平成24年1月 第2469号(1月25日)
■教員養成にとって哲学とは何か―教育哲学からみた教員養成 (3)
理論が実践を主導するという幻想
1990年代以降、「理論中心で実践との関連性が十分でない」(教養審第一次答申、1997年)といった教育政策の次元における診断と批判によって、教育の理論を請け負おうとしてきた教育学の存在意義が、とりわけ教員養成との関わりにおいて改めて問われることになった。だが、すでに同時期か、それに先行して、教育学のなかで「理論」と「実践」との関係について自己省察が進んでいたことは、見逃されてはならないだろう。
1980年代後半あたりから、「ポストモダン」、「言語論的転回」、「構築主義」、「物語」、「想起」などをキーワードにした教育学における議論のなかで、「理論」が言語を媒介とした構成物であることがよりいっそう自覚化され、「理論が教育の現実を写し取る」といった素朴な理論観は払拭された。そして、理論家によって生産された知識を実践家が援用するという一方通行的な〈理論/実践〉関係が疑問視されるようになった。
実は、こうした教育に関する理論と実践との関係そのものを問題化することは、20世紀末に突然生じた傾向ではなく、教育哲学においてはむしろ伝統のうちに属しているといった方がよい(cf.小笠原道雄編著『教育学における理論=実践問題』学文社、1985年)。ただ、この時期に新しかったのは、そのような問題がよりいっそう先鋭化されて、教育学者もまた教員養成という教育の「現場」の行為者であることが強く意識されたこと、そして、「実践」と呼んできたものにも入り組んだかたちで「理論」が混入しているという見方に対応した教育学の在り方があらためて模索されたことであった。
教員養成という「実践」の内部と外部の観察
こうした流れのなかで、教員養成に対する教育哲学の具体的な関わり方として、大きく二つの提案がなされている。
一つは、教師や教育実習生の「臨床経験」の反省において使用されるプロセスコードの作成に教育哲学が関与する可能性を模索するという、山口恒夫氏による提案である(山口2007(95):27ff.)。「反省的実践家」としての教師のみならず、教師になる実践家としての教育実習生のリフレクションに対するリフレクションに、解釈のトレーニングを積んだ教育哲学者が協同しようというのである。このことは、教員養成という「実践」のいわば内部に入り込んで観察することであると言い換えてもよいだろう。教師や教育実習生の「批判的思考力」を養成することに対する貢献へと連なっていくこうした提案は、別の観点と立場からではあるが、ホルン氏によってもなされている(ホルン2009(100):1ff.)。
もう一つの提案は、松浦良充氏によるもので、教育制度の次元にまで視野を広げつつ、教員養成において前提とされている教育概念や政策(ポリシー)の検討を通じて教育哲学による貢献の道を探るというものである(松浦2007(95):32ff.)。教員養成という「実践」を規定する政策の次元に焦点を当てるこの提案は、最初の提案との対照性を意識していえば、教育哲学による教員養成の外部観察と形容してよいだろう。
〈鼓舞する教育哲学〉と〈観察する教育哲学〉
かつて教育哲学には、教職への意志の鼓舞とでも呼ぶべき作用が期待されていたのではないだろうか。教育の古典家たちが、いかなる愛情をもって教育という困難な営みに立ち向かい、いかに苦渋に満ちた経験を強いられ、それでもなおいかにして偉業を成し遂げたのか。教育哲学の〈カノン〉(=あるディシプリンにおいて主要とみなされるテクスト)には、そのような古典家たちの姿を提示することによって、教育者の喜びや生き甲斐を伝達するという機能を果たすことが見込まれていたように思われる。
翻って、現代の教育哲学はどうか。教員養成との関わりに限定していえば、〈鼓舞する教育哲学〉にかわって、今日においては、上述の通り〈観察する教育哲学〉が主流である。他の諸科学と同様に、歴史的かつ体系的な文脈を踏まえたうえで複雑な社会を把握し、そのような社会のなかに学校を位置づけ直し、なおかつ学校という「教育現場」における実践上の拠り所を提示し、そして「現場」において求められる人材の育成に自らが貢献するような実効性を証明することが求められる。そのために切望されるのは、観察とリフレクションの方法と能力を高めることである。
「意味」への問いとの共存
そのような〈観察する教育哲学〉の眼差しは、当然のことながら、教育哲学そのものにも向けられる。かつて〈鼓舞する教育哲学〉において描出された教育の古典家たちの姿は、それ自体が構成されたものとして相対化され、その社会的機能が批判的に観察されるだろう。〈カノン〉を相対化するということは、たしかに「聖典」としての教育哲学テクストの信頼を、暫定的であれ括弧に括り、「信仰」を成立させているシステムの舞台裏をのぞき込む危うい作業であるにちがいない。〈カノン〉を相対化することによって生じうる「信仰」の揺らぎや「信者」の戸惑いを想定しつつ、それでもあえて〈カノン〉を相対化できるということは、しかし、学問としての進歩の証以外の何ものでもないだろう。
教育哲学が教員養成に対して複眼的な観察を行うことに対しては賛同を示しつつ、けれどもさらに求めたいことは、そのような〈観察する教育哲学〉と前回の記事で言及した生の「意味」への問いかけとの共存である。〈鼓舞する教育哲学〉の時代においても、若き教職志望者たちは、一直線に「教育現場」に導き入れられたとは思われない。かつて、人々は、教育哲学の〈カノン〉の読解を通して、教育独自の世界を想像し、期待もしたであろうが、そこに足を踏み入れることに躊躇し思い悩みもしたであろう。そうしたことをめぐって他者と言葉を交わすなかで人間の生の「意味」を、人間に対する働きかけとしての教育の「意味」を、そして教員になることの「意味」を追い求めたのではないか。
現在、もはや以前のようなかたちで〈鼓舞する教育哲学〉が継承されるとは考えられないし、そのような鼓舞の媒体が教育哲学の〈カノン〉である必然性もない。だが、「教育現場で求められているのは『哲学』なのですよ」というあの言葉が、そうした「意味」への渇望を表していたとすれば、〈鼓舞する教育哲学〉がかつて密かに担っていたかもしれぬ「意味」への問いかけ作用がどこかで代替される可能性については、熟考してみる必要があるのではないだろうか。(おわり)
(教育哲学会編『教育哲学研究』から引用および参照については、筆者名、発行年、巻番号、頁番号のみを示した。詳細は、『教育哲学研究』をご参照頂きたい)