平成24年6月 第2486号(6月20日)
■知の拠点から
被災地復興における地方大学の役割
〜地域社会という「運命共同体」の一員として〜
東北の遅い春
2011年3月11日から1年余り、東北にも遅い春がやってきた。東日本国際大学が立地する福島県いわき市も、東北太平洋沿岸の福島県浜通り地域に位置し、未だ東日本大震災の傷跡が色濃く残っている。福島第一原子力発電所の立地する福島県浜通り地域の地震、津波の被害については、宮城や岩手の沿岸地域と比較すれば甚大とは言い難いが、放射能汚染とそれによる風評被害に苦しみ続けている。いわき市は原発から最直近の拠点都市でありながら、空間放射線量が低いため、警戒区域などで土地を追われた多くの住民が避難生活を送っており、本学学生も通常の学生生活に戻ってきている。いわば日常と非日常が混在した様相を呈しているが、今後様々な課題を克服し真の地域復興を成し遂げるためには、地域が一丸となって、なおかつ外部の力も有効に活用していかなければならない。
被災地に在って
大学が、特に被災地の地方大学がいま何ができるのか。大学の地域貢献が叫ばれて久しいが、今般の震災は大学とステークホルダーという関係性を超えた厳しい現実を浮き彫りにした。地域社会の一員である地方大学は、まさに運命共同体として自らの役割を果たす必要に迫られている。ただし震災を通じて再確認したことは、地域やその住民はそれぞれ個性があり、風土や文化、事情も異なるということである。無論、大学の役割も決して一様ではない。
2012年3月10日、東日本国際大学はシンポジウム『震災から1年―フクシマの復興と日本の将来』を開催した。大変大きなテーマを掲げたが、その趣旨は、お仕着せの専門的知識を啓蒙するのではなく、被災地の現場で、地域の人々とともに地域の未来を考える、ということである。
先ず考える前提として、この「1年」の捉え方が人それぞれで一様ではない、とくに被災の度合いやその後の生活状況によって感じ方は様々である。しかし、敢えて1年を区切りに、様々な立場の違いを乗り越えて、被災者それぞれ、そして地域の「復興」と「将来」を考えなくてはならないことも現実である。原発問題を抱えている限り福島県の復興は短期的に成し遂げられるものではありえない。ただ、疲弊した地域社会にとって、10年後の不確実な未来図のみによって地域の将来と復興を担保することはできない。「現在」があって「将来」があるのであって、1、2年後の将来設計を可能にすることが10年後、20年後の未来につながる。無論それは被災者一人ひとりも同様であり、地方大学の役割もまさにそこにある。
とくに震災と原発事故によって突きつけられた課題は、日本のみならず世界の英知を結集すべきものであり、長期的展望を持った基礎科学的研究や最先端技術、あるいは専門的な学識を必要不可欠なものとしている。しかし、地域社会は研究対象であるより前に、「共同体」という名の生命体であり、地方大学はその一部である。そこにミスマッチが生じたり、成果が出るより前に地域が崩壊することのないよう、地方大学にはそれらを適切にコーディネートし、喫緊の課題に対応する役割が求められている。本学もその役割を模索しながら、動き続けた1年だった。とくに地方大学には「知の連携拠点」としての役割も求められている。震災復興のために本学が取り組んだ事業のうち二つを紹介したい。
地域、他大学と連携
昨年度本学ではいわき市「大学等と地域の連携したまちづくり推進事業」の一環として、「いわき市物産品の風評被害克服のための実証実験事業」を実施した。発端は龍谷大学社会学部(滋賀県大津市)の一教員からの申出によるものだったが、何の縁もない被災地の復興を手伝いたいという熱意に押され、「いわき市物産復興プロジェクトチーム(本学、龍谷大、いわき市、いわき商工会議所)」を立ち上げた。企画や運営は両大学の学生が行ったが、8月に龍谷大の学生達がいわき市を訪れて本学学生と交流、企画会議を行い、その後はメールなどで役割分担をしながら準備を進め、11月には滋賀県大津市のショッピングセンターの協力を得て、その一角で『いわき市復興物産展』を開催した。
モノとヒトの復興
大学および学生が主体となったこの取り組みの、主たる目的は二つであった。
第一に、根強い風評被害を見据え、いわき市物産品の販売方法を再検討することである。従来の物産展では出展業者毎に対応がまちまちであったことを改め、出品する全ての物産品について放射能測定検査を行った。当時の暫定規制値を大きく下回る50ベクレルという独自の基準で検査し、それを下回ったもの(結果は全て検出限界以下)のみを出品し、その証として全商品に「放射能検査済みシール」を貼付した。結果として、購入者から過剰な反応はなかったが、この販売モデルがいわき市の物産展では定着しつつある。
第二に、復興人材の育成である。今後の被災地復興のために次代を担う若い人材が必要不可欠であることは言うまでもないが、それは原子力や防災の専門家だけが必要なわけではない。最も重要なことは、被災地の現状を知り、復興のために何ができるかを考え、それぞれの立場で直接、間接に復興に携わる意識の醸成である。その意味で両大学の学生が相互に訪問し、ディスカッションし、共同でプロジェクトを実施したことは、被災地から遠く離れた地に思いを広げる芽が育つ以上に様々な効果が期待できる。龍谷大では被災地復興の教育プログラムを組み、継続的に当地に学生が訪れることになっている。
風評被害の払拭へ
もう一つの取組みは、近隣のいわき明星大学との連携による「福島県いわき地域の大学連携による震災復興プロジェクト」(文部科学省:大学等における地域復興のためのセンター的機能整備事業)である。その中で本学が主担当で取り組んでいるのが「被災地の情報発信による観光まちづくり事業」と「被災障がい者自立支援促進事業」である。
いわき市は、社会インフラや経済基盤のダメージは他の被災地と比べれば少なく、放射線量も低いにも拘らず、農産品をはじめ加工製品の流通や観光客の激減など、いわゆる風評被害によって経済活動が阻害されており、県外とりわけ国外の「フクシマ」あるいは日本に対するイメージダウンは深刻である。本学も中国、韓国をはじめアジア圏を中心に多くの留学生が学んでいるが、信頼関係を築いてきた在学生は別として、新入生の入学辞退は相次いだ。インバウンドの外国人観光客もまだ日本から足が遠ざかっており、回復には長期間を要すると予想され、その克服にも継続的な取組みが必要となる。
今回の事業では、地元コミュニティFM等と連携しながら、留学生などいわき市在住の外国人が母国語で福島県や日本の日常を継続的に発信することで、日本への過剰な拒否反応を払拭していくことが期待できる。
また、震災で多くの市民が過酷な状況に追い込まれているが、そのしわ寄せはいわゆる社会的弱者により強く及ぶ。地震による授産施設の損壊などで仕事の場を追われた障がい者も多く、彼らが自立的生活を送ることが出来なければ、真の地域復興とは言えない。そうした社会環境を取り戻すためには、地道で長期的な取組みが必要であるが、地域における継続的な支援がなければ実現は困難であり、その期待が地方大学には託されている。
地域復興の核
地方大学を取り巻く環境は厳しさを増しており、さらに被災地の大学は風評被害も重なり学生数の減少を余儀なくされている。しかし、むしろ今こそ地域に根差した地方大学の役割と有為な人材の輩出への期待は高まっている。すべからく大学に求められる機能と地域の個性を発揮し続けることが、地域復興には必要不可欠であり、地方大学の存在意義はまさにそこにある、ということを肝に銘じて学部運営にあたっていきたい。
■知の拠点から
ボランティアのためのボランティア
〜学生サークル「まごのてくらぶ」の実践〜
東北福祉大学の精神
災害時支援を通じて積み重ねられた実績は、本学の伝統として受け継がれている。
1995年「阪神・淡路大震災」、98年「那須・福島集中豪雨」、2003年「宮城県北部地震」、04年「新潟県中越地震」、07年「新潟県中越沖地震」、08年「岩手・宮城内陸地震」など、大規模災害に対して、本学は被災地に赴き、豊富な経験と様々なノウハウを培ってきた。
2011年3月11日に発生した「東日本大震災」は、被災県に存在する本学も相当なダメージを受けたが、日頃からの防災意識と発災直後に行われた初動体制(適正な人為行動力と防災組織力)により、学生の安全保護と教育環境の整備が最優先に図られた。
発災直後、本校地「国見キャンパス」に「災害対策本部」が設置され、同敷地内に「避難所」を設け、地域住民を含む学生約1200人への救援・救護活動(安否確認・炊き出し・メンタルケアなど)を実施した。また、大学周辺地域の「地域交流」の拠点にもなっているステーションキャンパス館(JR仙山線「東北福祉大前駅」に隣接)では、3階フロア内に避難所を設置し、学生や地域住民に解放。発災直後から余震に怯える学生や家屋倒壊等の不安をもつ地域住民を収容し、救護活動を行うとともに2階の「地域共創推進室」では三者協定に基づく「災害救援本部」を設置し、支援要請に備えた。
併せて、これまで同様「東北福祉大学ボランティア会」が発足し、組織的に災害支援活動を開始。本学の特色「福祉ベース」を生かした「医療・看護・情報・リハビリテーション・心理・教育」といった専門分野の研究成果や人的資源を結集し、総力を挙げて災害支援活動に取り組んだ。
「まごのてくらぶ」
震災発生翌日から開始された災害支援は、2012年5月現在までで16被災市町村、72件に上り、学生、教職員は延べ4000人を超えている。とりわけ、学生サークル「まごのてくらぶ」が所属している「地域共創推進室」は、日頃の県内の社会福祉協議会とのネットワークを生かし、被災各地にスムーズに入ることができた。
被災地でも、“痒いところに手が届く”「孫の手」としての存在感を強く印象付けることにもなった。ここに「まごのてくらぶ」の災害支援活動を幾つかを紹介する。
「まごのてくらぶ」は何よりも、足元からの災害支援活動に取り組んだ。本学は、震災発生以前の11年2月17日に、国見地区連合町内会(大学が位置する地域)と仙台市青葉区の三者が地域連携・協力して、青葉区国見地区の町内会や子ども会行事の運営補助や清掃活動、花壇づくりなど「まちづくり支援」、「スポーツ文化支援」、「災害時支援」を実施していく協定を締結。東日本大震災でもこの三者協定が大いに役立った。
大震災発生翌日、地域共創推進室に国見地区連合町内会より国見小学校(体育館)における避難所運営支援の要請を受けた。非常時には、ステーションキャンパスに集まると決めており、「まごのてくらぶ」のメンバー5人が待機していた。
要請を受けて教職員と学生で編成した、まごのて救援隊が「避難者約800人、在宅避難者500人」に対して行う炊き出し、避難所の清掃、避難区域内のパトロール、子どもを相手にしたレクリエーション、障がい者の食事介助などの支援を避難所閉鎖までの四日間行った。
学生は活動を通じて、地域が直面する課題を知り、自らが、解決のために能動的に行動できるようになり、人とのつながりの中で課題を解決していく力を身につけることができた。
まず正確な情報を
次は、「ヒッチハイクによる石巻被災地調査活動」をドキュメント的に記述する。
私が宮城県内の社会福祉協議会の福祉活動専門員であった1995年に「阪神・淡路大震災」が発生した。被害規模が最も大きかった神戸市長田区の災害ボランティアセンターのコーディネート業務を支援するため現地に派遣された経験から被災地支援を行うには、何よりも「現地の正確な情報を入手し、次の展開を予測し先手を打つ」ことが重要とされていた。そこで先ずは、石巻市の現地調査を行おうと計画したが、震源に最も近い牡鹿半島の先端に位置する鮎川地区に住む親戚の安否も気になり、調査範囲を鮎川地区まで広げた。
石巻をめざす
しかしながら、ライフラインは途絶え、ガソリン供給が停止しているため自家用車が使用不能のうえに、道路状況や危険区域等の情報も入手できず、調査目的地までの移動は危険と困難を極めた。思案を巡らせた結果、仙台市から石巻市(牡鹿町鮎川)往復約200kmを、通りがかりの自動車に便乗させてもらう「ヒッチハイク」を決断。調査員は、私と「まごのてくらぶ」の学生代表・男子(当時4年生)、私の息子(当時中学2年)の3人であった。
調査決行日は、大地震発生から7日後の18日早朝5時。小雪が降り余震が続く中、自宅がある青葉区小田原を後に目的地を目指した。「ヒッチハイク」は、ドライバーに目立つように大型の紙製ボードに目的地(行先)「仙台」・「石巻」・「鮎川」を大きく標記し、目的地方面に向かう車両に示す行動を続けた。
未明の道路は、車両の往来が極端に少なく、不気味さが漂っていた。出発してから中継地点の石巻市内までは、3台に乗り継ぎ、途中、利府町を経由し九時過ぎに石巻市内に到着したものの、凄まじい光景を目の当たりにした。津波を受けた家屋や工場施設等、市内一面は空爆跡のような惨状を呈していた。
道路は、あちこちが陥没やひび割れが発生し、走行中は海に漂っているはずのブイが電線にからまり、漁船の横倒しや漁具が散乱している風景が幾度もあった。また、防波堤の決壊や地盤沈下によって冠水しているところもあり、鮎川地区に着いたのは12時半を過ぎていた。見慣れた集落、町並みの光景は全くなくなっていたが、親戚全員の無事を確認することができ胸をなで下ろすことができた。休む間もなく、同地区から石巻市に戻る車両に便乗させてもらい、石巻市災害VC(ボランティアセンター)本部がある(石巻専修大学)に14時半無事到着できた。
現地での課題に直面
石巻市災害VCでは、労力支援を主とするボランティアを集結させ(瓦礫撤去・泥かき・家財道具の搬出・畳あげ等)ローラー作戦を長期的に展開するためのボランティア・マンパワーが最大の課題となっていた。
大型バスで「仙台市⇔石巻市」間を往復させ一度に大勢のボランティアを送迎できる体制づくりが課題であり、その解決を迫られていた。理想は、仙台駅周辺に拠点となる石巻市VC仙台出張所(送迎バス発着所)に「ツアーコンダクター」を駐在させ、全国から集まるボランティアの送迎バスに関わる対応をすることが望ましいが、大規模災害だけに日々増大する災害対応等により、駐在員となる人材を送り込める余裕は全くなかった。こうした、石巻市災害VCの支援ニーズを把握することができた。
「ボラバス送迎支援」
続いて、「ボランティアのためのボランティア」が実践された「ボランティアバス送迎支援活動」である。前日に得た、石巻市災害VCの支援ニーズについて具体的な支援活動計画を「災害対策本部」に提案。「仙台市<CODE NUM=0260>石巻市」間を往復するボランティア送迎バス(以下「ボラバス」)を石巻市災害VCがチャーターする。ボランティアの専用のバス発着所「石巻行」を仙台駅東口のTBC住宅展示場前に設置する。「まごのてくらぶ」がボランティアコーディネーターやツアーコンダクター役として全国各地から集まるボランティア希望者の受付と整理等を行う。乗車定員になり次第、バスに乗車させる。車中で当日のボランティア活動等のガイダンス(留意点・活動内容・現地情報)及び(ボランティア保険の登録手続)、さらには(活動地区ごとにグループ編成)を行うという支援内容である。
このように3月29日から4月18日までの間、連日、全国から集まるボランティア希望者の足となった。活動は、石巻市災害VCからインターネットを通して全国に配信され、連日、大勢のボランティア参加者を集めることに成功した。
復興支援を後押し
3週間で約2000人のボランティアを送迎。この活動は、石巻への災害復興支援の後押しとして大きな成果を上げたと自負している。その裏には、彼らの献身的な姿が見逃せない。彼ら「まごのてくらぶ」は、石巻市災害VC本部に到着後、直ちに、ボランティア参加者のグループ編成を行い本部の指示を仰ぎ、連日、ボラバス送迎支援のほかに、引率してきたボランティアのリーダー的存在となって活動現場に入り、労力支援にも加わった。文字どおり『ボランティアのためのボランティア』を実践した形である。
さらには活動終了後、本部で報告書を作成。提出後、行き同様ボランティア参加者をボラバスに乗車させ、仮設バス発着所(仙台駅東口)へと送り届け、笑顔で最後まで見送っていた。その後「まごのてくらぶ」の学生は、その日の反省・改善点をまとめ翌日担当者に伝えることで、長い一日の活動が終了した。こうした、彼らの被災地ニーズに応えようとする使命感と、被災者と一緒になって復興に取り組もうとする姿勢、献身的できめ細かな支援活動は、震災発生から1年以上が経過した今でも、ボランティア関係者から高い評価と称賛を得ている。
最後に、学生や教職員に望まれるボランティア活動の三つの柱として、@被災地域の復興を自分の課題として捉える感性、A被災地域の復興活動に意義と誇りをもつ使命感、B被災地域の人たちと一緒になって復興に取り組む姿勢が不可欠かつ重要であることを付け加えたい。