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平成24年7月 第2488号(7月4日)

高等教育の明日 われら大学人〈24〉
  「ルパン三世」の漫画家は、大手前大学教授
  モンキー・パンチさん(75)

  人気漫画『ルパン三世』が世に出て45年が経つ。世界を股にかけて活躍する怪盗を描いた『ルパン三世』は、幅広いファンを獲得した。アメリカンコミックに影響を受けた都会的なタッチで、大人向け漫画の新境地を開拓した。作者のモンキー・パンチさん(本名、加藤一彦)も齢を重ね75歳になった。03年、66歳のとき、「きちんとした勉強をしないと、これ以上先に進めない」と、東京工科大学大学院で学ぶ。漫画を描き続けながら、05年から大手前大学(柏木隆雄学長、兵庫県西宮市)メディア・芸術学部教授(12年から客員教授)を務める。「漫画で何を言いたいのか、自分の考え方をしっかり持つべきだ」と学生を諭すような授業は人気だ。モンキー・パンチさんに、これまでの歩み、大学や若者のこと、自身の夢などを語ってもらった。

若者よ、もっと冒険せよ
夢は3DCGアニメ製作

 1937年、北海道厚岸郡浜中村(現在の浜中町)生まれ。浜中村は根室と釧路の中間にあり、人口は約7000人。漁業と酪農の町。モンキー・パンチさんの実家は漁業だった。小学校2年生の時に終戦を迎えた。
 「貧しい村で、子どもは労働力。小学校のころから、昆布を海岸に干す作業の手伝いをしていました。中学校の修学旅行で札幌に行きました。デパートのエレベーターに乗り、外国に来たような気持ちになったものです」
 「戦争中は米がなかなか手に入らなかった。獲った魚を米と交換していました。8月15日は、近所の人たちが家にやってきて、みんなでラジオを聞いていた。親父が『戦争は終わった』と言ったのを聞いた記憶がある」
 加藤少年は、漫画を描くのが好きだった。「当時、テレビはないし、子どもの楽しみは漫画でした。親父が買ってきてくれた漫画の本を食い入るように読んだ。友だちも漫画を読むのは、みな大好きだったが、漫画を描くのは僕だけだった」
 漫画を描くと言っても、模写だった。小学校のころは『のらくろ』や『冒険ダン吉』。戦後、中学生の時、手塚治虫が登場。「戦時中と違った新しい漫画にショックを受けた。『鉄腕アトム』や『ふしぎな少年』の模写を夢中でやった」
 現在、出身地の浜中町では、各所でルパンの絵を見ることができる。JR北海道の釧路・根室間の列車や町を走るバスやタクシーにはルパンの登場人物がラッピングされている。「まだ、イタズラされたという話はない」そうだ。
 加藤少年は、1952年3月4日に発生した釧路沖地震による津波を体験している。15歳の時だった。「中学校の授業中に地震が起きた。校庭に一時避難したが、そのあと自宅に帰るように言われた」
少年時代、津波を体験
 家に戻ると、近所の年寄りたちが『津波が来るぞ』と騒ぎ出した。「みんな小高い山の上に避難した。住宅などは大きな被害を受けたが、死者はなかった。流氷が丘に上がっていた。ラジオもなく情報はゼロだったが、年寄りの知恵が生きた」
 村には、医者がいなかった。津波のダメージに加え、医師不在による二次被害を受けた。そこで、村は53年、一人の医師を村に招請した。樺太生まれで札幌医科大学を卒業したばかりの道下俊一という青年だった。
 加藤少年は、道下医師の元で看護婦さんと共に医療補助を行った。「中学校卒業のとき、志望高校が廃校となりブラブラしていた。医療助手募集の張り紙を見て応募したら採用された。9月から定時制高校に通ったが、医療助手のアルバイトは高校卒業まで続けた」
 道下医師は、僻地医療を描いた「プロジェクトX」(NHK)やフジテレビで放送された「潮風の診療所〜岬のドクター奮戦記〜」で取り上げられた。モンキー・パンチさんは「プロジェクトX」に出演した。
 高校を卒業、すぐに上京した。「町には、船乗りか役場ぐらいしか就職の場がなかった。当時、テレビが普及し出したころだった。これからはテレビの仕事がいい、テレビの技術を身に付けたほうがいい」と思い、東海大学専門学校電気科に入った。
 貸本専門の出版社で漫画のアルバイトをしながら専門学校に通った。「しかし、アルバイトのほうが忙しくなって、学校へ行く時間がなくなった。1年ぐらい通って専門学校は辞めた」。ひょんなことから漫画家の道が開けた。
「当時、友だちと漫画の同人誌も出していた。それを見た出版社の人が訪ねてきて『週刊誌に漫画を描いてみないか』と誘われた」。1965年、『プレイボーイ入門』で本格的なデビューを果たす。
 1967年、「週刊漫画アクション」創刊号から『ルパン三世』を連載。アメリカン・コミック調のタッチで人気を呼び大ヒット。のちにテレビアニメ化、映画化を果たす。『ルパン三世』はどのようにして生まれたのか。
 「週刊漫画誌の創刊にあたり編集者から新しい漫画を考えるように言われた。アルセーヌ・ルパン、シャーロック・ホームズ、怪人20面相などが頭に浮かび、この中で漫画らしく現代風に持ってくれば面白いのはルパンだと思った」。編集者は「ルパンなんて、いまさら古くさい」と乗り気ではなかったそうだ。
ペンネームの由来?
 モンキー・パンチというペンネームは誰がつけたのか?「どこの国籍の人が描いているか分からなくするため、出版社が命名。最初は1年ほどの暫定的なペンネームのつもりでしたが、名前が有名になりすぎて本名を名乗れなくなりました」
 66歳で大学院に進んだのはなぜですか?「当時、ぼくはマックのコンピュータで漫画を描いていました。これからは漫画とデジタルの融合が必要になるとデジタル漫画協会を設立。デジタルとメディアの勉強をしようと2年間通いました」
今も衰えない向学心
 この向学心はいまも衰えていない。「今、漫画は紙媒体だけでなくケータイやiPadで見ることができる。著作権への取り組みが急務だ。漫画家1人に弁護士が1人必要な時代になったと認識している」
05年4月から、大手前大学教授に。大手前大学は、総合文化学部、メディア・芸術学部、現代社会学部の3学部に3000人の学生が学ぶ。リベラルアーツ型教育を実践、現代社会が必要とする自由闊達で、応用範囲の広い人材を育成する。
 授業はいかがですか?「どの学生も絵は、そつなくうまく描く。見せ方を知っている。絵の描き方そのものは教える必要がないので、どういうことを読者に知らせたいのか、その考え方を教えています」
 「絵は僕が20歳代の時より、今の子のほうがうまい。ただ、個性がなくなり、みな同じになっている。学生には、自分の考え方をしっかり持ちなさい。漫画で何を言いたいのか、自分の頭で決めて書きなさいと言っています」
いまの若者について。「とても素直。僕らの子どもの頃と、そんなに変わらない。ただ、僕らの子どもの頃はケータイもネットもなかった。情報が多すぎて苦労している気がする。ケータイやネットを有効に使っているのか、疑問だ」
 若者に言いたいことは?「若者は冒険すべき。できないんじゃないか、と思っても、やりたかったらがむしゃらに進むべき。ルパンを描いたときがそうだったが、常識をひっくり返すように描いたら人気が出た」
組み合わせに新しさ
 そして、「組み合わせ」に新しさがあることを知るべきだと言う。「『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの“マネジメント”を読んだら』という本が爆発的に売れた。これは、高校野球とドラッカーを組み合わせた。関係ないものを組み合わせることで新しいものができるという成功例です」
 最後に先生の夢を聞かせて下さい。「自分の手でモノを作り出す、ということに強い思い入れがあります。それは、死ぬまであると思う。やっぱり面白いものを、やってると時間が経つのを忘れてしまう」
 具体的には?「コンピューターを使って3DCGのアニメ映画を製作したい。もちろん、ハリウッドで作りたい」
モンキー・パンチさんは、向上心を持ち続け、夢を追い続ける漫画家であり、重ねた年輪で濾過されたみずみずしさとユーモアをそなえた素敵な大学人だった。

  モンキー・パンチ(本名:加藤一彦 )  漫画家、デジタルクリエーター。1937年、北海道厚岸郡浜中村出身。北海道霧多布高等学校を経て、東海大学専門学校電気科中退。「週刊漫画アクション」で『ルパン三世』を連載、大人向け漫画として大ヒット。03年から東京工科大学大学院で学ぶ。05年から大手前大学人文科学部メディア・芸術学科(現メディア・芸術学部)教授、12年から客員教授。10年から東京工科大学メディア学部客員教授。デジタルマンガ協会会長。代表作に『ルパン三世』、『一宿一飯』などがある。


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