平成24年1月 第2466号(1月1日)
■プロイセン東アジア遠征団が見た 幕末の江戸・長崎
1861年1月に日本とプロイセン(当時)の間で修好通商条約が締結されてから、昨年で150周年を迎えた。それを記念し、近畿大学中央図書館では昨年11月、同館所蔵の「プロイセン東アジア遠征団」公式記録と随行画家ベルクによるスケッチなど30点を展示した。展示されたスケッチとともに同大学の荒木康彦文芸学部教授に、同遠征団の見た日本(江戸・長崎)を解説してもらった。
プロイセンの東アジア遠征団
ナポレオン戦争後に開催されたウィーン会議(1814―15年)の結果、復古主義と正統主義を理念とする国際秩序(ウィーン体制)が成立し、ドイツでは35の君主国と四の自由都市から成るドイツ連邦が形成されたが、統一国家には程遠かった。また、戦勝国プロイセンが獲得したのはドイツ西部のライン地方であり、いわゆる「飛地」であった。そのため、プロイセンは近隣諸国との関税合同の動きを始め、1834年には18か国から成る関税同盟(Zollverein)を形成した。1850年代には関税同盟域内では産業革命が進展し、ドイツのほとんどの国々がプロイセンと経済的に結合されていった。この時期に生起したクリミア戦争(1853―56年)で英露超大国の動きが取れない中で、米国が日本と和親条約を結ぶことに成功した。日本は1858年には米・蘭・露・英・仏の5か国と、1860年にはポルトガルと修好通商条約を締結した。関税同盟加盟諸国などを代表してプロイセンが1859年に東アジア遠征団を組織し、シャム・中国・日本との条約締結のためにアルコーナ号以下の4隻から成る艦隊を派遣したのである。オイレンブルク(Fried^n−rich zu Eulenburg)伯爵が特命全権公使に任命され、書記官・公使随員・医師以外に地質学者フォン・リヒトホーフェン(von Richthofen)等の学術調査員や実業界の代表者たち、製図家や写真師、そして画家のベルク(Albert Berg 1825―1884)も遠征団員として参加していた。この4隻は整備などの都合で1859年夏以降に個々に発進してシンガポールを経由し、アルコーナ号は1860年9月4日に江戸湾に進入・投錨した。同月8日にオイレンブルク使節団は上陸して赤羽根接遇所に入り、その後オイレンブルクは老中安藤信睦と面談して再三条約締結を申し入れたが、受け入れられなかった。10月中はプロイセンの日本との条約締結交渉は暗礁に乗り上げた。だが、そうした時に朝廷の兵庫開港反対から、幕府は条約締結国の公使に5年間の兵庫開港延期の交渉を展開したのである。11月24日に米国公使ハリスは老中安藤との会見で、日普間で条約を締結し、それには兵庫開港の件は他国の条約と同様にするとだけ明記しておけば、条約締結国との兵庫開港延期の交渉の理由となると提案した。結局、安藤とハリスはこの路線で基本的な取り決めをし、即日ハリスはオイレンブルクを訪ねてそれを伝え、オイレンブルクもそれに基づいて交渉することに賛成した。12月13日に外国奉行の堀 利照がオイレンブルクと赤羽根接遇所で接見し、全権委任状を交換して、条約締結交渉を開始した。だが、ここでも難問が浮上した。それはオイレンブルク側が提示した全権委任状に記載のある「ドイツ関税同盟」に対して日本側から質問があり、それらの多数の加盟国と条約を結ぶことになるのに日本側の全権は驚愕した。堀に代って全権に任命された外国奉行の村垣範忠が、12月22日に赤羽根接遇所に来て交渉を始めた。全権委任状にある「ドイツ関税同盟」について、オイレンブルクからの詳しい説明もあったが、村垣は多数の国の国民の入国は認められず、プロイセン一国のみとの条約締結交渉であると主張した。12月24日に、プロイセン以外の「ドイツ関税同盟」加盟国などとの締結は困難であり、将軍はプロイセンとのみの条約締結を命じられたと安藤はオイレンブルクに説明したので、結局は若干の付帯条件を付けてそれで基本的に合意した。同月28日に赤羽根で外国奉行とオイレンブルクの間で条約草案が作成され、同月30日に草案の細部が手直しされた。1861年1月24日に赤羽根接遇所で日普修好通商条約が締結され、日本とプロイセン及びその属領のみとの条約になった。同月29日にオイレンブルク使節団が搭乗したアルコーナ号は江戸湾から発進。同月31日に横浜を出港し、2月17日に長崎に入港した。使節団は長崎で寛いだ後、同月24日に上海に向かって長崎を出港した。
自然画家ベルクの感動
48枚のフォトリトグラフ(そのうち日本を描いたもの23枚)を収録した、4巻から成る『公的史料に基づくプロイセン東アジア遠征記』(ベルリン1864〜73)(以下、『遠征記』)、大型のフォトリトグラフ60〇枚(そのうち30枚は日本を描いたもの)から成る『プロイセン東アジア遠征 日本・中国・シャムでの絵』(ベルリン1864〜73年)(以下、『図録』)が出版された。『遠征記』には著者名がなく、第1巻の序説にも人名表記がない。しかし第2・3巻にはベルクによる序言が収録されているので、『遠征記』は全体的にベルクの筆になるものと考えてよい。『遠征記』は、基本的には@ケンペルやシーボルトなどによる先行の日本研究を踏まえて日本の歴史・文化・政治・経済などに触れた部分、Aベルク自身が訪れた江戸・長崎とその周辺に触れた部分、B日普修好通商条約締結に至るプロセスとそれに付随することに触れた部分から成っている。そして、AとBは日本到着からの時間的推移順の記述になっており、Aの部分は当然滞在期間が圧倒的に長い江戸に関する記述がほとんどを占めており、それは条約締結交渉が長引いた意図せざる結果であろう。だが、収録リトグラフは神奈川1枚、約5か月滞在の江戸14枚、約1週間滞在の長崎8枚となっており、滞在期間の割合からすれば長崎の絵の割合が高いのが注目される。長崎から発信した1861年2月20日付のオイレンブルクの家族宛の書簡はベルクの創作活動に触れ、「ベルクは全くの忘我状態で、いくら目と手があっても足らないのだと主張した」と報じており、風景画家ベルクの長崎の風景に対する感動が反映しているのであろう。『図録』収録リトグラフの場合は、江戸が21枚、神奈川が1枚、長崎が8枚となっており、『遠征記』の場合より長崎のものの割合がやや少ないが、滞在期間を勘案すればやはりかなり高い。それから、I『図録』およびU『遠征記』の収録リトグラフの江戸・長崎のそれぞれの題材ごとに整理してみると、大略次のようになる。
I 江戸:14枚=寺社3・墓地0・自然8・都市3、長崎:8枚=寺社0・墓地2・自然3・都市3
U 江戸:21枚=寺社6・墓地3・自然6・都市6、長崎:8枚=寺社1・墓地4・自然2・都市1
『遠征記』の江戸14枚と『図録』の江戸21枚の計35枚を題材ごとに合計すると、自然14・寺社9・都市9・墓地3となる。従って、大都市の江戸も、ベルクにとっては都市景観よりも江戸の都市部内の行楽地の自然や江戸の郊外の自然が興味深かったことになり、自然画家の彼にすれば当然であったであろう。『遠征記』の長崎8枚と『図録』の長崎8枚との計16枚を題材毎に合計を出すと、墓地6・自然5五・都市4・寺社1となる。長崎では墓地の絵が多いことが注目される。長崎は16世紀末にイエズス会に寄進され、宗教的にはカトリックが一般的となったために、江戸時代には仏教が政策的に強く保護され、そのためもあり他の土地に比べて長崎では墓が非常に立派であり、祖先崇拝からキリスト教の墓地に比べて清掃が行き届いており、そうした点にベルクが鋭く気づいたと推測できよう。使節団にザクセン商業会議所全権として加わっていたシュピース(GustavSpiess)がその著書『1859年より1862年の間のプロイセン東アジア遠征』において「長崎の墓は非常に綺麗でかつ清潔で、非常に美しい信仰心が与えられており、キリスト教の荒廃した教会のそれとは異なる」と述べており、ベルクの感慨もそれに近かったのであろう。また、『遠征記』・『図録』、江戸・長崎を問わず題材ごとに合計を出すと、多い順に自然19・都市13・寺社10・墓地9の順となる。自然が圧倒的に多く、そこには、やはり自然画家ベルクの関心が自ずと現れていると言うべきであろう。
幕末の江戸・長崎
『遠征記』によれば、オイレンブルク使節団のメンバーは仕事の後やその合間に、毎日のように江戸の町を見て回っており、『遠征記』やオイレンブルクの書簡に具体的な地名と月日が言及されている場合がある。近畿大学中央図書館所蔵のベルクによる14枚のスケッチのうち地名表記無しの1枚を除けば、“Kanagawa”(神奈川)1枚、“Tanega−sima”(種子島)1枚、“Yevosima”(硫黄島)1枚、“Nangasaki”(長崎)4枚の他に、“Yeddo”(江戸)と記された6枚があり、この6枚には年代も記されているため、どういう状況下で描かれたかが分かる。例えば、1860年9月28日付の「オイレンブルク「書簡」には、同日の「王子」(Ohschi)への「素晴らしいハイキング」が触れられ、『遠征記』には1860年9月28日に、王子稲荷の境内の岩壁からほとばし出る泉を見たとされているから、“Yeddo 60,Odsi 60”と記された丹念なスケッチはこの時に描かれたと判断され、『遠征記』第2巻の4番目の図“Bei Odsi”(王子付近)の原画である。また、“Yeddo61”と記された2枚のスケッチの中の1枚には江戸城の大手門と思しき城門がかなり克明に描かれている。このスケッチは『遠征記』第1巻の3番目の図“Thor der Ringmauer des Taikun-Palastes”(大君宮殿の環状城壁の門)の原画をなしているものの、その図には原画に描かれていない人物が添景(Dekoration)として書き込まれている。
『遠征記』の長崎の叙述には、江戸の場合のように月日が几帳面に書き込まれておらず、“Nangasaki 61”と書き込まれている、近畿大学中央図書館所蔵のベルクの4枚の長崎のスケッチが具体的に何日に描かれたかは分からない。そのうちの3枚は『遠征記』収録のリトグラフの原画となっている。そのスケッチの1枚には小川が描かれ、ベルクのスケッチには珍しく人物が描かれ、小川で洗濯をしていると判断される。自然に溶け込み、自然と一体化した人物が描かれている。これは『遠征記』第2巻の5番目の図“Bei Nagasaki”(長崎付近)の原画であるが、この図では人物が洗濯桶と思しきものを頭に載せて立っている姿に変えられているのは興味深い。1861年2月20日付のオイレンブルクの書簡には「この都市を貫流する小川に沿って歩いた。その小川の堤と岸はどこでも絵のようである」とある。自然画家ベルクの美しい長崎の自然への感動があるといえる。“Nangasaki 61”の他の1枚のスケッチには“Daitekudsi”と記載されており、長崎を代表する寺院であったが、維新直後に廃棄された大徳寺を中心に長崎の風景が描かれている。このスケッチの中央部分が、遠征記』第2巻の9目の“Aus Nagasaki”(長崎から)の原画となっている。しかも、この大徳寺はシーボルトの『日本』(NIPPON)に描かれており、シーボルトを読み込んで来ているベルクには馴染のある描写対象だったのであったろう。
プロイセン東アジア遠征団が見た幕末の江戸・長崎は、シーボルトなどの日本研究を着実に踏まえたベルクの文章で克明に叙述されただけではなく、自然画家ベルクにより自然を中心にして多面的に、しかも日本への内在的理解をもって描かれたと言うべきであろう。