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平成24年10月 第2498号(10月3日)

仙台学長会議主催「市民公開シンポジウム」
   いま仙台で学ぶことの意義〜ほんとうの生きがいとは〜


仙台学長会議(代表・沢田康次東北工業大学学長)は、去る9月2日、宮城県仙台市のガーデンシティ仙台を会場に、市民公開シンポジウム「いま仙台で学ぶことの意義〜ほんとうの生きがいとは〜」を盛大に開催した。東日本大震災は東北に多くの傷跡を残したが、同時に国内外の目が向けられた。現在も多くの支援の手が差し延べられ、被災地では自ら復興に向けて立ち上がろうとする熱いエネルギーが生まれ始めている。その中心地である学都・仙台は、まさに「復興大学」に象徴されるように、地域の復興をリードする人材育成の地として、また混迷する日本社会の再生を担うリーダー育成の地として、内外からの大きな期待を集めている。人間関係や地域コミュニティを結ぶ“絆”を体験し、ほんとうの生きがいとは何かを模索しながら、この度のシンポジウムで、仙台地域の大学教員と学生とが東日本大震災をどう捉え、今後にどう活かそうとするのかをパネルディスカッション等で意見表明し、討論した。シンポジウムの概要は次のとおり。

 はじめに同会議の沢田代表が挨拶した。「東日本大震災によって、多くの人命、家屋、コミュニティが失われ、東北地方の太平洋沿岸の村と町は大小に関わらず壊滅しました。そして今まで当たり前だったことが当たり前でなくなりました。今、我々一人ひとりが、日本という国の歴史の流れのどこにいるかが問われています。この大震災によって被災し、現在も仮設住宅にお住まいの方にもパネリストとしてご参加いただき、我々市民、そして学生、教員も、そして地域以外の皆様も今、私たちが何を学んでいるのか、本当の生きがいとは何なのかを話し合おうと、今日のシンポジウムを持ちました」と開催の主旨を述べた。
 引き続き、最大の被災地・石巻市の亀山 紘市長が来賓の挨拶をした。
 「日本全国はもとより、世界の国々から多くの支援の手が差し延べられました。そして被災者に寄り添い、被災者の皆さんはそれによって生きる希望と立ち上がる勇気をいただきました。震災で傷ついた心の復興を成し遂げ、失われた産業、経済、文化を取り戻し、東北の復興を果たすため、今、心を一つにして取り組むことが必要だと思っております。
 ルソーは『自然を見よ。そして自然が教えてくれる道をたどっていけ』と述べております。いわゆる自然に帰れという言葉は意義深いものがあります。人間は科学の力で、自然を克服できると思い上がってはいけません。東日本大震災はそのことを私たちにしっかりと教えてくれております。
 この大震災を経験した私たちは、これまでの暮らしや社会のあり方を見直し、未来を考える機会にしていくことが大切であると思っております。震災により生まれた絆を大切にするとともに、日本社会の再生を担う若い方々、学生の皆さんには「本当の生きがいとは何か」を考えていただきながら、震災からの復興を、リードをしていただきたいと思っております。今、復興大学に象徴されますように、学都・仙台が地域の復興をリードする人材育成の地として、私ども、大いに期待しております。東北の復興と日本の未来づくりの一助となる有意義なシンポジウムとなることを願っています」と期待を寄せた。
 パネル討論に移り、コーディネーター、パネリストから意見発表が行われた。

パネル討論

コーディネータ/佐々木公明氏(尚絅学院大学学長)
 「絆という言葉が大変広く使われました。また幸せな、あるいは幸福な人生とはどういったものであるかといったことに関して、日本人の多くの方が、これまでとは違った価値観を持つようになっているようにも思えます。これからの日本社会がどうあるべきか、また人々はどう生きるべきかといった、最先端のテーマがこの地で鋭く、我々に迫っています。ここでしか学べないものがあるのです。私たちの立場は『復興というのは経済的な、物質的なものばかりでなく、人々が幸福になるという心の復興をも目指さなければならない』ということです」

パネリスト/飯塚正広氏(“あすと長町”仮設住宅の自治会長)   
 「あすと長町仮設住宅は非常に立地のいい仮設住宅になっています。仙台では一番大きな仮設住宅です。あすと長町には多方面から被災者が入って来ています。コミュニティ形成できない仮設住宅、私は唯一じゃないかなと考えております。南は南相馬市、あと山元町、亘理町、私の出身の岩沼、名取、石巻、南三陸、あと気仙沼、そして一部岩手。ほかの仮設住宅は、まずほとんどが集落単位に集団移転しているところが非常に多いと聞きます。向こう三軒両隣はみんな顔なじみで、移転後、すぐに自治会を結成しました。
 コミュニティ形成ができない仮設住宅はいろんな問題を再発する危険性があります。孤独死が多発する危険性が非常に危惧されました。233戸入居があったのですが、コミュニティ形成ができていなかったので、有志10人が立ち上がり、ホームページとブログをつくって、外に向けて、私たちはこういう活動をやっていますと発信し、現在も続けております。
 有志10人が9月に運営委員会を結成して、賛同者、先ほどの190世帯のうち75世帯からスタートしております。ゴミ出しのルールの徹底とペットの糞の問題ですね。こういった処理の問題、支援物資の交渉や整理、配布、無法駐車、ボランティアイベント、行政との定例会、給湯器のリモコン、あとスロープ棟への風除室の設置、私ども運営委員会がとにかく住民のために一生懸命働きました。その後、賛同者が130世帯に増えました。地元の支えで自治会・医師・看護師などの巡回、行政側で地域包括、保健師、民生委員さんの巡回、絆支援員の巡回と、こういうさまざまな支援を繋げる第1回の連携会議が開かれています。
 私が3月11日に自治会長になり、そのとき掲げたスローガンは、『この仮設住宅からは絶対に孤独死を出さない』ということでした。
 あすと長町が今の日本の縮図だと、私は思っています。高齢化率は67%です。見守る人間、見守られる人間が共存できるような復興住宅、こういうものをつくりたいと考えております。
 あすと長町には一次産業がありません。農地もないですし、漁場もないということで、自分たちで何かものをつくり出すしかないと思います。ここにぜひ大学さんのお持ちになっているシーズを盛り込んでいただいて、私たちが持っていない一次産業を何とか、産業につなげていただくような助言やらご協力をいただきたい。
 今回の震災は、正直、私の人生が変わる出来事だったと思っています。これもできれば本として残したいなと考えております。復興大学さんには本当に私たちができないことをきちっと具現化していただけるご協力をぜひお願いしたい」

パネリスト/大宮雄也氏(尚絅学院大学学生、ボランティア活動で奮闘
 「最初は絶望の中にあったが、その中から地域へのホームステイ、現在は仮設住宅に住みながら、大学のボランティアセンターの中核として活躍している。2週間ぶりくらいにやっと連絡が来たある友人が、すごく心配してくれて、『あ、自分にとって友人っていうのはすごい大切なものなんだな』と改めて実感した。被災を通して、失ったものは大きいが、しかし震災があったからこそ、気づくことができたこと、今まで当たり前だったことが実は当たり前ではなかったこと。友人の大切さ、小さな幸せを精一杯噛みしめることなどたくさんある。またホームステイを通して、人の温かさや地域の人とのつながりを学ぶことができた。大学でのボランティアでは素晴らしい先輩・後輩に囲まれて、すごく充実した毎日を送れることができて、感謝している。
 失ったもの以上のものを、その後の歩みから得たように思う。震災に遭われた方の一日も早い日常の取り戻しのために、自分のできる範囲で、多くの方と協力して頑張っていこうと思っている。またこれからも尚絅学院大学のほうで、時間が許す限り、ボランティアを継続してやっていきたいと思っている。
 さらに今回の経験から何かしてもらったら感謝するということを学んだ。何にでも感謝することで、心が温かくなると思うし、自分もそうだが、感謝されるとやっぱりすごく嬉しい。『ありがとう』というその言葉は、素晴らしい言葉だと思うので、これからもずっとこの言葉を大切にしていきたいし、これから関わっていくようになる人たちに対して、この『ありがとう』という言葉を使って、感謝の気持ちをこれからどんどん伝えていければと思っている」

パネリスト/佐藤夏実氏(石巻専修大学学生、ボランティアの中心で)
 「震災を通して人の温かさと、人との縁の大切さに気づきました。避難所時代に出会った『にじいろクレヨンさん』を通して、いろんな団体の方たちと知り合い、一人ひとりが頑張るっていうのはもちろんなんですけど、みんなで力を合わせるというチーム力をゼミナールで学ぶことができました。なのでこれからも皆さんと仮設住宅に住む方々に感謝をされるような活動を行っていきたいと思います。
 また、継続して活動することが大事なのだと思いました。私が子どもと遊んでいるときも、始めはやっぱり子どもに警戒されて、暴言やキック、パンチは当たり前でした。でも回を重ねるごとに次第に減っていき、会話が全くない状態でも、ただ隣りに座っているだけでもいいという関係が徐々にできてきました。大人の方も同じで、何回も仮設に通っていると、呼び方が「おねえちゃん」から「佐藤さん」に変わり、「なっちゃん」と呼ばれたり、あと住民の方に「娘だから」みたいなことを言われたり、距離が縮まるのを感じました」

パネリスト/佐藤幸子氏(東北文化学園大学准教授、看護の立場から)
 「家庭訪問をするとき、最初のたった一言なんですけれども、なかなか言葉が出なかったり、そして『こんにちは』は言えたんだけれども、次は『今月は何の話をしようかしら』とか、次の言葉がなかなか出てこなかったりして落ち込んだりすることが、学生の感想ではありました。
 ですけれども、このごろは、学生は次の言葉もきちんと出るようになりまして、何気ない家の周りのことを、すぐ言葉にして言えるようになったんですね。そしてその学生が『ボランティアに参加している学生と、していない学生の違いはね、先生ここだと思うわ』というように、学生自身がきちんと自分のことが評価できるようになってきました。
 宮城県内で学ぶ学生は、大学や専門学校など合わせて、5万人の学生がいると聞いております。被災地に住み、被災地で学ぶ皆さんの情報は、非常に貴重なものになると思います。しかし被災地で学ぶ学生さんの場合も、学生さん自身が直接的・間接的に被害を受けて、未だにうちの学生にもありますけれども、フラッシュバックなどの症状に悩んでいるという学生さんもおりますので、そのような場合はどうか必要なケアをお受けになって、健康を回復していただくようにと望んでおります」

パネリスト/平川新氏(東北大学災害科学国際研究所長、歴史学の立場
 「この8〜9年の間に調査した415軒のうちの15軒は沿岸地帯で、今回の大津波で残っていたのはわずか2軒です。雄勝町の名振浜というところの旧家には戦国時代以来の1万2000点の資料が石蔵に所蔵されていた。私たちは10年ぐらい前までにはほとんど人手がつかないような状態で納められていた資料を写真に撮って、整理用封筒に入れて、また蔵の中に戻すということをやったわけですが、これが昨年の3・11で、この集落自体が壊滅し1万2000点の古文書はすべて海に消えました。ご当主は『津波ですべてを失ってしまいました。もう家も財産もすべて失ってしまった』、本当に大きなお屋敷だったわけですけれども、『皆さんに整理してもらった古文書も流されてしまいました。しかし皆さんのおかげで、古文書の写真だけは残りました』と感謝されました。
 歴史というものが今後、地域を再生していく際に、非常に大きな役割を果たしていくだろうと考えておりますけれども、この残ったデータでどういう活動をしていくか。これ自体、希望の歴史学につながるような働きを、していかなければいけないだろうと思います。
 こういう古文書には、たくさんの災害の記事もある。歴史学にとって非常に大きな要素になってくるでしょう。私自身はこの4月から立ち上がった災害科学国際研究所というところに籍を置くようになりましたが、こういう活動を続けていきたいと考えているところです。
 東北地方の歴史を見ると、米づくりでは遅れた後進地です。米づくりだけではなくて、文化自体が遅れているなどと、歴史研究者も、多くの人も思い込んでいます。反当たりの生産量を計算してみると、少ないどころか多い。これはいったいどういうことだということになるわけです。稲作というのは温かい地域の作物にもかかわらず、この不利な気候の東北で西日本に勝るとも劣らない生産高を上げていた。このことは、農民の頑張り以外の何物でもないと言えると思う。その頑張りの中身をこれから歴史研究していかなければなりません。
 もう一つが飢饉です。私はどのくらい被害が多かったか、どのくらい悲惨な生活をしたかということではなくて、その凶作飢饉にどうやって立ち向かっていったのか、というところに目を向けてみたいということですね。冷たい夏が来ると、リスク回避を当然やらなければいけない。そうすると特産物、米以外の特産物を作ろうということで、その特産物を作る、組織する地域おこしのリーダーが、実はこういう凶作飢饉のあとには、各地に次々と出てくるということになるわけです。ハンディ克服の歴史過程。そんなところから、歴史研究者としては大いに発掘をして、皆さんにご紹介をしていく必要があるだろうと思っています」

パネリスト/納谷廣美氏(明治大学学事顧問・前学長)
 「教育の原点を考えておかなければならないということを知らしめたのが、今度の東日本大震災ではないかと思います。これからはもう少ししっかりと自分たちの生きがいというものを取り戻して、空気が、水が、そういうものが大切であるのと同じように、命がもっと大切だということを確認しあうということ、手を差し延べてもらってありがとうと言ってもらって嬉しかったこと、そして、『感謝することが次の生きがいにつながった』という、ことなどを踏まえて、これからの大学のあり方を考えていかなければならないと思いました。
 明治大学では、継続的に支援するためには授業に切り替えて、早く単位化していく制度をつくろうということを、全学挙げて取り組みました。
 今度のことで世界からいろいろな支援もいただいたし、絆もあった。そういうことが、世界と我々はすぐにつながっていくんだということをみんな実感したわけですから、この思いはつないでいく、ともに生きていく、ともに幸せでいなければいけないと思うのです。このことをきちんと若者に伝え、海外にも発信していかなければならないのではないか、それが今の我々の使命ではないかなと思っています。
 いま仙台で学ぶことは、そういうことの大切さであり、ここで確認していただいて、全国の大学にこういうことが教育の原点だよと伝えていきたい。そこのところをもう一度確認して、世界の人々とつながりをもってやっていくということが必要かな、と考えております。私たちも支援していきたいと思っています」
 それぞれの意見発表の後、フロアとの質疑応答に移った。

フロアとの質疑応答
[フロアからの発言]
 「大学にいて勉強してほしい。ボランティアじゃなくて、実際に勉強して、実学で頑張ってほしいと思っている」
[仙台学長会議の坂田隆石巻専修大学学長]
 「おっしゃる通りだと思います。大学は教育機関で、学生さんからお金をもらって教育をするわけです。心がけたのは「ボランティアに行け」とは言わないようにしていました。一方で被災した人がヘリコプターでずぶぬれになって降りてくれば、学生は飛び出していく。止めるわけにはいかない。それを邪魔しないように見ていた。
大学の名前をつけて作業しているボランティアの学生もたくさん見かけます。街に出ていて、石巻専修大学は何もしていないのかと、街の人から叱られました。それでもやはりボランティア活動で大学の宣伝をするのは、これはいささか品位に欠けるだろうと思いました。
 一方で、大学の教育活動の中に社会支援、あるいは企業支援を組み込んでいるゼミが多数あります。これは単純に授業です。授業の一環です。
 被災した人たちの物理的・心理的な自立を支える伴走者でありたい、ともに走る伴走者でありたい。そういうことを議論して決める。これが実は大学での教育だと思います。ですから我々がやっているのは、地域支援というのは結果であって、学生を教育するのが大学だと私たちは思っています。ただ、家に帰れば泥かきをしなければいけない学生が半分ぐらいいたという大学ですから、特殊例かもしれません」
[フロアからの発言]
 「大学のほうにやってほしいなと思うのが、心のケアの問題です。ただ、症状によって、この症状の場合だったらこの人たちに相談する、そういうしっかりとした、構築されている組織というのが一つもないんですよね。システムづくりができないでしょうか?」
[佐藤幸子氏]
 「システムづくりですか。阪神淡路大震災の時に初めて孤独死だとか、あのあとでやはりボランティアと同じように、心のケアが叫ばれるようになりましたよね。私も今回のこの復興大学のところで、心のケアについてお話しましたけれども。なかなかシステムをつくったから、うまく運ぶということはないですね。被害の状況だとか、いろんなことに関わってきますので、システムをつくったから、例えば行政でシステムつくったからうまくいくとか、そんなふうには思わないですね」
[飯塚氏]
 「心のケアは、うちの仮設でも非常に問題になっています。ただ、これはアプローチの仕方がその人それぞれでまちまちです。システムありきではなくて、その方に合った最適なやり方を持っていかないといけないということで、誰にどのように振っていったらいいのかっていうのが、非常に今苦慮しているところです」
 パネラー以外の教育関係者らからも、意見が述べられた。
[橋 仁宮城県教育委員会教育長]
 「6人のパネリストの皆さんからそれぞれ体験に基づいた、あるいは大学で教育をされている立場からお話をいただきました。改めてこの被災地・宮城で、今起きていること、昨年の大震災からこれまでに体験したこと、これをしっかり自分のものとして、社会に出ていくことができるように、子どもたちに教えなければならないということを、ここで改めて教えられた思いです。
 仮設住宅でのコミュニティづくりも本当に大変だと思いますし、大学でボランティアをしながら勉強することも大変だと思います。そういったことに役に立っていくような社会人が一人でも多く、この仙台から生まれていくように、大学と一緒になって取り組んでいきたいと思った次第です」との感想を語った。
[小出秀文日本私立大学団体連合会事務局長] 
 「日本私立大学団体連合会・私立大学協会の事務局長を務めております小出でございます。昨年の8月2日にご当地の東北学院大学で震災復興のシンポジウムを開かせていただきました。その折に東北工業大学の沢田先生のご提案で、仙台大学のコンソーシアムがこれから復興大学をつくるというお話を伺って、あれから1年と1か月。素晴らしい今日のシンポジウムに参加して、歩み着々たるあたりを感じさせていただきました。
 『東京目線で決して、この被災地を見ないぞ』と、現地のご様子をしっかり見たいという思いで今日こちらに入りました。若い学生さんのお話もしっかりと心に刻みましたし、大学で頑張られる先生方も、また自立の自治会をお作りになるご努力のお話。そしてまた人文社会系の分野からこの歴史をどう見るかというお話、日本人は『歴史に学ぶ』と言いながら、歴史にほとんど学ばなかったのではないのかと、そんな心配をしたのであります。
 いずれにしても、諸科学の力を結集した復興大学の成果を、どうぞ東日本大震災からの復興につなげていただきたいものだ、と強く感じました。
 この震災復旧・復興を決して風化させないためには、これは教育の場、大学の場にその原動力があるんだとの思いを強くしました。同時に、その原動力の先頭機関車は、この学長連絡会議の復興大学にあるということを、今日強く感じました」と、これまでの取組みに対し敬意を表すとともに、復興大学の成果に期待を寄せた

失ったもの以上に得たものが多い
 討論を終え、コーディネータの佐々木学長がまとめの意見を述べた。
 「6人のパネリストの皆様有難うございました。皆様の生き様というか、これからの力強い情熱を感じることができました。今日は決して単一の結論を導くということは適切ではなく、むしろ私たちがお互いに、他人に共鳴し、共感して、お互いに手を取り合って進んで行かなければならないということを、これからの若い人はこの地で大いに学んでほしいなと思います。
 こういったことを結論としながら、このパネル討論を閉じたいと思います。改めて6人のパネリストの方にどうぞ盛大な拍手を送りたい。ありがとうございます」
 最後に、星宮 望東北学院大学学長(仙台学長会議前代表)が閉会の挨拶を述べた。
 「パネリストの大宮さんの言った言葉で、『失ったもの以上に得たものが多い』という表現をされたことが記憶に残るところでございます。
 3・11大震災の大津波の後のガレキの跡を見たときに、昭和20年7月10十日、1945年の仙台の大空襲の記憶を思い出します。午前0時ごろにB―29の大編隊が来て、仙台の中心部が真っ赤に焼けたわけですね。
それからしばらく後になって、仙台市内を見たときは、まさに津波の跡のように何もないんですね。
 それを日本の当時の若者が中心になって、復旧・復興したわけですね。これからのこの大震災の後の復旧・復興を担っていくのは、多分今の大学生、それから当時の私のような、小学校に入るか入らないぐらいの若者たちだと思います。そのときに、前の時の復旧・復興の時に忘れた心の大事さを、今回忘れないでやっていくというようなことを、ここにいる方々はできるだけ共有して、そして後輩に、周辺の方に伝えていっていただければということを、今日、学ばせていただきました。
 感謝を持って最後の締めくくりの挨拶にします。今日は本当にありがとうございました」
(おわり)


 

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