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平成24年11月 第2505号(11月28日)

改革の現場
 ミドルのリーダーシップ <33>
 急速な学部新設で大学力強化
 東海学園大学



 東海学園大学の設置母体である(学)東海学園は1888年設立の浄土宗学愛知支校を起源とし、1947年に男子校の東海中学校、翌年に東海高校を設置した。中興の祖である林 霊法氏が自由な教育を標榜、全国から教育方針に賛同する教員を集め、今日では医学部進学では全国トップクラスを誇る超進学校へと成長した。その後、女子教育重視の方針も取り、女子高校、短期大学、1995年には、共学の東海学園大学を開学。現在は、経営学部、スポーツ健康科学部、人文学部、教育学部、健康栄養学部を設置する。一連の大学改革について、魚住哲彦常任理事・事務局長、谷 洋幸事務局次長・三好事務部長、長谷川悦児名古屋事務部長、伊藤恵介総合企画室長、石黒哲彦法人事務局部長、大石和史入試広報課長から話を聞いた。
 大学開設当初には爆発的な志願者数を記録したが、開学3年目から受験生が激減、ここでピークアウトを迎えた。危機感を抱いた執行部は、対策として短大の学科を大学学部へ次々と転換する指針を打出す。「通常、学部新設は2年程度かけますが、夏ごろに話が出ると翌年には申請にこぎつける経営スピードが我々には必要でした」と魚住事務局長は振り返る。事実、2008年に発達教育学科、2011年に健康栄養学部管理栄養学科、そして、2012年に教育学部教育学科とスポーツ健康科学部スポーツ健康科学科を新設した。「何が学べるのか分かりやすい学部名称にした結果、受験生も徐々に伸びてきています」と述べる。また、東海中学・高校の同窓会も開学当初は批判的な面もあったが、現在では大学とともに高校も伸びるという理解を示している。
 そして、この経験がミドル層職員のスピーディな経営に耐えうる力量に大きく寄与した。長谷川部長は「短大時代から部局間には縄張り意識もなく、風通しがよく、仕事を抱えた人がいると皆で声をかけあう文化がありました。そういう中で全職員が関与して、1年足らずで新学部設置申請書類等を作成する作業を毎年のように繰り返してきました。若手にも大きな仕事をどんどん任せます。また、そうした姿を見て新人も育ちます。こうしてスピーディな仕事に耐える「瞬発力」のある職員が育成されたのだと思います」と語る。実際、一人一人の能力は高く、自ら仕事を求め、現場からは積極的に改善策があがり、指示待ちの職員は少ないという。
 しかしながら、この新設ラッシュの背景に、長期展望を描いた計画があるわけではなかった。事実、同大学には中長期計画はおろか、事業計画に具体的な方針が書いてある訳でもない。「2005年に前学長が幹部の意見をとりまとめた『第三者評価に向けての大学の将来構想について』と名付けられたグランドデザインはありますが、これを実現する具体的計画は未だ作られていません」と谷事務局次長は語る。計画はあれば良いというものでもない。5か年計画といっても、この変化の激しい時代、5年後には時代遅れということもあり得る。現時点で全教職員が意思疎通を図れて、スピーディな意思決定が達成できているなら、むしろ臨機応変な対応が可能ではないのか、と尋ねると、「それにしても、あまりにもなさすぎるので」と魚住事務局長は苦笑する。
 新学部の設置等、学内の新企画は、谷、長谷川、伊藤、石黒の各氏がメンバーの学内理事会が起点となって立案される。「理事会」といっても、学長の諮問機関のようなもので、自由な発想で率直に意見をぶつけ合う。現場からの意見もこの場に提出される。週に一度開催されているため、意思決定はかなり早く、「今回提案された新学部設置案件が決定し、来年に申請」というスピーディ経営を実現させている。更にこうした提案は、学長、副学長、学長補佐、学部長が参加する大学運営会議に提出され議論する。つまり、大学の企画については、学部との調整をはかりながら、ある程度トップダウンで行うことが組織構造により示されたということだ。
 こうした制度は、学長が交代した2009年から導入された。「現理事長は京都から理事会の開催を中心に、学長は長野から会議等に合わせて大学に来られる事情があるため、理事長・学長の経営を助けるために、副学長・学監・事務局長に加え、4名のキーマンが学長をサポートする「学内理事会」を設置したという経緯があります」と伊藤室長は説明する。
 最近ではSD=Off―JTという認識がなくもないが、大きな仕事を若手に任せる、上司は見守るという日本のOJTスタイルは今もって有効な人材育成法であることを同大学は示している。

新設大学づくりの志と危機意識をバネに急成長
桜美林大学大学院教授/日本福祉大学常任理事 篠田道夫

 大学設立の基礎となる東海高校は、愛知県の私立進学校として全国トップクラスの医学部進学実績を持ち、元首相海部俊樹氏をはじめ多くの著名人を輩出してきた。東海学園大学はこの名門校の延長線ではなく、当時の経営陣が女子教育に強い意欲を持ち、東海女子高校(現東海学園高校)、すぐ続けて短期大学を設置、その流れでつくられた。
 大学は、経営学部単科で発足したが2000年以降急速に学部新増設を続け、10年足らずで一気に5学部、ニーズの高い分野で総合的な学部構成を持つ大学に急成長した。2000年に人文学部、2004年に人間健康学部、2011年に健康栄養学部に改組、2012年には教育学部とスポーツ健康科学部を同時に立ち上げた。2004年に募集停止された短期大学とは約10年間併存し、この間、徐々に短大の学科を4大・学部に改組してきた経緯はある。「5学部構想が当初からあった訳ではなく、必要に迫られて短大を改組してきただけ」と語るが、それにしてもこの連続的な改組新設の司令塔はどこか?企画・推進の実行部隊はどこなのか?さらに話を伺った。
 歴史は浅く、規模も中規模、二極化の狭間にあるという自覚は当初からあった。創立から1〜2年は東海学園ブランドもありかなりの学生を集めたが、その後急激に志願者が減少、これが伝統の無い新設大学の危機意識の共有となり2000年からの連続学部増の背景となる。学長の下に総合企画会議(現在は大学運営会議)がおかれ、戦略策定機能を持って将来構想の立案に当たると共に、法人と教学の連携機能、学部間・キャンパス間の調整の役割も果たした。教学役職者と事務局長、次長、部長など職員で構成され、総合企画室(以前は学長事務室)がその実務を担い、実効性のあるプラン作りとその遂行で改革推進に大きな役割を果たしたことは確かである。
 また、急速に学部増を行ってきた関係で大学組織が未整備として、学部代表が参加する最終意思決定機関として大学評議会を再整備し、学長補佐4人制(入試広報、教務、学生生活、就職支援)も導入、迅速な意思決定の推進と全学運営の強化を進めている。しかし、この組織整備もどちらかというと学部増の後で、組織があったから改革推進が出来た訳でもない。
 将来構想はあり、学園の進むべき方向は示されている。しかし、これもミッション的色合いで抽象度が高く、事業計画、事業報告書はあるが、具体的な方針を書き込んでいる部分は少ない。このあたりは今後の改善課題としているが、一方で、先行き不透明な中で、あまり細かい点まで文章で書くことは視野を狭くし、柔軟な対応を出来にくくさせる欠点があるとも見ている。方針が無くても改革が出来ていれば良い、「体育会系の仕事のやり方で、瞬発力重視」を自認する。幹部が臨機応変に変化する現状に対処する、徹底した議論で最善と思われる道を選択する、この積み上げが今日をつくってきたという自負もある。
 理事長は元佛教教育学園理事長も務めた浄土宗の重鎮で非常勤、学長も県外居住で日常的な大学管理が難しい。理事長代行を置き、大学は副学長が日常業務を責任を持って果たす。その下にいる幹部は我々がやらねば大学が動かないという自律心が強い。4人の常任理事を置き、それを支える事務局の4人のキーマン、事務局次長・三好事務部長、名古屋事務部長、総合企画室長、法人事務部長がいる。理事長代行の指揮の下、実行方針の下案はまずこの4人で練られ、学内理事会で議論し、大学運営会議で審議され直ちに実行に移される。4人は自律的に今何をやらねばならないかを考え、あまり細かい事前の調整はしない。ダイレクトに提案し率直な議論で決めていくやり方で、予定調和的ではない分、斬新な計画も生まれる。それをひとつの方向にまとめ上げる巧みな指導力も光っている。専任職員52人も、短大時代からの伝統で指示待ちの姿勢も業務の縦割りもなく、自ら発信する風土で風通しが良い。改革・新設は当たり前、やらねば後がないという雰囲気が浸透している。
 それぞれが危機意識をバネに新設大学を確固とした基盤に創り上げるという前向きな姿勢、高い志を持って直面する課題に全力で立ち向かい、切り拓き、成果を上げてきた。この学園を動かし、急成長を遂げてきた原動力は、組織やシステムの前にこうした人の力があると言える。



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