平成25年1月 第2508号(1月1日)
■高等教育の明日に向けて 教育担当記者の特別寄稿
大学はどう変われば、よいのか
大臣暴走の教訓
大学の設置認可を巡る昨年11月の騒動は、まさに田中眞紀子文部科学大臣の〈暴走〉だった。個別大学の認可と認可制度を混同している大臣を、メディアがこぞって批判したのは当然である。
「800近い大学の4割が定員割れを起こしている事実に焦点を当てた点はもっともだが…」という見方にも、筆者は賛同できない。教育行政のトップは認可の仕組みを熟知していて当然だし、そのことを問題視するなら、就任当初から動くべきだ。あのタイミングでの唐突な発言の後、設置認可の在り方を検討するのは、順序が逆だ。
ただ、それでも大臣を支持する一定数の〈世論〉がある。「やっぱり、大学が多すぎるよね」という声は、無視できない勢力を持つ。大学進学率の国際比較などを持ち出すぐらいでは、容易に納得しない〈世論〉の存在を忘れてはならない。
政治と世論のはざまで
筆者は、認可申請校の一つがある北の都市で、今回の騒動を眺めながら、小泉改革時代、全く逆の現象が起きたことを思い出していた。
当時の大学設置・学校法人審議会は、株式会社立の大学について、委員のほとんどが反対したにもかかわらず、設置を認めたからだ。そのとき、世論は動かなかった。「時代の流れだった」という委員のつぶやきを、いまでも記憶している。
少子化、グローバル化、そして財政難の時代である。政治と世論はときに激しく揺れる。それを踏まえ、800近い大学の一つひとつが、自らの存在理由を説明し、政治家にも社会一般にも、理解を得ていく必要がある。
学生への思い
眞紀子大臣の判断にも影響を与えたとされる群馬県の創造学園大学を巡る騒動も、2012年の象徴的なニュースだった。在学生を抱える大学では初めて、解散命令を出す方針が示されたからである。
創造学園大学は秋田県の国際教養大学と同じ、2004年に1期生を受け入れた。その後の歩みはあまりに対照的だ。そして、この年は株式会社立大学が初めて誕生した年でもある。確かに「そういう時代」だったのだ。
眞紀子騒動や創造学園大問題が示したのは、志願者や在学生がいてこそ、大学は存在するという、当たり前の事実だ。
大臣が設置審の判断を覆そうとしたとき、新設大学を志望する高校生の声は大きな盾となった。大学に解散命令が出されたら、最も心配しなければいけないのは在学生のその後だろう。
教育行政は、長く性善説に支えられてきた。大学設置と評価の仕組みが、事前規制から事後チェックへと変わった段階で、性善説は見直さざるを得なくなったと言われる。
創造学園大学の場合、二期生が卒業する段階ですでに教職員への給料遅配が問題になり、揚げ句の果てには、認可申請時の粉飾が疑われている。
教育者たるもの、ウソはいけない。大学のトップは、ウソをつき通す前に、辞めるべきだろう。大学を見る眼がより厳しい社会人学生や本物の留学生にウソは通らない。
学生の自立を促す
グローバル化を見越した国際教養大学のその後の高評価は、トップが将来を見通す能力を持っていることの重要性を示している。
大学にかかわる2012年の最大のニュースは、東京大学に端を発した秋入学導入を巡る動きだろう。様々な課題や批判はあるが、政財界からの支持もあり、一定の進展は見られる。
東京大学とは別の形で、学期制を見直す動きが私学も含めて出てきている以上、すべての大学にとって、他人事ではない。導入するなら、秋までの期間に何をさせるのか、これを機会に、大学の教育をどう変えていくのかが問われる。
海外留学や職業体験を含めたギャップイヤー的な体験と、導入教育や初年次教育と呼ばれるものを合体させた、新しい教育の形があるはずだ。
そうした経験を通して、学生を自立させて大人にすることを提案したい。その後の学問をする上で最も重要なことだと考えるからである。
猶予はあと数年
少子化が騒がれて久しい。だが、18歳人口に関する限り、2008年あたりから120万人前後で足踏み状態になっており、この状態は2020年頃まで続く。
ただ、2027年ごろには100万人程度まで減り、その後は50万人前後まで落ち込んでいくという予測もある。
現在がラストチャンスで、この数年以内に対策を取れなかった大学は、退場の可能性が高くなるということだ。
飛躍的に大学進学率が伸びるか、留学生や社会人の入学者を増やさない限り、数的な改善は望めない。財務省で長く文部科学省を担当してきた主計官の神田真人氏は、財政状況に関して、大学人の危機感が薄いとしきりに強調している。
定員を絞りつつ、教育の質を上げながら経営を維持する方法を考えるしかない。その動きは少しずつ見え始めているようにも思う。
連携のパートナー探し
大学は連携の時代に入っている。それぞれの建学理念がある私学にも、協力しあうことは可能だろう。大学間連携を、小さな単位でもいいから網の目のように広げていくことが大事だ。パートナーを見つけられない大学は、やはり退場せざるを得なくなる。
そのためには、自分の大学の長所と短所を明確に理解する必要がある。それは、教職員が協力しないとできない。教職協働を進め、長所と短所を知るための態勢作りが欠かせない。SDがFD以上に重要になってくるということでもある。
地域の人材育成
日本の大学のグローバル化は避けられないとしても、すべての大学が国際教養大学を目指す必要はないし、目指すことはできないだろう。
ただ、今後の日本の将来を考えたときに、地方の大学が果たす役割は、これまで以上に大きくなる。それは、地方の疲弊と裏返しでもある。
地方が疲弊すれば、大学進学者も減る。こちらの危機は、有力大学のグローバル化以上に大学共通の課題だろう。
将来、道州制的な仕組みがとられるようになったらなおさらである。地方にいて、世界と渡り合える人材が必要とされる時代が来る。これもグローバル化と言えるのかもしれない。
自然科学系であれば、きらりと光る地方発の研究成果をアピールしていきたい。だが、資格を取得するわけでもない人文系学部をどうするのか。今後の大学の真価は、この点にかかってくるのではないだろうか。
財政が厳しければ、知恵やアイデアで勝負するしかない時代でもある。知的生産性を高めるための思考力を養う教育が、修士レベルも含めて求められる。これが、大学の学校化への批判に対する答えかもしれない。
読んで書いて議論
講義中心の学習には限界がある。しかし、議論だけでも困る。
東大からオックスフォード大学教授に転じた苅谷剛彦氏が『イギリスの大学・ニッポンの大学』(中公新書ラクレ)で、英国の名門大学と日本の大学の本質的な違いを論じている。「個別指導のもと、年がら年中、読んで書いて議論する学習を繰り返す」のがオックスフォード流。すぐにマネはできなくても、大学教育を見直す際に考えたい視点だ。
苅谷氏はこの著書で、日本でも秋入学導入を機に、主要大学が学部の人数を絞り、その分で大学院教育の充実を図ることも提案している。
学部段階の教育を充実させることで、主要大学の大学院に進む道を開く。これも他の大学が進むべき一つの道だろう。
大学教育の一部、例えば語学教育などのギャップイヤープログラムを、別の大学が担うこともあっていいのではないか。
いずれにしても、自身の役割を自覚することが、これからの大学に求められているのは間違いない。
中西 茂 読売新聞北海道支社編集委員兼論説委員
なかにし しげる 東京本社社会部で旧文部省を担当。解説部次長・編集委員時代には長期連載「教育ルネサンス」や「大学の実力」調査にかかわる。中央教育審議会の大学分科会質保証システム部会委員などを務め、現在、教員の資質能力向上特別部会、教員養成部会委員。著書に「異端の系譜 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス」(中央公論新社)。