平成24年1月 第2467号(1月11日)
■教員養成にとって哲学とは何か―教育哲学からみた教員養成 (1)
教員養成における理論と実践の架橋という古くて新しい問題に、教育哲学はどのような役割を果たすのか。教育哲学会からの提言として、このたびは京都大学大学院・教育学研究科の山名 淳准教授に教育哲学と教員養成について寄稿を頂いた。3回連載。
教育哲学的な問いとしての教員養成
今は昔。教員養成の問題は、元を辿れば、教育哲学の根本問題であったということができるかもしれない。よく知られるとおり、哲学を基盤にして学問としての教育学を打ち立てようとしたヘルバルトは、彼の主著『一般教育学』(1806年)において、「教育学とは、教育者が自らのために必要とする学問」であると定義した。そのうえで、彼は、謎めいた教育実践の世界へと教育者が分け入る際に有用な「地図」を、哲学にもとづく教育学によって手中に収めようとした。ただし、教育実践の謎が学問によってすべて解き明かされるとは、ヘルバルトは考えていなかった。だからこそ、彼は、臨機応変の素早い判断を「教育的タクト」と呼び、理論のうえに実践の〈余白〉部分を残しておいたのである。
そのような理論上の〈余白〉部分は、いかにして埋められるべきか。ヘルバルト派は、ヘルバルトの教育実践に関する考察にもとづいて、訓練学校(教職志望の学生が実習を行う学校)を教育学ゼミナール(教員養成機関)と連動させて教員養成を行うという方式を採用した。教員養成のシステムのなかに、実践のツボは実践のなかで身につける、という回路を埋め込んだのである。だが、教員養成のプロセスに実践的な要素を入れ込めばすべてうまくいくというほど、物事は単純ではない。「理論」の〈余白〉部分を「実践」で埋めるというが、前者から後者への〈決死の飛躍〉はいかにして可能なのか。「理論」と「実践」という二項図式が前提となっていることに問題はないかどうか……。時代の文脈は移り変わったが、教員養成をめぐるそのような根本問題は、今もなお存続している。
教員養成システムにおける哲学の周辺化
現在、教員養成の根本問題について考察するフィールドにおけるトップランナーは教育哲学であるとは、残念ながらいえそうもない。それどころか、教育哲学は長らく教員養成という問題への本格的な取り組みを怠ってきた、ということが、今日あらためて自覚されるようになってきた。少なくとも、戦後、最も早い時期に創設された教育学関係の専門学会の一つである教育哲学会、とくにその専門学会誌である『教育哲学研究』の歩みを辿り直してみるかぎり(cf. 岡部他 2009(100):82ff.)、1970年代までは、「『教員養成』はもとより教育行政の動向や教育実践に言及した論稿がほとんど見られない」(同上論文:100)状態であったことが浮き彫りとなる。1980年代あたりから、ようやく「教育現実」にかかわる問題が研究討議などで本格的にとりあげられるようになったが、教員養成の問題に関していえば、長きにわたって年次大会におけるシンポジウムなどのテーマとして掲げられることはなかった。「戦後教員養成理念の再検討」が研究討議の主題となったのは、ようやく1998年のことである。その後、2006年には「教員の養成教育において教育哲学の果たすべき役割とは」という課題研究が設定されている。
教育哲学が教員養成の問題に目を向け始めた1990年代後半という時期は、日本において教員養成の改革が志向されるなかで、「理論」と「実践」との伝統的な架橋問題が新たなかたちで問い直され始めた時期と一致している。このことは、たとえば、「理論中心で実践との関連性が十分でない」(教養審第一次答申、1997年)、「大学の教員養成における理論と教育現場における実践とが乖離していてはならず、その間に有機的な連携が確保されていなければならない」(教養審第二次答申、1998年)、「実践的な能力を持った教員を養成する」(在り方懇、2001年)といった教育政策に関する文書において、如実に看取することができる。21世紀に入り、学校現場が抱える課題への対応や「実践的指導力」の養成をめざすべく、「教職実践演習」の導入、教職大学院の創設、教員免許更新制の実施などをとおして、教員養成システムが大きく変化したことは、周知のとおりである。
教員養成改革が進行するなかで、教員養成システム全体における教育哲学の位置づけそのものが変化した。1998年、教育職員免許法の改正により、教育哲学関連科目は必修ではなくなり、選択必修科目となったことは、そのことを象徴しているであろう。「教育原理」という看板のもとに開講されてきた「教育の理念と歴史」に関する授業は、伝統的に教育哲学関係の訓練を積んだ者によって担当されることも多かったが、今ではそれも定かなことではない。それどころか、こうした原理系の授業においてさえ、思念上のトレーニングや修行を積んだ経験よりも、「実践との接触」経験の方が重視されることも少なくない。教育哲学が教員養成という問題から距離を取ってきただけでなく、今度は、教員養成システムの方から教育哲学に対して距離が置かれようとしている観が強まっている。
教育哲学の自己省察
そうした状況のなか、21世紀に入ってようやく、教育哲学界にも新しい傾向が生じているように思われる。教育学が専門分化したことによって、教員養成を専門領域とする研究者も増えるなかで、教育哲学関係の研究者やグループにおいても、この領域に関する調査や考察の試みが見受けられるようになってきた。教育哲学会特定課題研究助成プロジェクトとして、「教員養成課程における教育哲学の位置づけに関する再検討」(2008―2010年度、代表は林泰成氏)が立ち上げられた。『教育哲学研究』第100号(2009年)では、特集として初めて「教員養成と教育哲学」が組まれた。そのような学会活動のほかにも、教育哲学関係者が中心となって教員養成に関する研究調査が行われ、その成果が公にされ始めている(たとえば、渡邉満/K・ノイマン編『日本とドイツの教師教育改革―未来のための教師をどう育てるか』東信堂、2010年)。
教員養成という、それ自体が複雑な実践領域のなかで、教育哲学が周辺部分へと位置づけ直されたことによって、悪いことばかりがもたらされるわけではおそらくない。もともと教育哲学は、個別のみではなく全体を俯瞰するような観察にもとづいて、抽象度の高い思考を経たうえで、人間形成や教育の在り方を再考することを、主たる課題として請け負ってきた教育学の部分ディシプリンである。教員養成システムに対する一定の距離は、そのような観察者としての教育哲学にとって有利にはたらく可能性もある。時代が要求するスピード感からすれば、そのような構えは悠長にすぎるのかもしれない。だが、一見したところ合理的ではない部分をシステムが抱えていることが実は往々にして大局的にみるとシステムを支えていることは、多くの経験知によって支持されるところだ。
次号では、教育哲学界における教員養成にかかわる近年の議論をもとにして、教師になることとの関連で求められる教育哲学について考えてみたい。
(つづく)
(教育哲学会編『教育哲学研究』から引用および参照については、筆者名、発行年、巻番号、頁番号のみを示した。詳細は、『教育哲学研究』をご参照頂きたい)