したばかりの中根学長は入学式で、「戦後最大とも言える大震災被災地への支援は大学の社会的使命」と決意を述べ、4月8日には大橋正昭理事長(当時)とともに、支援策を話し合う全学緊急集会も開催されました。参加した約400人の学生、教職員からは「学生食堂のランチ料金に義援金を上乗せしてはどうか」「走った分が義援金となるチャリティーランの開催を」など様々な支援方法が提案されました。
具体的な活動の口火を切ったのもボランティア協議会でした。被災地での清掃作業などに役立ててもらうタオル3万枚を集めて送る活動で、「3万枚の奇跡〜被災地に届け私たちの思い〜」のスローガンが掲げられました。しかし、タオルは簡単には集まりませんでした。「1万6000人の学生が1人2枚ずつ提供してくれたらすぐに集まるはず」と考えた学生たちですが、朝、昼のキャンパスでの呼びかけは空回りが続きました。しかし、職員たちのアドバイスや、広報課が配信する「名城大学メールマガジン」での応援呼びかけもあり、タオル集めは卒業生たちも巻き込んだうねりとなって広がり、7月には目標を達成することができました。送料自己負担で続々と届くタオルが詰まった段ボール箱には、多くの応援メッセージも同封されていました。
「計算上いとも簡単にできそうなことが実際にはなかなか実現できない。実社会では良くあることですが意志あるところ必ず道ありです」「阪神大震災の年、名城大学教員としてドイツ語を教えていた弟を亡くしました。亡き弟も願っているだろう復興への想いを伝えたく中古タオルを送ります」「身体に障害があり、義援金以外に何かできる協力はないかとずっと考えていました。これなら私も参加できます」―。タオルとともに添えられた手紙の文面には、卒業生と母校をつなぐ絆への思いが詰まっていました。絆を探す旅を始めて見よう。ホームページ上での連載企画「名城大学きずな物語」はそんな思いでスタートしました。
連載は校友会東北支部長(1962年、理工学部卒)が、卒業生たちの安否確認作業を進める様子から展開されました。岩手県宮古市には、魚市場で大地震に見舞われ、間一髪で大津波から逃れた女性仲買人の農学部卒業生がいました。宮城県気仙沼市では孤立した大島島民の悲鳴を無線で聞きながら夜明けを待つしかなかった理工学部卒の市役所課長がいました。石巻市では、津波から幼い命を守ろうと、11人の園児たちを教職員とともに脚立で屋根の上に避難させ、厳冬の中で救出を待った理工学部出身の園長が、女川町では、町災害対策副本部長として壊滅的な被害からの復興と、学校の再開に奮闘する法商学部出身の教育長もいました。さらに、被災地の卒業生たちの無事を案じる同級生や先輩、後輩たち。新たな物語が次々に生み出されていました。
ウェブ上の連載ならではの反響もありました。母校のホームページ連載を見た秋田県、山口県の2人の小学校校長は、それぞれの学校で、連載に登場した女川町、気仙沼市大島の学校の支援活動に動きました。
「感謝!」。思わぬメールも飛び込んできました。「名城大学きずな物語を読ませていただきました。このメールを打ちながらも涙が止まりません。私は石巻みづほ第二幼稚園の在籍園児の母です。園の近くに住んでいました。大震災のあの日、あの津波が間違いであってほしいとどれだけ思ったことでしょうか。幼稚園での避難方法など、詳しい事までは分かりませんでした。第6回・命を救った決断を読み詳細を知りました。園児も先生方、保護者の方も言い表せないほどの恐怖を感じたと思います。その状況が思い浮かびます。園長先生のあの決断がなければ悲しい結末があったのかもしれません。きずな物語を書いて頂き、本当にありがとうございました。正直、私と名城大学との接点はありません。でもこれをきっかけに知ることが出来ました」。「名城大学きずな物語」は名城大学という枠を超えて人々の目に触れていました。
ホームページの連載「名城大学きずな物語」は8月からスタート、2012年3月までの17回を数えましたが、追加取材して2012年9月に刊行されたのが、「東日本大震災、私たちは忘れない〜名城大学きずな物語〜」です。本は校友会を通じ、東北に住む約500人の卒業生たちにも贈られました。「何度も読みました。3.11以来、数知れないマスコミの報道は今でも続いていますが、母校の皆さんの活躍ぶりを、この物語を通して初めて知り感動しました。改めて母校の底力を誇りに思います」。1964年理工学部卒の福島県の男性はお礼のメールにそう書き込んでいました。
2011年6月から2012年12月までに5回に及ぶ気仙沼市大島でのボランティア活動には延べ150人を超す学生が参加。4回目、5回目は若手職員研修も兼ねて行われ、延べ40人の職員が学生たちと一緒に汗を流しました。3.11直後の被災地の衝撃的な映像に、一時は立ち直れないほどの挫折感を味わった理工学部の土木、建築系教員たちも次々に被災地に入っていきました。阪神淡路大震災の被災者でもある都市情報学部の柄谷友香准教授は岩手県陸前高田市を拠点に、被災者と生活をともにしながら、生活再建の調査を続けています。
仙台市で開催された全日本大学女子駅伝対校選手権大会(杜の都駅伝)に出場した女子駅伝部の部員たちの提案で実現した「24時間チャリティーラン」では1000円の参加費を払った530人の学生や教職員が天白キャンパス内のコース(1周1.1キロ)を夜を徹して走り続けました。学生食堂メニューには「義援カレー」も登場しました。気仙沼市大島でのボランティア活動では、2011年12月の第3回と2012年12月の第5回に管弦楽団の学生たちも合流。避難所になった大島小学校体育館で演奏会を開きました。2012年7月の第4回では、硬式、準硬式の野球部員たちも同行し、大島小学校野球部への指導、大島中学校野球部員たちとの交流試合にも臨みました。陸前高田市では柄谷准教授の研究室の学生たちが2012年8月、住民向けにパソコン教室を開きました。
復興支援を通しての新たな「きずな物語」は今後もどんどん生まれていくことでしょう。「名城大学きずな物語」は、歴史的な震災に取り組んだ大学の記録としての意義も含め、大学広報の新たな可能性につながるのではないかと思っています。