平成24年6月 第2486号(6月20日)
■シンガポールの教育事情
人的資源が唯一の資源
マレー半島の最南端に位置し、東京都23区ほどしかない国土に508万人(国勢調査Census 2010)がひしめくように暮らす都市国家シンガポールは、土地はもとより、食糧も飲み水までも周りの国々に頼らざるを得ない「超資源貧乏国」でもある。そのため、優れた人材を中心に人間そのものが活動して富を構築することを通じてしか、国を存続させることはできないという強い認識が、独立時からシンガポール国民の間で広く共有されてきており、学校教育などで強化されてもきた。
国の人的資源を最大限に活かすべくシンガポール教育省に充てられる歳出予算が毎年常に全体の2割以上を占め、国防省に次ぐ規模であることはその認識に基づくものであり、またそれだけでは足りず、海外の労働力と人材を吸収すべくシンガポールが移民政策を積極的に推進し続けてきたことも同じ認識から生まれたものにほかならない。国勢調査2010年によれば、シンガポールで暮らす総人口のうち、国籍を持つ国民と永住権を持つ居住者はそれぞれ323万人と54万人しかいなく、両方を合わせても全体の75%にも満たないことがその事実を物語っている。
二言語政策とストリーミング制度
そもそも、中国系76.2%、マレー系15.1%、インド系7.4%とそのほかの民族1.3%からなる多民族国家シンガポールでは、3、4世代も遡れば国民のほとんどの祖先も、より豊かな生活を求めて遥々中国やインドと周りの国々からやってきた移民なのである。最初の移民の多くが中国とインドのような「場所が変われば言葉も変わる」という「方言大国」から来ているゆえ、シンガポールにおいて言葉、引いては教育の問題は初めから複雑であった。たとえば、ひとこと「シンガポールの中国系」といっても、福建系、広東系、海南系、客家系、上海系などという非中国系でもわかる違いもさることながら、同じ福建系でも福州系、福清系、南安系、アモイ系、安渓系などにさらに枝分かれし、同じ福建語といってもそれぞれ言葉も発音も違ってくる。
このような背景から、独立した一九六五年当時、シンガポールではまず北京語を基準とした「華語」を中国系同士の標準語にし、そのうえでイギリス植民地時代からの行政用語である英語をシンガポール人同士の共通語にする必要があった。この共通語政策を強めるため、教育制度にも二言語政策が導入され、中国系なら華語と英語を、マレー系ならマレー語と英語を、インド系なら南インドの言葉であるタミル語と英語を学校で学ぶことになったのである。そして、シンガポールにおいて児童・生徒を能力別に分けるストリーミング(Streaming)制度が導入されたきっかけとなったのも、まさにこの二言語政策であった。
独立から間もない頃に実施された二言語政策のもとで、言語能力の乏しい児童・生徒にとって学業の負担が重く、そのため学業について行けず学校を後にする者が年々増えていった。当時の教育省レポートによれば、70年代の半ばにおいて小学校と中学校における平均中退率がそれぞれ29%と36%にものぼり、高校進学率は14%という非常に低いレベルにとどまっていた。問題の根源は、二言語政策が強化されるなかで、85%もの子どもが家で話されない言葉で学校の授業を受けることになり、そのため多くの児童・生徒が進級できず、学校を中退せざるを得なくなったことにあると同レポートは報告した。
人的資源理論の視点からみれば、そうした小中学校の中退者はいわば教育の「浪費」(wastage)であるとされ、このような「浪費」を解消するためには二つの方法しか考えられなかった。一つは教育に「ゆとり」をもたらすべくカリキュラム全般を簡易化すること、もう一つは潜在的中退者の異なる能力に合わせたコースを設置することであった。優秀な人材の育成を国策の柱とする政府が選んだ道は言うまでもなく後者であった。
こうして小中学校の児童・生徒を主に言語能力別に振り分ける三線分流型のストリーミング制度が1979年に初めてシンガポールで導入されたのである。したがって、小学校から始まるストリーミング制度は、旧宗主国だったイギリスの一昔前の「11才試験」(11-plus examination)を受け継いだのではなく、二言語政策を徹底させたことが発端なのであった。
近年の動向
ただし、現首相のリー・シェンロン氏が2004年に就任したことに伴い、シンガポール教育制度の今後について「少なく教え、多くを学べよ」(Teach Less Learn More)という新しい方向が打ち出され、知識伝達型の教育から脱却すべく、さらに児童・生徒の多様性に対応し学校教育の柔軟性を高めるために、義務教育段階である小学校におけるコース別のトラッキング制度は2008年を最後に事実上廃止され、その30年間にわたる歴史的な役割を果たし終えることになった。
その代わりに、Subject-based Bandingという教科ごとの習熟度別編成が導入され、児童たちは違う形で振り分けられるようになった。能力別の振り分けから児童たちが完全に解放されたわけではないものの、コース別のストリーミング制度によって生まれるあからさまなレッテルがなくなることだけでも、この改革の動きを支持する声が多かった。
一方、義務教育でない中等教育におけるコース別のストリーミング制度は今でも続いており、教育省が毎年発行するEducation Statistics Digestの2011年版(ESD2011)によれば、2010年において中学校レベルで上位の急行(Express)と下位の普通(Normal)のそれぞれのコースに在籍する中学校1年生の割合は61.2%、38.8%であった。同Digestによれば、小学校修了試験(Primary School Leaving Examination、略PSLE)の合格率は毎年およそ98%で、合格した小学生はその後中学校におけるいずれかのコースに入学することになる。もっとも、PSLEに2回以上挑戦しても合格できなかった小学生は職業訓練系の学校に入る選択肢もある。
なお、4年制の急行コースの中学生が卒業時にGCE'O'(Ordinary)レベルの試験を受けるのに対して、同じく4年制の普通コースの中学生は難易度のより低いGCE^n'N'(Normal)レベルの試験を受けることになる。'N' レベルで良い成績を収めた生徒は中学5年に進級し、1年後にGCE'O'レベルの試験にチャレンジすることもできる。
また、日本と同様にシンガポールでもIntegrated Programmeという中高一貫教育を行う学校が年々増えており、その数は2011年現在の11校から2013年には全体の中学校数の約12%にあたる18校になる計画である。これらの中高一貫校の入学対象者は基本的にPSLEでの成績が優秀で、4年後の中学校修了試験にあたるGCE'O'レベルを受けずとも優に高校まで進学できると目される小学生である。さらに、多様性(Diversity)と柔軟性(Flexibility)という新しい教育方針の二つのキーワードのもとで、Sports School、School of the ArtsやSchool of Science & Technologyなど特殊分野に特化し、普通言われている「学力」だけを求めないような新しいタイプの中学校と、情報通信技術を活用し21世紀型学力を育む「フューチャースクール」が近年増えつつあることもここで記しておきたい。
中学校卒業後の進路先
複線型教育制度を展開しているシンガポールにおいて、中学校のコースや成績などによっては無論進路が変わってくる。前述した中高一貫校で学ぶ生徒を除き、中卒者が入学できる公的教育機関は基本的に、大学進学を目指させる二年制Junior College(JC、学校数:12校)と3年制のCentral Institute(CI、学校数:1校){もっとも成績の優れた中卒者は先述の中高一貫校の高校部に入学することもできる}、もしくは卒業後の就職を前提とする3年制のポリテクニック(学校数:5校)および2年制の技術教育校(Institute of Technical Education、ITE、学校数:3校)のみである。
卒業生の年齢や進路および教育制度における位置づけ等を日本の制度に照らし合わせて比較すると、JC/CIは普通科進学高校に、ポリテクは高等専門学校に、ITEは専門科高校に近い性格をそれぞれ持っていると考えられる。ただし、中等後教育修了時点で、直接に大学への入学が許されるのは、大学入学資格試験にあたるGCE'A'(Advanced)レベルをクリアしたJC/CIの生徒とポリテクの優等生に限られる。ITEの卒業生についていえば、進学先はポリテクのみとなる。
もっとも、ITEの学生でも頑張って良い成績を収め続ければ、ITEからポリテクへ、そしてポリテクから大学へというふうに、アカデミックな能力を基準とした選抜ルートとは手段も評価基準も異なる「敗者復活ルート」を通じて学歴を高めていくこともできる。
なお、日本の高校や高専などに比べるとシンガポールの学校規模は一般的に非常に大きく、とりわけポリテクやITEについて一校につき入学者数は全日制の学生だけでも毎年優に4000人を超える。また、ESD2011によれば、2010年においてJC/CI(中高一貫校を含む)・ポリテク・ITEへの同年齢層の進学率はそれぞれ27.7%、43.4%、21.0%であった。一方、これらの教育機関に入学しない残りの8%弱の中卒者には“軍事学校”民営のホテル学校や情報・ビジネス専門学校に入るか、留学もしくは就職するかという道はある。
大学への進学
シンガポールの各国公立大学の創立年と入学者数を示したのが表1である。4番目のSITは、国内の五校のポリテクと海外の10校の大学のタイアップによって設立され、ポリテクの卒業生に新しい大学進学機会を提供することを主な目的としている、新しいタイプの大学である。SITと学位認証協定を結んでいるイギリスのマンチェスター大学、アメリカのウィーロック・カレッジやアイルランドのトリニティ・カレッジなどを含む海外大学のリストについては'http://www.singaporetech.edu.sg/about/overseas-universities'をご参照いただきたい。
さらに、今年初めて新入生を迎えた五番目のSUTDは米マサチューセッツ工科大学および中国の浙江大学と広範囲にわたる提携を交わしており、学術的知識を教えるだけでなく、発明や起業を促す風土を作ることで既存の大学と異なる教育を提供することを目標としている。
ESD2011によると、2010年の国公立大学への同年齢層の進学率は26%であり、さらに2015年にはこの比率を30%に引き上げるという目標も教育省によって発表されている。ただし、この進学率は基本的に表1に示した国公立大学への入学を果たした同年齢層の比率であるため、私的教育機関の教育課程もしくはシンガポールでは盛んである海外留学などを通して学士資格を取得した人は含まれていない。国勢調査によれば、国籍もしくは永住権を持つ25〜39歳若年層の大卒比率が、1990年には6.7%であったものの、2000年に21.6%、2010年になると44.7%に上昇したことから、近年高学歴の新移民の増加に加え、若いシンガポール人を中心に私立の教育機関や海外留学、あるいは社会人になってからのリカレント教育などを通して、学士学位を獲得した人も少なくないということがうかがえる。
私立高等教育機関については、中等後教育に関するシンガポール教育省のウェブサイト'http://www.moe.gov.sg/education/post-secondary/'にも掲載されているように、2005年に大学への昇格を果たした私立のシンガポール経営学院大学^n(Singapore Institute of Management University)のほかに、シンガポールに分校を設立しているアメリカのデジペン工科大学やフランスのインシャードビジネススクールとドイツのミュンヘン工大学などの大学の分校も多数あり、海外から来る留学生にだけでなく、シンガポール人にも多様の進学機会を提供している。
シンガポールにおける学歴別賃金格差〜警察庁の賃金構造(初任給)を事例に〜
激しいストリーミング制度を徹底しているシンガポールでは、言うまでもなく高学歴は高い社会的地位へのパスポートを与えてくれる。
また、学歴による賃金格差によって国民の教育アスピレーションも常に加熱されている状態にある。さらに多くの場合には、学歴だけでなく、学校での成績までが初任給や賃金に影響を与えるのである。それでは、シンガポールにおいて学歴がもたらす「金銭的便益」についてみてみよう。
表2はシンガポール警察庁(Singapore Police Force)の求人ホームページ(http://www.spf.gov.sg/beextraordinary)に掲載されている学歴別初任給(月給)の一覧表である。当然ながら、シンガポールでも産業や職種によって初任給は多少異なるものの、国の重要機関の一つであるシンガポール警察庁の学歴別賃金構造は典型的な事例であると考えられる。また、警察官になるのに専攻は一般的に問われないため、表2はある意味で専攻による影響を無くし、学歴そのものがもたらす金銭的効果を如実に表わしているといえる。
それでは、まず上級警察官(Senior Police Officer)という職階級についてみてみよう。表からわかるように、この職階級には大卒者しかなれないことになっている。さらに、同じ上級警察官でも学位の「質」によって初任給は異なる。旧宗主国だったイギリスと同じように、シンガポールでは学士学位が優等学位と普通学位(Pass Degree)とに区分されている。両者の相違は課程の内容によるものではなく、総合成績の結果に応じて所定の得点を収めた者には優等学位が、収めなかった者には普通学位が授与される。
なお、優等学位には1級、2級のほかに、2級の上、2級の下や3級などの等級もあり、普通学位の2等級(成績が「良」か「可」か)と合わせて大学成績の達成度を表している。
表をみると、一級優等学位をもつ上級警察官の初任給(S$3754)が普通学位しかもたない上級警察官のそれ(S$2970)より26.4%も高いことがわかる。このように、同じ大卒でも学業の優秀さによって初任給や初職の種類・地位・階級、ひいてはその後の昇進昇格までもが影響されてしまうのがシンガポールの現実である。学歴だけでなく成績も重要な指標であるだけに、シンガポールの若者が大学を卒業するまで勉学に励み続ける理由が簡単に想像できよう。
一方、巡査部長(Sergeant)の階級となると、採用されるためにはポリテク卒のもつディプロマかGCE'A'レベルの資格が必要となる。表からは、ポリテク卒と比べて'A'レベル所持者の初任給が若干低くなっており、学歴としての価値ではディプロマよりも'A'レベルが少し下のほうに位置づけられていることがわかる。英語力が問われる'A'レベルで良い成績を収め、大学に直接入学を果たす自信のない中卒者がJC/CIよりもポリテクへの進学を選ぶ所以がここにある。
つぎに、巡査(Corporal)になるための学歴と初任給をみてみると、ITEが授与する国家技能資格であるNitec(National ITE Certificateの略称)はGCE'O'レベル五科目合格と同等に扱われ、またレベルのより高い技能資格であるHigher NitecはGCE'O'レベル五科目合格よりも価値が上であることが表からもわかる。したがって、'O'レベルで良い成績を取れなかった中卒者や'N'レベルの資格しか持たない中卒者はITEへ進み、そこから学歴の階段を上っていけばよいということになる。
もっとも、表2に示した数字はあくまで初任給であり、就職後もこれまで述べてきた多種多様な進学機会を利用し学歴を高めれば、昇給も昇格も可能であり、そして、まさにこのことがシンガポールの若年層のモチベーションと「教育熱」を高く維持しているのである。
シム・チュン・キャット
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学、日本女子大学と昭和女子大学の非常勤講師。
著作に、「論集:日本の学力問題・上巻『学力論の変遷』」(山内乾史・原 清治編著)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第23章(日本図書センター)2010年、「シンガポールの教育とメリトクラシーに関する比較社会学的研究:選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年など。